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廃語の風景㉙ ― 行水 [廃語の風景]

終点・多摩センター:撮影;織田哲也.jpg

『廃語の風景』を書き始めた当初から、いちばん多く廃語になってしまったのは夏の風物詩にある言葉ではなかろうか、という気が何となくしていました。
『徒然草』に、「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる」という一節があることは幾度か紹介しました。
そこには、冬の寒さは何としてでも防げるが、夏の暮らしに配慮しない家にはとても住めたものじゃない、といった主張があります。
少しでも暑気をはらうために、古来より日本人は、衣食住の面で様々な工夫を重ねてきました。それがこの国の文化を支える大きな柱ともなってきたのです。

ところが、オフィスや家庭にエアコンが普及するようになってから、夏の暮らしに対する工夫が急速に消えていきました。
スイッチひとつで室内が冷却できるわけですから、「工夫」などする必要がなくなるのも当然です。
そればかりか、風通しよく作られた建物はエアコンにとってはむしろ無駄な存在となるので、密閉性の高い建築様式が採用されるようになってきました。
かくして現代の家屋からは、障子や欄間が姿を消しました。
夏の風物詩から廃語がたくさん生まれる最大の原因は、人が生活の利便性を追求したことにあると考えて、まず間違いはないでしょう。

子供の頃、母は私にときどき「行水」をさせてくれました。
あまり広くない裏庭に盥(たらい)を置き、ぬるめの湯をはって、青空の下で「入浴」するのです。
家に風呂がなかったわけでなく、私も入浴が嫌いな子供ではなかったので、この行水は半分プール遊びのようなものでした。
盥は直径1メートルほどの木製で、もともとは洗濯に使われていたものだと母から聞きました。

現代でもビニールプールに水をはって、家庭で手軽にプール遊びをするのは子供の娯楽として定着していますが、それと行水は、本来似て非なるものです。
プール遊びは文字通り「遊び」ですが、行水はあくまで「入浴」なのです。
今から半世紀以上前の庶民生活では、そんなに贅沢に湯水を使うことはできませんでした。お風呂だって、毎日毎日沸かして入れる家庭は少なかったと聞いています。
だから真夏の炎天下に汗をかいたとき、湯の量も少なくて済む行水は、庶民の楽しみとなっていたわけです。

私が子供の頃に経験した行水は、現代のプール遊びとほぼ同じ意味でした。
それでも湯から上がって新しいシャツに着替えると、風呂上りと同じように気分はサッパリ。三ツ矢サイダーでもあれば最高だったでしょう。
庶民的な暮らしの工夫は、意外にも「贅沢」な気分を味わえる画期性を持っていました。

バスルームでシャワーを浴び、気密性の高い部屋にエアコンをかけて涼むのは簡単ですが、家の裏庭で夏の太陽に裸身を晒しながら入浴するという、あの開放感と贅沢さ加減は、設定温度を下げてキンキンに冷やしただけの部屋の中には決してあり得ないものなのです。

http://www.youtube.com/watch?v=IbFafks2Uoc

廃語の風景㉘ ― 夏やせ [廃語の風景]

豊田電車庫遠景:撮影;織田哲也.jpg

『廃語の風景』を書いていくなかで、これは「廃語」なのか、それとも「死語」なのだろうか、と迷うことがずいぶんあります。
「廃語」と「死語」を同一に見る向きもありますが、私はこの両者を区別して書いています。
「死語」は、それが表す物事は今でも存在するけれど、言葉だけが忘れ去られたものと規定しています。「ナウなヤング」がその典型例と言えます。
それに対して「廃語」は、その指し示す物事自体がなくなってしまったために、言葉も追随して廃れていったものを指す、と私の中では区別して考えています。
典型的な例としては「国鉄」なんかがそうです。「国鉄」時代に走っていた電車が今でも走っているのに、「国鉄」という風景は過去の遺物として歴史に名をとどめるのみの存在。
そん言葉を集めて少しばかり語ってみようと思ったのが、『廃語の風景』というテーマの原点なのです。

では「夏やせ」はどうなのでしょうか?
意味としては、夏の暑さにあてられてついつい食欲不振におちいりがちになる、だから夏にはげっそりとやせてしまう、といった生理的現象を表す言葉です。
これは「死語」なのか「廃語」なのか。
似た言葉に「夏バテ」があります。もちろん現在も生きている言葉ですが、「夏バテ」と「夏やせ」は、似ているようで違います。
現に夏にバテている度合いは、やせている人よりも太っている人のほうが著しいように思えます。

話しは少し変わりますが、ダイエットに最も適した季節は、冬だそうです。
夏はダイエットには適した季節といえません。汗をかくから夏は痩せやすいと思ったら大間違いらしいです。
どういうことかと言えば、適正な体温の維持に関して、夏場はエネルギーを使う必要がほとんどありません。放っておいても、必要な体温は確保できる。つまり、基礎代謝のいちばん少ない季節が夏ということなのです。
それに対して冬場は気温が低いので、適正な体温を維持していくのにエネルギーを使います。すなわち、基礎代謝量が大きいというわけです。
だから、ダイエットするなら冬場がいい。私の主治医もそのように申しております。生理学的にみれば、夏はむしろ太りやすい季節と言えるでしょう。

だから、基礎代謝量の少ない季節に「夏やせ」してしまうのは、よほど食欲をなくして、体力が衰えているからということを表しています。
そう考えれば、「夏やせ」は、エアコンの完備していなかった時代の言葉なのでしょう。

その「夏やせ」を防ぐ方法は、とにかく食欲を増進させて、少しでも多く栄養を摂ることです。
エアコンのよく効いた室内で焼肉を腹いっぱい食べるといったことが望めなかった時代に、冷たい素麺や冷や麦といった夏特有の食べ物が、庶民の間に定着しました。
井戸で西瓜(すいか)を冷やし、食塩を振って食べるという夏の風物も、熱中症対策としては合理的なものです。
「涼をとる」とは、今ではそれこそエアコンをつけることに他なりませんが、かつての日本人は自然と向き合う中に様々な工夫を凝らして、この苛烈な季節を乗り切る智慧を絞り出していたのです。

この夏の暑さあるがゆえに、日本人は智慧と工夫の民族たり得たのではないかと、私は本気で思っています。
「夏やせ」してしまうことは災難な話ですが、抑圧が延びしろを育成する事だって、いままでずいぶんとありました。

私は、夏の暑さを、きっと愛しているのだと、そのようにしみじみと想う8月31日です。
夏はまだ終わりません。

http://www.youtube.com/watch?v=HvOHMrdVhOg

廃語の風景㉗ ― 風鈴 (あるいは feeling) [廃語の風景]

夏・公園:撮影;織田哲也.jpg

いつの頃からだろう、風鈴の音を聴かなくなったのは…。

夏になると、必ずスーパーでもデパートでも、風鈴を売っているコーナーがあったように記憶しています。
いえいえ、風鈴売り場だけの話ではありません。
電器店に行けば、エアコンのコーナーには必ず風鈴がいくつも設置されていて、涼しさの象徴として大きな役割を担っていました。
素麺のCFには、必ずと言っていいほど、風にそよいで軽やかに鳴る風鈴の音色が添えられていたと覚えています。
あの風鈴は、どこに消えてしまったのでしょうか。

当たり前の話ですが、風鈴そのものやその音色がいくら美しくとも、涼風を起こしてくれる機能があるはずもありません。
それはあくまでも気分の問題。
チリンチリンと響く音色は、昔から高温多湿の夏の重苦しい大気に、ほんのわずか気の流れを気付かせてくれるというだけの、言ってみれば「気休め」でしかないのです。
けれども日本人は、その気休めに風情を感じることで、文字通り気を休めていたのです。「暑いわねぇ」とか何とか呟きながら、団扇(うちわ)で額に滲む汗を乾かしながら。
灼熱の陽光のなかに、人も動物も、セミの鳴き声も夕立の雷さまも、団扇も風鈴も、額の汗もかすかな風も、ひとつに重なって溶け込んでいたのが、日本の夏だったのではないでしょうか。

