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廃語の風景⑤ ― 野良犬 [廃語の風景]

多摩の古民家:撮影;織田哲也.jpg

昨日 『月に吠える』 を書いたとき、引用した萩原朔太郎の詩の中に 「青白いふしあはせの犬」 という記述がありました。
そこからの連想です。最近身のまわりに野良猫はいても、野良犬はすっかり見かけなくなりました。
絶滅に近いのかといえばそうでもないらしく、厚生労働省の資料によると、たまに野良犬の被害について苦情が持ち込まれているようです。
「野良犬」 が消えたわけではなく、野良犬の生息できる環境が極めて限定的になったと言ったほうが正しいのかもしれません。
ちなみに野良犬の管轄は保健所で、野良猫は環境省らしいです。
狂犬病とのからみもあり、早くから保健所が野良犬の駆除に手を回したので、その効果が現在に現れているということでしょう。

小学校2年生のとき、私は野良犬に手を噛まれたことがあります。
自宅でも犬を飼っていたので、不用意に野良犬の頭を撫でようとしたのが原因でした。手の平に深くえぐったような傷がつき、出血は大したことなかったのですが、奥のほうにズシンとくる痛みがありました。
親に告白すると、はじめ真っ青な顔になって近くの大きな病院に強制搬送され、狂犬病の危険はまずないだろうと判断されるに至って、ようやく真っ赤な顔で怒られました。
昭和30年代後半のことですが、狂犬病の恐怖というのはそれほど身近なところに存在したのです。

保健所の犬狩り、などというものもありましたが、私は現場を見たことはありません。
友人の話によると、数人の男たちが犬を追い込み、セミとりの網を大きくしたやつで捕獲していたそうです。
近所の公園と河原の間ををウロついていた顔見知り(?)の野良犬もどうやら駆除されたらしく、銀玉鉄砲で狙撃する楽しみはいつの間にかなくなってしまいました。

昭和39(1964)年は、東海道新幹線の開通から東京オリンピックの開催に代表される年です。
昭和45(1970)年には、大阪万博が開催されています。
高速道路の開通や都市部における下水道の整備など、一気に近代化が進んだ時代と言ってよいでしょう。
その一方で消えていったものもたくさんあったはずです。野良犬もそんな時代の流れに飲み込まれ、沈んでいった命だったのかもしれません。

故・中島らも氏によると、大通りの端でいわゆる 「ヤンキー座り」 をしていると、「野良犬の目線」 になるらしいです。
通行人の顔ではなく腰、腰、腰ばかりが通り過ぎる風景をぼんやり眺めていると、「この人たちと自分とが何の関係もないんだ」 ということが実感でき、「安心して、少し哀しい気分がして、ようするにどうでもいいや」 という思いがするとのこと。
つまり野良犬そのものはあまり見かけなくとも、野良犬のような人になることはできるのです。
そう思うと無性に 「野良犬の目線」 が気になって、田舎の便所以外ではしないヤンキー座りを繁華街でやってみたくなります。というか、やってみたくてうずうずしちゃっています。

そんな思いに耽っている深夜、小雪の舞う自宅近辺の路上で狸を見かけました。
珍しいことではありません。近くの山には狸やハクビシンなどが生息していて、山を切り崩して開発された住宅団地には頻繁に姿を見せているのです。
きまって庭にため糞をされているご近所もあります。
狸のほうはいたって堂々としたもので、人間に気づいても害を与えないと知ると、えっちらおっちら向こうに去っていくだけです。
そういえば狸はイヌ科の動物、なんだ、野良犬は近所にもいたのでした。
寒さに負けず頑張って生き抜いてほしいものです。
間違っても保健所なんかに捕まるんじゃないぞ。もう銀玉鉄砲で撃ったりしないからさ。

http://www.youtube.com/watch?v=_ujNZshoCKU
15年前まで住んでいた多摩ニュータウンが舞台です。
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