あるサイトによると、風鈴の音は「近所迷惑」であると訴えられる場合があるのだそうです。
この『廃語の風景』というシリーズを始めたとき、決して「昔は良かった」という記事にはしたくないというコンセプトを持っていましたので、そんな主張をするつもりはありませんが、ならば翻って考えると、このようには言えますまいか。
「風鈴の音色が近所迷惑になると主張する人は、よほどこの国の文化に馴染めなくなってしまわれたのですね」と。
もちろん、こうした考えが巡ってしまうとき、哀しい気分の起こるのは否めません。

夏といえば暑い、暑いといえばエアコン。
昨今の熱中症対策も考えれば、それはある意味正解なのかもしれません。
でもねえ、空調のバッチリ効いた部屋で甲子園の熱闘を視ていても、感動は薄いんですよ。
風鈴の音色や素麺・西瓜の口当たりの良さで身も心も少しずつ潤しながら、夏の暑さそのものを楽しむ、それがこの国に生まれた甲斐というものではないでしょうか。

決して無理をしようと勧めているわけではありません。暑い寒いというときには、冷房も暖房も人には必要なのです。
ただ、人工的に調節された環境にどっぷりつかっている生活の中でも、わが国が古来より継承されてきた「わび・さび」の文化を少しでも失いたくないと考えているだけなのです。

エアコンの効いた部屋の中でも、ときどき鳴らしてやる風鈴の音は意外に新鮮なものです。
こればかりは理屈で伝えようとしても、まったく始まりません。
なぜなら、夏ほど「思う・考える(think)」ではなく、「感じる(feel)」季節はほかには見当たらないからです。

http://www.youtube.com/watch?v=MpoORSGqV9A

廃語の風景㉖ ― 蚊帳と蠅帳 [廃語の風景]

E257@豊田:撮影;織田哲也.jpg

前回、蚊の記事を書いて、ついでに蠅も登場したことから、今回の廃語は 「蚊帳(かや)」 と 「蠅帳(はいちょう)」 にしました。

ウチには30歳と27歳の娘がいますが、どちらも蚊帳の中で寝たことはないと言います。
私が子供の頃には、どの家庭でも寝室には蚊帳を吊っていました。
ちょうど長押(なげし: あ、これも廃語?)のところに金属製のフックをかけて、室内全体を麻または化繊の網で覆い、家族はその底で川の字に布団を並べて、暑い夏の夜を過ごしていました。
蚊帳は文字通り、室内に蚊が侵入するのを防ぐための道具です。
同時に風通しをよくして、少しでも室温を下げるための暮らしの知恵でもあったのです。

蚊帳は、実は日本特有の知恵というわけではなく、古代よりエジプトや中国で重宝されていました。
現在でも世界中で使われ、とくにマラリヤやデング熱など蚊が媒介する病気が多く発生する国に対しては、WHO(世界保健機構)がその効果を宣伝し、使用を推奨しているほどです。
それだけでなくわが国は毎年、ODAを通じて、ナイジェリアやタンザニアなどの国に蚊帳を提供しています。
つまり今でも蚊帳は、国内生産されているわけです。
ところが国内で蚊帳を使っているなど、実態はどうか知りませんが、私はまったくそんな例を見かけなくなりました。

私の実家で蚊帳を使わなくなったのは、おぼろげな記憶で申し訳ないのですが、ルームクーラーが取り付けられるようになった頃からではないかと思います。
ルームクーラーはエアコンの前時代的なものです。人為的に部屋を冷却するため、当然、部屋を閉め切って密閉状態にすることが前提です。
あちこちを開け放して風を通し、一部屋だけ蚊帳を吊っているという生活様式とは、180度違ったコンセプトです。
ルームクーラーはアルミサッシ窓枠の普及とも関係が深いでしょう。
アルミサッシは窓を開けても蚊の侵入を防ぐ網戸を備えており、ガラス窓を閉めれば空気の流れを完璧にシャットアウトする構造になっているからです。

蚊帳は蚊の侵入を防ぐのが最大の目的ですから、出入りするときは素早く、しかも小さくなる必要がありました。
ところが蚊帳は、部屋の中に設置された秘密基地のようなワクワク感を子供に与えたので、どうしてもはしゃぎまわってしまいます。
子供は何度も出入りを繰り返し、立ったまま網を大きくめくり上げたりするものですから、蚊は当然その隙をついて入ってきます。
両親はそんな不手際を叱りながら、蚊帳の中で出口を失った哀れな蚊をなんとか仕留めようと必死でした。
私の記憶の中では、そんな風景は夏の風物詩のひとつです。

小学校5年生か6年生のときの林間学校で、高野山の宿坊に宿泊しました。
何十畳という座敷に、それこそ何十畳分の巨大な蚊帳を吊り、布団を敷きながら枕投げに講じたこともいい思い出です。
眠りにつく前、明かりを消してひそひそ話の時間帯、蚊帳の外は戸も開け放され、宿坊の庭や門が座敷から見えていました。
薄い網の繊維を通して外界と繋がって眠るという状況は、高野山という霊場にふさわしい神聖さと恐怖とを同時に運んで、布団にくるまった私たちを神秘の世界に誘(いざな)いました。
これが、蚊帳についての、私の最後の記憶となっています。

蚊帳の経験がない娘たちも、意外なことに蠅帳(はいちょう)は知っていると語りました。
彼女たちが知っている蠅帳は、いわゆるキッチンパラソルのことで、頭頂部の紐を引っ張ると網がパラソル状に開くものです。
これを食べ物が盛り付けられた食器の上にかぶせておくと蠅にたかられる心配がない、というお手軽な道具で、確かに娘たちの子供の頃に使っていました。
同じものは私の子供の頃からありましたが、本来 「蠅帳」 というのはそれを指すものではありません。
食器棚の一部が網を張った引き戸になっていて、その棚の中に食べ物の入ったお皿を保存しておくという機能のものを指します。
これは以前にも書きましたが、昔の台所というのは今のダイニングキッチンのように家屋の真ん中にあるものではなく、どちらかといえば裏手のじめじめしたところにあるのが普通でしたから、食器棚の蠅帳の中に料理を保存するというのは、それだけでも痛むのを防ぐ効果があったわけです。
今ではそういう発想にはなりません。昔よりはるかに大型の冷蔵庫が普及しています。
だから痛みやすいものは、ラップをかけて冷蔵庫で冷やします。
凍ってしまいそうなくらい冷やしても、レンジでチンすれば、いつでも暖かいものが食べられるという寸法です。

蚊帳も蠅帳も、多彩な電化製品によってこの国から追い出されてしまった、と言うことはできるでしょう。
それでも世界を見渡せば、今でも遺憾なくその力を発揮している道具たち。
どちらが幸せな風景かはいちがいには言えませんが、エコロジーの観点からすれば、あまりにも電力消費に頼りすぎている生活様式には疑問符がつきます。
高温多湿の夏の環境を実感できない不健康さと、そこにあるべき暮らしの工夫から手を離してしまっていることの理不尽さは、人類の知恵の幼児化に繋がりはしないのか。

夏は蒸し暑く、虫たちが喜び、ものは腐りやすい。
そんな当たり前の夏をあえて望んで過ごすという生き方も、未来への選択肢としてあっていいのではないかと、私は思っているのです。かなり本気で。

http://www.youtube.com/watch?v=pM9MCsk2H0U

廃語の風景㉕ ― ウルトラC [廃語の風景]

成田エクスプレス(八王子-成田):撮影;織田哲也.jpg

ウルトラマンの新シリーズでも、レモン果汁入り炭酸飲料でもありません。
『ウルトラC』 は、「最高の技、とっておきの秘策、大逆転を生む決め手」 といった意味を表します。
もとは体操競技の技の難度からきています。現在はA難度からG難度に分類され、G難度が最高ですが、1964年に開催された東京オリンピック当時は 『ウルトラC』 が最高難度でした。

用例としては、例えばクラスの誰もが力でかなわないノブナガ君を、ミツヒデ君が鮮やかな奇策でやっつけてみせたとき、「ミツヒデのウルトラCが決まった!」 と言うわけです。

体操男子は1960年のローマ大会で団体優勝しており、東京オリンピックでの活躍は国民的期待を集めていました。
実際、ベテランでチームリーダー・小野喬選手が不調ながらも団体2連覇を果たし、新エース・遠藤幸雄選手は日本人初となる個人総合優勝の栄冠に輝きました。
個人競技でも金メダル銀メダルをそれぞれ3個ずつ獲得するなど、体操男子チームは多くの日本人にとって、この大会の華とも言える存在でした。

西欧人に比べ体格に劣る日本選手は、さまざまな競技で不利な戦いを展開していました。
体格の差は体操選手も例外ではなく、同じ技ではどうしても見劣りがしてしまいます。
日本チームの活路は、難しい技を高い完成度で成功させる、という一点に求められていました。『ウルトラC』 はまさにその象徴だったわけです。
作戦はものの見事に成功し、前述の好成績をもたらし、さらに時代の流行語までも生み出していったのです。

体操競技からはほかに、「ムーンサルト - 月面宙返り」 という流行語が生まれています。
1972年に塚原光男選手が成功させた 「後方1回宙返り2分の1ひねり、前方1回宙返り2分の1ひねり下り」 という技のことで、国際的な公式名称は 「ツカハラ」 です。
「月面宙返り」 は、米ソの宇宙開発競争という時代の中から生じた俗称でした。
体操だけでなく他のスポーツからも、いくつもの流行語が発生しました。
記憶に新しいところでは、2006年トリノ・オリンピックで、フィギュアスケート女子・荒川静香選手の決めた 「イナバウアー」 などその代表でしょう。

けれども、「月面宙返り」 や 「イナバウアー」 と、『ウルトラC』 とを比較すると、そこには言語として明らかな差が存在します。
「月面宙返り」 「イナバウアー」 ともに技の名称であり、その技以外の意味を表すことができません。せいぜい 「月面宙返り並みの難しさ」 とか、「後ろにのけぞった状態」 を比喩的に表す程度の応用範囲しかないのです。
これに対して 『ウルトラC』 のほうは、冒頭に挙げた用例のように、普通の会話の中で 「最高の技、とっておきの秘策、大逆転を生む決め手」 という意味を表すことができたのです。
一般の生活とはかけ離れたところにある特殊なスポーツ用語が、こうした流行の仕方をしたなど、私はほかの例を知りません。きわめて稀有なケースでしょう。

こうした現象には、時代背景が大きくかかわっていると思われます。
1964年開催の東京オリンピックは、第二次世界大戦で焦土となったこの国が、目覚ましい復興から繁栄をきたし、国際社会の最前線へ復帰することを、目に見える形で訴えました。
と同時に、日本だけでなくアジア地域で最初の開催であったこと、有色人種国家が初めて開催国になったことには、世界史的な意味がありました。
アジア、アフリカ諸国から初出場の国々が一気に増え、当時としては史上最多の参加国数を記録したのです。
柔道が正式種目となった最初の大会としても、記念されるものです。

多くの国民が 『ウルトラC』 という聞き慣れない言葉にこうした時代のシンボルを、「最高の技、とっておきの秘策、大逆転を生む決め手」 を求めたのだと解釈して間違いはないでしょう。

いま、2020年開催の第32回夏季オリンピックを東京に誘致しようと、活動が活発になっています。
未曾有の被害に見舞われた東日本大震災や、バブル崩壊後の 「失われた20年」 から脱却し、再び世界のナンバーワンへ、と意気込む気持ちは分からなくありません。
その気持ちは1964年の頃と比べて、より大きいのか小さいのか、あるいは同じ程度なのか。
二度目の東京オリンピックは国民の意識を一変させるほどの影響を、顕すのか顕さないのか。
いったい人はいま 『ウルトラC』 を、強く希求しているのかいないのか。
私には正直なところ、判断がつきません。

テレビの画面を食い入るように見つめ、一生懸命に日本人選手を応援をしていたかつての小学3年生の姿は、私の記憶の中には鮮明に残されていますが、全身を巡る血液の中からは既に消えているような気がしてなりません。
それが年齢のせいなのか、あるいは時代のせいなのか、それすらよくわからないのです。

http://www.youtube.com/watch?v=6zmHGPcoDVw

廃語の風景㉔ ― デラックス [廃語の風景]

上りE233西八王子駅:撮影;織田哲也.jpg

「デラックス」 はもちろん deluxe という英語の単語です。
もとはフランス語で de luxe と綴られ、英語でいうと of luxury に相当します。
最近の若い人は、この 「デラックス」 の意味をあまり知らないようです。
なんでも 「デブ」 とか 「オカマ」 とかいう意味で捉えていることが多いと聞きましたが、それは多分、「上からマリコ、横からマツコ」 のあの人のインパクトがあまりに大きいせいだと思われます。
本来の意味は 「豪華な、ぜいたくな」 で、a deluxe train(特等車) とか a coupe deluxe(デラックスクーペ) のように、名詞の前にも後ろにも置くことができます。

私が子供の頃、いや高校生の時分まで、「デラックス」 は、日常生活の中で頻繁に見かける単語だったように思います。
もう、どんな商品名につけても 「ワンランク上」 という意味を表すことのできる、万能選手でした。
記憶を辿れば、日産ブルーバードの下のクラスが 「スタンダード」 で、上のクラスが 「デラックス」 だと、親父が集めていたカタログに載っていました。
中2のときに買ったテニスのラケットは、今はなきフタバヤの 「ミリオンストローク」 でしたが、そのシャフトの部分にも DE LUXE MODEL と書かれていました。
明治製菓から販売されている、あのこげ茶色のパッケージ 「明治ミルクチョコレート」 は、なんと大正15年生まれのブランドですが、「明治ミルクチョコレート・デラックス」 もかつては全国のお菓子屋さんでベストセラーを誇っていました。
黄色の地に金色の縦ストライプが入ったパッケージは、こげ茶色のに比べていかにも豪華に見え、高級品の品格を遺憾なく誇っていたものです。
ホテルや旅館も 「デラックス」 なら、鉛筆や消しゴム、洗剤、トイレットペーパーといった日用品に至るまで、「デラックス」 のオンパレード状態でした。
これはもう、「アブラカタブラ」 や 「エコエコアザラク」 に匹敵する、最強の呪文といって過言ではありません。

「デラックス」 と同じように、単語の前後につけて 「ランクが上」 といった意味を表す語に、「super(スーパー)」 があります。
man の前につければ Superman(スーパーマン) になり、文字通り 「超人」 の意味を表します。
さらに super 以上の意味を持たせるため、ultra を冠した Ultraman(ウルトラマン) は 「超・超人」 というほどの意味でしょう。
super や ultra は、現在でもあらゆる商品に適用されています。
私は髭を剃るために今まで何種類かのシェーバーを使ってきましたが、「スーパーなんとか」 もあれば 「ウルトラなんとか」 もありました。
new(新~) というのも定番で、new とか neo とかを商品名の前後につけただけで、
「あ、これは新しい機能を伴った商品なんだ」
という、美しき誤解を消費者に容易に与えることができます。
英語の教科書にさえ、NEW HORIZON や NEW CROWN があります。かつては NEW PRINCE READERS や NEW APPROACH TO ENGLISH といった教科書もありました。
英語教育に関わる仕事は多いのですが、いまだにどこが new なのかよくわかっていません。

cyber(サイバー) とか global(世界的な) を冠した商品もあります。実際にそれほどの意味のある商品かどうかはあまり関係なく、要はイメージ的に 「他と違う」 ことが伝わればいいという戦略です。
それも分からなくはありませんが、だったらどうして、今日び 「デラックス」 だけがぽつんと忘れられた存在になっているのでしょう。
頭出しの 「デラ」 が、発音上あまりにもベタな印象だからでしょうか。

「デラックス」 の復権がいつ来るのか、ひそかに楽しみにしている私です。
それにしても今、「明治ミルクチョコレート・デラックス」 は普通の菓子屋やスーパーにはなくて、百均ショップや通販で販売されています。
これって、いったいどういうことでしょうか。謎はますます深まります。

http://www.youtube.com/watch?v=S301GWoi60s

廃語の風景㉓ ― 銀玉鉄砲 [廃語の風景]

下りE233浅川橋梁:撮影;織田哲也.jpg

昨日めでたく30歳の誕生日を迎えた長女は、「銀玉鉄砲? なにそれ」 と言いました。
彼女はBB弾を放つエアガンを触ったことはあるそうですが、銀玉鉄砲に関しては名前すら知らなかったのです。
調べてみると、今でも百均ショップで中国製の安いのが売られています。ただし、売れ行きが良いといった様子はありません。

銀玉鉄砲は私が小学生時分には、男の子ならだれでも持っているというオモチャでした。
みんな持っているくらいですから、あまり高価な商品ではありません。
そのころ一世を風靡していたのが、『セキデン』 というメーカーの 『オートマチック』 という拳銃でした。
私はそれをオモチャ屋で買った記憶はなく、学校の隣の文房具屋で求めました。詰め替え用のタマも同じ店で補充していました。友達も似たような入手経路だったと思います。

タマは黄土色の土のようなものを丸めて、外側に銀色のコーティングを施した、直径5ミリ程度のものでした。きれいな球形ではなく、いびつな形や最初から一部が欠けているものもありました。
材質的に脆(もろ)く、子供が道路で踏みつけただけで割れてしまうほどでした。BB弾のようにプラスティック製ではないので、壊れるとすぐ土に還るため、環境には優しいようです。
今のエアガンのように圧縮ガスで撃つのではなく、スプリングの反発力によってタマを飛ばす構造です。ですから、そんなに速く強くは撃てません。5メートルも飛ばすと、おじぎをしてしまうようなタマの勢いでした。

いま私は 『マルサン』 製の 『ブローニングm1910』 というエアガンを持っています。機種的には20世紀中盤の名機と言われる護身用拳銃で、ルパン三世の峰不二子がガーターベルトに仕込んでいるヤツです。
この銃からBB弾を発射すると、皮膚に傷をつけるほどではないにしても、眼球に直接当たると障害が出るかもしれない程度の勢いがあります。
それに比べると、銀玉鉄砲はいたって平和なオモチャです。発射音もスプリングの反発時に、「きゃしょーん」 という情けない音がするばかりです。

よくよく考えれば、「銀玉鉄砲」 というネーミングから変です。
どう見ても 「てっぽー」 ではなく、「拳銃」 もしくは 「ピストル」 です。ところが、だれも 「銀玉ピストル」 とは呼びませんでした。
運動会の徒競走で 「よーい、ドン」 するときの号砲は 「ピストル」 なのに、銀玉鉄砲はあくまで 「てっぽー」 なのです。
当時の感覚をいま明確にたどることはできませんが、そのレトロなネーミングに、小学生ながら何かしらの共感を持って呼んでいたのかもしれません。
また、タマはふつう銀色をしていましたが、別売りで金色のタマもありました。ただ、誰もそのような名前の鉄砲とは呼びませんでしたが。

遊び方はごくごく単純で、相手に向けて撃つか、マトを設定して射撃の腕を競うかだけの話でした。
公園などで撃ちあっていると、そのうち誰かが 「タイム!」 をかけます。何をするかと思ったら、みんなでタマを拾い集める時間です。お互い限られたお小遣い事情ですから、貴重なタマを無駄にすることはできません。
先生から 「学校には持ってくるな」 と指示されていましたが、そこは一流のスパイよろしくカバンの中に密かに忍ばせていたりします。
同じクラスの女子に向けて 「きゃしょーん」 とぶっ放したアホタレがいて、このときは全員カバンの中をあらためられ、持ってきていた者は取り上げられていました。その日、たまたま持参していなかった私は、難を逃れました。
いろんな意味で、銀玉鉄砲がらみのスリルを味わえた時代でした。

20歳の頃、ある友人と街で銀玉鉄砲を見かけ、懐かしさと戯れに一丁ずつ買ったことがあります。
それをキャンパス内で撃ちあうという、およそ大学生とは思えない遊びに興じましたが、まわりに寄ってきた別の友人たちも目を輝かせて我先に手に取り、カッコよく構えてトリガーを引いていました。
件のメーカー 『セキデン』 では、ブームを作った 『オートマチック SAP.50』 を再生産して、リバイバル販売しています。タマが50発ついて750円となっています。そのことを取り上げたサイトもちょくちょく見かけ、評判は良さそうです。
どのような層の人がそれを注文するのか、容易に想像がつきます。かくいう私も、還暦まであと数年という齢ながら、欲しくて仕方がありません。
いつまでたってもそんなオモチャが欲しいほど、男はみんな幼稚な生き物なのです。

http://www.youtube.com/watch?v=AYV4R18s8Y8

廃語の風景㉒ ― ジュークボックス [廃語の風景]

八高線初夏:撮影;織田哲也.jpg

骨董品を扱うお店に、1台のジュークボックスが並べられていました。
店主の説明によると、多分まともには動かないし、レストアしてくれる工場もあるが結構値が張るということでした。

ジュークボックスは、今ではアンティークを売りにしているお店に行かないと見られない代物です。
かつてはホテルの娯楽室や喫茶店、パブ、ゲームセンターあたりではメジャーな存在でした。
大型スーパーのような店舗でも、今で言うとガチャガチャの機械が並んでいるような空間に、ジュークボックスが置いてあることさえありました。

1980年に上京して、最初に住んだ中野のアパート近くに T というスナックがあり、そこでは100円で3曲かけることができました。
コインを投入後、曲名の書かれたボタンを3つ選んで、順に押していきます。
すると機械の中で、シングルレコードが縦にいっぱい並んだ円盤がくるりと回転し、その一か所にアームが伸びてお目当てのレコードを取り出してきます。
あとはアームが取り出したレコードをターンテーブルにセットし、針が降りて曲がかかる構造になっています。なんともアナログなシステムです。
スナック T には8トラックのカラオケもあったのですが、誰かがジュークボックスを使い始めると、3曲かかり終わるまでカラオケは休憩でした。
お隣さんと会話をしながらグラスを傾けつつ、客はみんなでジュークボックスの奏でる音楽を聴くということになるのでした。

「みんなでレコードを聴く」 などという慣わしがあったのも、概ねこの頃までではないかと思われます。
学校や図書館、公民館、教会などでは 「レコード鑑賞会」 なる集いがときどき開催され、みんなで静かに音楽を鑑賞しましょうといった具合でした。
京都の木屋町には、私が何度か通った名曲喫茶 M がありました。
スピーカーは超大型で、とうてい学生が自室に保有できるサイズではありません。延びのある重低音が何と言っても魅力です。
店員も客も会話など交わさず、クラシックの調べに身を委ねました。
客の大半は心地よい BGM に揺られながら、本を読んだりレポートを書いたりしていましたが、中には本気で音楽鑑賞に没頭している客もおり、コーヒーカップを皿に置く音をさせただけで睨みつけられたことがあります。

1979年に、SONY から 『ウォークマン』 の第一号が発売されました。
数年の間にそれは世界的大ヒット商品となり、若者を中心に多くの人々がイヤホンを耳に入れ、音楽を楽しみながら街を歩いたりするようになりました。
ウォークマンは音楽をより身近で手軽なものにし、生活のあらゆる分野が音楽との共存を可能にしたという点で、多大な功績がありました。
と同時に、イヤホンやヘッドホンを使う習慣が一般化されたことで、録音された音楽は他人と共有するものではなく、個人の世界で楽しまれるものという価値観が定着しました。
このウォークマンの流行とジュークボックスの衰退とは、時を同じくしているように私は思います。
テレビの歌謡番組が少なくなってきたのも、1980年代半ばあたりからではないでしょうか。

その後、ウォークマンはカセットテープから CD,DAT,MD などの媒体を経て、iPod に代表されるデジタル・プレーヤーに至りました。
専用のプレーヤーを用意しなくても、スマホで音楽編集までできる時代になっています。
音楽を聴くという行為がお手軽になりすぎて、感動が薄れてきたのではないか。
これは世相の流れに掉さしている人を批判しているのでも何でもなく、私自身がそのように実感してしまっていることなのです。

ジャズやオールディーズの名盤を集めたジュークボックスを置いている喫茶店やバーも、探せば都内、横浜、鎌倉などにあります。
こんど休みがとれたら、わざわざジュークボックスをかけるためだけに、そうしたお店に出かけてみようかと思っています。

http://www.youtube.com/watch?v=XA0KbpNOBEs

廃語の風景㉑ ―よろず屋 [廃語の風景]

松が谷:撮影・織田哲也.jpg

コンビニエンス・ストアのご先祖と言ってよいかもしれません。
よろず屋は田舎限定のコンビニでした。
「よろず」 は漢字で書くと 「万」 であり、食料品から日用雑貨まで幅広い商品を取り扱っています。
けれども最近は、地方都市や山地を訪れても、「よろず屋」 を見かけることがきわめて少なくなってきています。

かつては都市部と田舎では、その経済活動や生活様式において、厳然とした差異がありました。
それではいかん、日本全国どこの土地でも東京と同じかそれに近い暮らしが送れるよう、生活革命を起こそうじゃないか。故・田中角栄元首相が著した 『日本列島改造論』 の原点です。
莫大なお金が公共事業に投入されました。
道路や鉄道が整備されるようになると、物資の流通が活発化して地方商業が盛んになります。
スーパーマーケットなどの大型商業施設はいつしか全国に広まり、拠点の店舗には普及したマイカーで買い物に訪れる客が一気に増えました。

今、ちょっとした地方都市に行くと、駅前の風景には既視感が漂っています。
それもそのはずで、普段から見慣れたコンビニや何度も食べたことのあるハンバーガーのお店が、全国どこででもお目にかかるようになっているからです。
全国チェーンのスーパーや吊るしの洋服屋、牛丼屋、居酒屋、レンタルDVD店、薬局だってあります。
さすがに山中の駅前はそうではないにしても、国道を少し走れば同じような施設が脇に建っています。都市近郊よりもはるかに立派な大型店舗に出くわすことが珍しくありません。

フィールドワークで地方を訪れたついでに、そこのコンビニを覗いてみると、多少は地域ごとに特徴のある品揃えはされていますが、大半はうちの近所と似たり寄ったりです。
店内の照明や陳列、清掃具合、店員の制服から態度に至るまで、変化は見られません。
今度は隣のハンバーガー・ショップに入ると、接客トークが見事にマニュアル通りで、しかも発音が標準語です。
せめて方言で接客してくれたらと思うのですが、教育が徹底しているというか…、あ、ポテトはいりません、ええ持ち帰りでよろしく。

「よろず屋」 で今でも思い出すのは、秩父の奥の方でその1軒に立ち寄った時のことです。
ちょうどサッカーのJリーグが発足して間もない頃でしたが、あるよろず屋でジュースと菓子パンを買って食べていると、奥の壁に幼児向けのオモチャの野球セットが吊り下げられているのを発見しました。
ビニール製のバットとグラブとボールが詰め合わせになっていて、その背後の厚紙にジャイアンツのバッターがホームランを打ったイラストが描かれています。
バッターの横には大きな文字で、『J リーグやきゅうセット』 と印刷されていました。

これは何度も確認したので、「セ・リーグ」 や 「大リーグ」 の見間違いではありません。
『キン肉マン』 が 「筋肉マン」 になっていたり、『ドラえもん』 が 「ドラエモン」 になっているのはご愛嬌としても、『J リーグやきゅうセット』 はないでしょう。
東京に帰って知人にその話をしても、「また作り話を…」 などと信じてもらえませんでした。証拠に買ってこなかったことを、今でも悔やんでいます。
それだけにこのよろず屋のことは、いつまでたってもニヤリとしてしまう思い出として、心の中に残っています。

歴史には、ある種のいかがわしさがつきものだと、私は考えています。
歴史や文化に個性があればあるほど、その地域特有のいかがわしさもまた強く主張をします。
これは東京の下町しかり、京都しかり、大阪しかりといったところでしょう。都市部だけではなくどんな地方にも、いかがわしさを主張する余地は必ずあるはずです。
いま全国から 『ゆるキャラ』 が声を発していますが、あれなど地方のいかがわしさが形になった典型ではないでしょうか。

コンビニやハンバーガー・ショップの 「均一性」 が悪いとばかりは言えません。
『日本列島改造論』 に始まる生活レベルの均一化政策によって、地方の経済が発達し生活レベルの向上が達成された点は評価すべきです。
しかし、レベルの 「均一」 と、規格の 「画一」 は意味が違います。
例えばコンビニの品揃えが均一的ではあっても、接客や店舗の作り方まですべて画一にするのは行き過ぎという気がしてなりません。
その土地特有の言い回しや店舗の形態があるほうが、楽しいではないですか。
横浜のコンビニの外装がレンガ作り風になっていたり、大阪のハンバーガー屋の店先に 「くいだおれ太郎」 みたいな人形が立っていたり、京都のレンタルDVD店の店員が大原女(おはらめ)姿だったりしたら、それだけで観光名所になりそうな風情です。

ゆるキャラ全盛の今こそ、現代のよろず屋さんには頑張ってほしいものですが、まあ無理なんだろうな。
かつて、よろず屋のお婆ちゃんから感じた人の匂いの懐かしさを、もう感じることはできないものなのでしょうか。

http://www.youtube.com/watch?v=4IbM9YqAjnc
1977リリース

廃語の風景⑳ ― 牛乳配達 [廃語の風景]

下りE257西八王子通過:撮影;織田哲也.jpg

夏目漱石 『坊っちゃん』 で、まだ学生の主人公が母親に次いで父親も亡くしたとき、兄が家財産を片付けようと切り出す場面があります。
主人公は 「どうでもするがよかろう」 と答え、肌の合わない兄の世話になる気はないので、「牛乳配達をしても食ってられると覚悟をした」 というくだりになっています。
実際は兄から600円を財産分与され、それを資金に3年間物理学校に通うことになるのですが、初めてここを読んだとき、「牛乳配達は明治時代からあったのだ」 と驚かされました。

1970年初頭まで、毎朝自宅に配達されるものには、新聞以外に牛乳もありました。
どちらも黒い自転車を利用して配られていましたが、牛乳配達のほうは荷台に積んだ木の箱の中でビンが躍り、ガチャガチャうるさい音を立てるのが特徴でした。
新聞は現在と同じように、郵便受けに投げ込まれました。牛乳はそうはいかないので、各家庭とも玄関先に木でできた専用の牛乳ボックスを設置していました。
中には180mlの牛乳ビン2本が入るようになっています。飲み終えたあとの空きビンも、このボックスを介して返却するシステムです。
たしか母親は、月極めの配達代金もそのボックスに入れて渡していたようなので、ずいぶん鷹揚(おうよう)な話です。

とはいえ、牛乳を盗む輩はいて、ウチも数回被害に遭いました。
2本とも持って行かれたわけではなく、1本をその場でこっそり飲んだのでしょう。空きビンがご丁寧にボックスに返却されていました。今から思えば、微笑ましい泥棒もいたものです。
その後、牛乳ビンはテトラパックに代わり、ほどなく配達自体が少なくなっていきました。
スーパーマーケットなどの商業施設が全国的に増えたこともあり、牛乳は配達されるものではなく、店頭に出向いて購入するものに変わったのです。
衛生状態が問題視されたのと同時に、泥棒だけでなく毒物を混入させるなどの犯罪が発生したことが、その理由でしょう。

私の子供の頃は、牛乳さえ飲んでいれば子供は健康に育つ、といった一種の 「牛乳神話」 がまかり通っていました。
戦後の学校給食は、児童の欠食対策という役割が大きな比重を占め、アメリカから援助された脱脂粉乳を湯にといた飲み物が支給されました。
この時代の影響は昭和30年代以降になっても残り、学校給食には牛乳がつきものでした。
それだけでは足りないと考えたか、給食のない大人たちにも必要と思われたのか、毎日1本の牛乳を飲む習慣は多くの日本人に支持されていたようです。
今では牛乳配達がまったくなくなったかと言えばそうでもないようで、「宅配」 という名で細々と残っています。
ご近所で契約しているご家庭もちらほらありますが、昔のように多くのお宅で、というわけではありません。

いま私は月に一度、循環器クリニックに通っていますが、そこの主治医は完全に 「乳製品否定派」 です。
「酒を飲むな」 とは言わず、「牛乳を飲むな」 と言うわけですから、私にとってはたいへん受け入れやすい食事指導です。
理由としては、乳製品を摂取することで脂肪分の蓄積が多くなるというものです。また日本人の消化器構造では、乳製品からカルシウムを吸収することが困難であるということも根拠のひとつです。
牛乳をたくさん消費する国で骨粗しょう症が多く、あまり消費しない国で少ない、という研究発表も見せられました。わが国では、学校給食が始まって以降、骨粗しょう症患者が発生し始めたそうです。
そうした指導がある関係上、私も日常的に乳製品を摂る習慣が今はありません。

とはいえ時間があるとき、たまに町田の 『ロテンガーデン』 に出かけたりするのですが、風呂上りにコーヒー牛乳を飲むのは楽しみのひとつです。
ビンから牛乳を飲むとき、人は必ず腰に手を当てます。これは私だけではなく、多くの人が裸でそれをやっているのを、この目で何度も確認しています。
その姿がいかにも健康的に見えることが、かつては 「牛乳神話」 の助長に役立っていたのかもしれません。

http://www.youtube.com/watch?v=gICWmKroNOE

廃語の風景⑲ ― 動くプラモ [廃語の風景]

横浜線・相原付近:撮影;織田哲也.jpg

「動くプラモ」 の対義語は 「動かないプラモ」 ということになります。
最近のプラモデルはスケールモデルと呼ばれる 「動かないプラモ」 が主流で、モータライズドモデル (動くやつ) はめっきり少数派になってしまっています。
戦車や自動車のプラモデルをマブチ・モーターで動かしてばかりいた私の子供の頃とは、様相が180度変わりました。
いつ、この逆転劇が起こったのか、私は知りません。

最後にプラモデルを自分で買ってきて作ったのは、1985年でした。
あまり先のことを考えずに出版社を退職して、仕事も少なかったので、暇つぶしにやってみたのです。
作ったのはトヨタのランドクルーザーと陸上自衛隊・74式戦車で、どちらも当然のようにモーターで動かすやつでした。
この頃はまだ、模型屋さんで売られている多くの商品が 「動くプラモ」 でした。

私の感覚ではたとえプラモでも、車は速くてスマートなものだし、戦車はキャタピラを軋ませてゆっくり走るものだし、船はスクリューを旋回させて水面を行くものです。
そんなに高くないプラモでも、駆動部分を組み立て、調整したりアブラをさしたりながら、メカを動かす楽しみを与えてくれたものです。
今、動くプラモといったらミニ4駆か、ぐっと値の張るラジコン系になってしまいます。
あとはみんな、綺麗に仕上げて飾っておくだけのものばかり。私からすると魅力は半分以下なのです。

リアリティの感じ方が、今と昔とではまるっきり違っているのかもしれません。
車を例にとると、実際の車は走るものだからプラモも走ってこそリアリティがある、というのが私の子供の頃の感覚でした。
今、スケールモデルに興味を持つ人は、実際の車のスタイルをいかに忠実に再現するかという観点で、リアリティを捉えているようです。
再現の精度という点では、今のプラモデルは昔日のものとは比較にならないくらい進化しています。
TVゲームなどのバーチャルな世界に子供の頃から慣れ親しんでいると、その反動で、よりリアルな再現性を追求したくなるためでしょうか。

小学生のとき、作ったゼロ戦に無理やり小型のモーターを取り付け、本来回転しないはずのプロペラを高速で回してみたことがありました。
それだけでは満足できなくて、今度はプロペラを裏返しにモーターの軸に取り付け、自分のほうに風がくるようにして悦に入っていました。
さすがのゼロ戦も、「扇風機」 に改造されようとは思っていなかったはずです。
そんなことをするとスケールモデルとしての価値は台無しですが、本人は 「オリジナルの工夫を加えた」 ことで得意になっていました。

私の暴挙はまだまだ続き、この 「扇風機」 の風力をさらに上げようと、電池を何本も直列につないだものです。
モーターが焼け切れることは最初から分かっていました。
分かっていながらそれをやってみたい、という衝動に勝てなかったのは、モーターが焼け切れるというリアリティを実感したかったからだと思います。
結果は予測通りでした。焦げたエナメル線の匂いがあたりに漂い、哀れなモーターは二度と動くことはありません。
夏休みの最後の夜に線香花火が消えてしまったときのような寂しさに襲われながらも、「何かを壊すことは次に何かを作るためのステップだ」 ということを、もしかしたら少年だった私は、本能的に感じていたのかもしれません。

http://www.youtube.com/watch?v=8r19N9PSsAo
子供の頃の私は、何に 「正直」 だったのだろうか…

廃語の風景⑱ ― そろばん教室 [廃語の風景]

武蔵野線205系:撮影;織田哲也.jpg

「そろばん教室」 じたいは現在でも全国にありますが、私が小学生ころの教室数とは比べ物にならないくらい数が限られています。
そこに通う動機は、今は競技珠算を除いては脳トレが大半です。
5と10の合成分解を繰り返すそろばんを早くからトレーニングしていると、「暗算が速くなり算数の成績がアップする」 と広告を打つ教室が結構あります。
けれども、かつての親が子弟にそろばんを習わせたのは、将来社会生活を営むうえで必要な技能を子供のうちから身につけさせるといった、実利性の高い目的がありました。

小学校のクラスでは、半分近くの同級生が近所のそろばん教室に通っていたと記憶しています。とくに女子はほとんどの子が、いちどは通った経験があると思われます。
私も2年生のとき親に勧められたのですが、嫌がって書道教室のほうを選びました。好きだった N.F. ちゃんもそろばんを習いに行っていましたが、それとこれとは話が別です。
そろばんの何が嫌で習字の何が良かった、などという積極的な動機はありません。強いてあげれば、そろばん教室はすぐ近所なのに対して、書道教室のほうは路面電車で3つ目の停留所のところにあったからです。
小学2年生にとっては、それだけでもちょっとした冒険になるからです。

「そろばんができないと仕事にならない」 ― これは当時ごく当たり前の感覚であって、とくに商売が発達した大阪ではその意識は強かったでしょう。
船場(せんば)の丼池(どぶいけ)商店街で、そろばん片手に値段交渉をしている商売人たちの姿は、中学・高校の頃でもよく見かけられました。
パチパチッと計算して、ササッと金額提示、絵に描いたような商人の風景でモタモタしていたら、たちどころに 「こいつアカンで」 という答えがはじき出されたに違いありません。
反応が速くないと、そろばんをガチャガチャと振られてご破算です。そんな風潮だったから、猫も杓子もそろばん教室という雰囲気が小学生にまで影響していました。

時代は高度経済成長期に向かっていて、庶民にとっても子供にお金をかけられる余裕が出てきていました。
そろばんや習字はいちばん安い月謝でした。その上が学習塾やオルガン教室で、もっと上にピアノとかバイオリンがありました。
いくつかを掛け持ちする同級生もいて、怠惰な私などは半ばあきれて見ていました。

図鑑や空想科学の読み物に耽っていた私は、「今に電子計算機が使えるようになるから、そろばんなんか使わなくなる」 と信じていました。
だから4年生か5年生の算数で、「しゅ算」 の単元があったのにはウンザリしました。
2桁の数字を3つ足す、といった程度の計算でさえ圧倒的な差をつけられ、あそこまでこてんぱんにビリをひいた経験は今だかつてそのときだけです。
科学少年が空想していたように、のちに電子卓上計算機が普及していなかったら、私の屈辱は今も続いていたはずです。
心底、カシオくんやシャープさんに感謝を捧げたいものです。

ただ、思うのですが、子供が実用性のある技能を身につける訓練を経験するいうのは、とても意味のあることでしょう。
その技能に長ずるのももちろんですが、実働する社会に対して目を向けることが子供の時分からできるようになることの意義が大きいと思われます。
そろばん教室に通った小学生たちに 「今やっている訓練は将来に活かせる」 といった目標があったかどうかはわかりませんが、少なくとも大人たちと同じことをしているという意識はあったでしょう。
そろばんをはじきながら商売をしたり、家計簿をつけたりしている親の背を見る視線は、今の子供たちとは違ったものであったと思われます。
そろばんという道具を通して、現実生活の営みを直視する機会が生まれたとしても不思議ではありません。

だとすれば、かつてのそろばん教室に代わる授業が受けられるのは、今はどこなのでしょうか。
それが簡単に思いつかないところに、教育と現実との溝の深さが現れているように思えてなりません。

http://www.youtube.com/watch?v=d9ym5ZbegVw

廃語の風景⑰ ― 半ドン [廃語の風景]

205系兄弟:横浜線0番台・相模線500番台:撮影;織田哲也.jpg

見直しが検討されているとはいえ、現在はほとんどの学校が週5日制を採用しています。
1990年代から第2土曜日が休みとなり、2002年以降は公立小・中・高校の多くで毎週土曜日が休業日となりました。
社会一般には1980年代から週休2日制を採用する企業が増加の一途をたどり、2000年代にはそれが常識となっています。
それ以前は学校でも企業でも、通常のお休みと言えば日曜日と祝祭日のみで、土曜日は 『半ドン』 となっていました。
半ドンという言葉さえ知らない若い世代も増えています。午前中だけ仕事や授業があることで,お昼の12時過ぎには拘束から解放されるというわけです。

半ドンの 「ドン」 とは何か?
夏目漱石の 『坊っちゃん』 には、四国の中学に赴任した主人公が初めて教壇に立ったとき、生徒から大声で 「先生」 と呼ばれ、「腹の減った時に丸の内で午砲(どん)を聞いたような気がする」 という心理描写があります。
「丸の内の午砲」 とは、明治から大正にかけて庶民に正午を知らせるために皇居内で鳴らされた号砲のこと。漱石が 「午砲」 にふりがなを振っているように、東京市民は 「どん」 の名で呼んでいたそうです。
で、私はこの 「どん」 が 「半日」 とくっついて 「半ドン」 になったものとばかり思っていましたが、それはただの俗説でした。
正しくはオランダ語で 「日曜日」 を表す zondag (ドンタック) が由来で、土曜日は半分だけ日曜日というところから 「半ドン」 となったわけです。
この zondag は5月に福岡で開かれる 「博多どんたく」 の語源にもなっています。

私はこの半ドンの土曜日が大好きでした。中・高時代は部活動も、試合の直前でない限り土曜日にはありません。
昼飯もそこそこに、よく旭屋や紀伊国屋など大型書店を訪れて面白そうな本を探し、喫茶店で水ばかりお代りしながら読んですごしました。
また大阪・日本橋の電気屋街に繰り出して、抵抗やコンデンサなどの電子部品を買い漁ったり、アマチュア無線用の通信機に触れたりもしました。
男どもとビリヤードを打ちに行ったり、女子も交えて映画やボウリングに興じたことも度々です。
そうした遊びをせず1時間かけてまっすぐ帰宅した場合でも、TVをつけると吉本新喜劇や松竹道頓堀アワーなどのお笑い番組がやっていて、飽きるということを知らずに残りの半日を過ごしていました。

週休2日制しか知らない世代は、土曜日の前半に仕事や授業があるのは半日を損したような気分かもしれませんが、そういう拘束時間があることによって、あとの半日がより際立って楽しく感じられたのではないでしょうか。
高校を卒業して花の浪人生活に入ると、そうしようと思えば自由に使える時間ばかり増えました。
大学生から社会人へと成長するにつれてすっかり夜の世界に心が囚われ、半ドンの楽しみ方などきれいさっぱり忘れてしまいました。
現在に至ってはフリーです。〆切や打ち合わせが続いたり不安定な心境に陥ったりするなど実際には不自由な境遇ではあっても、自由業者と呼ばれる身分です。
一家離散して路頭に迷う覚悟さえあれば、容易にすべてを捨てる権利が私の手にはあります。まあ、しませんけれど。
そんな状態が幸なのか不幸なのか。
少なくとも、「今日は半ドンでラッキー!」 といった高揚感を感じることはできません。

ときどき思うのですが、土曜日の午前中だけ何かアルバイト、例えばビルの清掃とか店番なんかをやってみたいものです。半ドンの午後をどう過ごそうか、もう一度わくわくできるかもしれませんから。

追伸: 「丸の内の午砲」 に使用された大砲は現在、都立小金井公園にある江戸東京たてもの園に保管されています。いちど見に行ってみようかな。

http://www.youtube.com/watch?v=tOWlVxQHOUc
1980年のリリース。私が社会人になって上京した年です。

廃語の風景⑯ ― 戦争ごっこ [廃語の風景]

豊田庫:撮影;織田哲也.jpg

今の子供たちが戦争ごっこに興じているなどという話は、ついぞ聞いたことがありません。
日本は平和を希求する国だから、そんな遊びはしなくてもいい。― そりゃまあ、そうでしょうけれど、別に私だって軍国少年であったわけではなく、戦争はいけないことだという基本理念は幼な心にもちゃんと刻まれていました。
親や祖父母など戦時を生き抜いた人たちがまわりにいたぶん、私たちの世代のほうが体験談を直接聞く機会に恵まれていましたから、「カッコイイでは済まされないことだ」 という思いはむしろ強かっただろうと思います。
それでも、子供たちにとって戦争ごっこは、とても楽しい遊びだったのです。

実は戦争ごっこの95%以上は 「秘密基地の造営」 が目的なのであって、実際に戦闘行為に及ぶ時間はほとんどありませんでした。
その戦闘行為にしても、「敵情視察」 と称して相手方の基地がどうなっているか偵察隊を出したときに、銀玉鉄砲で応酬するか、せいぜい泥玉を爆撃していく程度のことでした。
自分より年長の者が敵方にいて基地造営をリードしているときなど、自ら進んで捕虜になり、ノウハウを少しでも身につけようと 「留学」 したことすらありました。
当時の少年マンガ雑誌には 『ひみつきちを作ろう!』 といった特集がときどき組まれていました。文字通り 『秘密基地の作り方』 といった本さえ発行されていたと記憶します。
基地の造営には知識と経験が必要なもので、腕っぷしではなく戦略に長けた者が大将になります。新しいアイデアを持ち込んだ者はとくに賞賛されるのです。

秘密基地はだいたい、公園の築山で下がトンネルになっているところとか、倉庫の裏側とかに設置されました。
とにかく安全に身を隠せることと、敵の攻撃を跳ね返せるだけの堅固なバリアが第一条件だからです。
そのへんの工場に放置されている段ボール箱をたくさん見つけて持参した者は、いちやく英雄扱いです。
「バールのようなもの」 を調達してきた友人もいて、敵の侵攻を食い止めるための閂(かんぬき)になりました。それを攻撃のための武器として使ったら勝利すること間違いなしなのですが、シャレにならないことはしないお約束なのです。

基地のすぐ近くに砂場などがあると、当然そこは地雷原になります。
何人かが落とし穴の担当となり一生懸命穴掘りをしますが、「ここに地雷があるよ」 と相手にすぐわかってしまうようでは実用の効果はまったくありません。
実際に敵が穴に落ちることなど最初から目論んでいなくて、基地の造営そのものに目的があるわけですから、どれほど完成度の高いトラップを作るか、いわば職人仕事の範疇でした。
だから最後には落とし穴を作った本人が見事に落ちて見せて、自分の腕前を誇るのが常でした。

こうした遊びはもちろん男の子中心ですが、まれに同級生の女子たちも参加したいと申し出てくることがありました。いやという者は誰もいなくて、その日は仲良く共同作戦です。
ある女の子が自宅から、古くなって捨てられたカーテンを持ってきたときは、最高にゴージャスなバリアを張り巡らせることができました。
カーテンに防御された薄暗い基地の中でお菓子など食べていると、戦争ごっこにおままごとがの要素が加わって、なにやらむずがゆい気分になったりもしました。
(せっかくだから 「軍医」 になってお医者さんごっこも取り入れたらよかったという名案は、ずっとあとになって気づいたことでした)

そう、私たちが戦争ごっこに求めたものは、実際の戦争やスポーツのように攻撃して敵に打ち勝つことではなく、「秘密」 の匂いです。
友達と秘密を共有することが楽しかったのであって、戦争ごっこという形をとるのは 「我々ハ追イ詰ツメラレタ状況ニ置カレテイルノダ」 という高揚感を醸(かも)し出す格好の設定だったからです。
秘密の匂いが戦争ごっこには充満していたからこそ、普段あまり仲良くない友達でも、女の子でも、初対面の奴でも、すぐにそれを共有する 「同志」 になれたのではないでしょうか。

『男の隠れ家』 などという記事は、周期的に雑誌に掲載されます。
そんなのを見るたび、「ミンナ今デモ戦争ゴッコノ続キガシタインダナ。秘密基地ヲ造リタクテタマラナインダナ」 と思ってしまいます。
アウトドアでバーベキューをやるといきなり張り切りだすお父さんがいたりしますが、それも同じ手合いでしょう。
男が隠れ家を作りたいのは、そこで悪さをするためでは決してなく、何かと戦っていることに疲れ、身を顰(ひそ)めて生きていたいという願望の小さな発露に他ならないのです。

http://www.youtube.com/watch?v=sylbVjAw-0Y
「誰の胸にもある幼い頃のメモリー So Happy Day」

廃語の風景⑮ ― 液体ドロース [廃語の風景]

京王7000系・堀ノ内:撮影;織田哲也.jpg

小学校3年生になると、体育のメニューにソフトボールが加わりました。
少年野球チームに入っていた友達は大いに張り切っていましたが、当時私は身体が小さくて弱かったため、野球道具のひとつも持っていませんでした。
学校で必要だからということで、父親をスポーツ用品店に誘い出し、グラブとボール、バットを買ってもらいました。
さすがに専用のシューズやユニフォームはねだりませんでしたが、これで一応、戦闘態勢が整ったわけです。
そのとき、スポーツ店のオヤジに勧められて一緒に買ったのが、ガラス瓶に入った保革用の油 『ドロース』 でした。

ドロース自体は現在も販売されていて、グラブの手入れにはポピュラーらしいです。現在はスチール缶に入ったクリーム状のものとなっているようで、私が買った液体状ではありません。
ともあれ、帰宅した私は早速、古い布切れにドロースをたっぷり沁み込ませ、買ってもらったばかりのグラブに塗りつけました。
ドロースは機械油ともガソリンとも違う独特の匂いがして、これが革の匂いと混ざると、いっそう際立った芳香を放ちました。
グラブを顔に押し当てて息を吸い込むと、まだキャッチボールさえしていないのに、なにか自分が野球の名選手になったかのような錯覚を起こさせてくれたものです。

最初のうちはスポーツ店のオヤジに教わったように少量ずつ使っていましたが、そのうち瓶を振ってはドバドバぶっかけて、グイグイと塗り込むようになっていきました。
グラブの革、とくにボールを受ける側の面は、みるみる黄土色からこげ茶色へと変化していきました。
あまり多量に塗るとグラブが重くなるというアドバイスはもらっていましたが、そんなことお構いなしになってしまったのは、ひとえにグラブを柔らかくしたいためと、ドロースの匂いをより強烈なものにしたいためでした。
グラブを外すと、左手にまでその匂いがついてしまいました。それがまた嬉しかったのです。一種のフェティシズムといって過言ではなかったでしょう。

一方で、道具に思い入れたがあったほど、ソフトボールの腕前は上達しません。
それはほかの友達も似たようなもので、普段から野球チームに所属している者の活躍だけが目立っていました。
本当は内野手をしたかったのですが、とうてい力が及ばないので私は外野にまわることが多く、打順はいつも末尾に近いところを占めていました。
ホームベースから遠く離れてポツンと佇(たたず)み、グラブの匂いを嗅いだりしながら、いつかはサードで4番を打ってやるとひとりごちていました。そう、あの長嶋のように。

当時、大阪でも下町のほうには、昼間から何をするともなくぶらぶらしていて、そのくせ子供にだけは愛想のいいおじさんが何人かいました。
親に尋ねると、「あれは遊び人だ」 と言い、「相手にするんじゃない、何かくれようとしても断ること」 と念を押されました。
あとになって知ったのですが、大阪はとりわけしっかり者の女衆が多く、小物屋や美容院や喫茶店などを切り盛りしていることが多々ありました。そんな女房の旦那は案外ぼーっとしていて、たまに店を手伝う以外はぶらぶらと一日過ごしているケースも稀ではなかったのです。
で、私たちが公園で下手なソフトボールに興じていると、そんな遊び人のおじさんがどこからともなく現れて、「俺がコーチしてやろう」 などと話しかけてきたものです。「あとでジュースをおごってやるから」 と。

おじさんたちは決まって、阪神タイガースの野球帽をかぶっていました。
ジュースやお菓子をおごってもらいながら、私たちはタイガースの選手がどれほど優秀で人情に溢れた人物であるかということを、講談さながらにさんざん聞かされました。
その影響力たるや、重大なものです。私自身もあっさり長嶋をやめ、阪神タイガースのファンに鞍替えしていきました。
昭和39年、東京オリンピックのあったこの年、セ・リーグの覇権は見事、阪神タイガースの手に握られたのです。
そのあと昭和60年に日本一となるまで、21年間も優勝から遠のいてしまうなどという未来は、誰にも予測のつかないものでした…。

私が子供の頃の街には、工場の油や鉄錆の匂いとか、ドブの臭気がどことなく漂っていました。
少し市街地を離れると田畑があり、人糞の臭いが鼻をつきました。
煙草やコーヒーの香りは、まだ見知らぬ大人の魅惑の世界を想像させてくれたものです。
考えてみると嗅覚が引き金となっている子供の記憶は、大人になってからのそれよりもずっと現実の重みを感じさせてくれるようです。
ドロースの匂いの向こう側に優れたプレーヤーになる夢を見ていた当時は、もしかすると今よりもその嗅覚の分だけ豊かな時代だったかもしれません。

http://www.youtube.com/watch?v=w6b9FWKZwQg
映画 『バッテリー』 主題歌

廃語の風景⑭ ― 『少年少女世界名作文学全集』 [廃語の風景]

横浜線橋本駅:撮影;織田哲也.jpg

このような全集があった、というより 「あり得た」 時代に、私の少年時代は重なります。
『小学〇年生』 のような学年誌には毎月のように広告が出ていたのを記憶していますし、後年にはTVのCMでも流されていました。
育ちの良さそうなお坊ちゃまやお嬢ちゃまが、洋室のソファーに腰かけてご本を読んでいらっしゃる。それを見守るのが、優しいお母様であったりする風景です。
「世ノ中ニハ、あめりかノ家庭ミタイナ部屋デ生活シテイル子供タチモイルノダ?」 と、CMを見ながら口をポカンと開けて思ったものでした。

この手の全集はいくつかの出版社から発行されていましたが、一例として小学館版 『少年少女世界名作文学全集』 (第一期・1960年) の中身をリストアップしてみます。

1.『ロビンソン・クルーソー』  デフォー原作 本多顕彰訳
2.『ガリバー旅行記』  スウィフト原作 中野好夫訳
3.『宝島』  スチーブンソン原作 西村孝次訳
4.『ジャングル・ブック』  キップリング原作 阿部知二訳
5.『アンクル・トムの小屋』  ストウ夫人原作 大久保康雄訳
6.『王子とこじき』  M・トウェイン原作 谷崎精二訳
7.『若草物語』  オルコット原作 村岡花子訳
8.『トム・ソーヤーの冒険』  M・トウェイン原作 吉田甲子太郎訳
9.『小公子』  バーネット原作 川端康成訳
10.『小公女』  バーネット原作 白川渥訳
11.『グリム童話』  グリム兄弟原作 浜田広介訳
12.『アルプスの少女』  ヨハンナ・スピリ原作 高橋健二訳
13.『みつばちマーヤの冒険』  ボンゼルス原作 高橋義孝訳
14.『巌窟王』  デュマ原作 西条八十訳
15.『ああ無情』  ユゴー原作 河盛好蔵訳
16.『家なき子』  エクトル・マロ原作 山内義雄訳
17.『十五少年漂流記』  ジュール・ベルヌ原作 石川湧訳
18.『アルセーヌ・ルパン』  ルブラン原作 保篠竜緒訳
19.『アンデルセン童話』  アンデルセン原作 平林広人訳
20.『ピノッキオ』  コッローディ原作 柏熊達生訳
21.『クオレ』  アミーチス原作 富沢有為男訳
22.『アラビアン・ナイト』  佐藤正彰訳
23.『西遊記』  呉承恩原作 佐藤春夫訳
24.『古事記物語』  室生犀星文
25.『義経物語』  富田常雄文
26.『太閤記』  尾崎士郎文
27.『世界童話選』  秋田雨雀編
28.『日本童話選』  小川未明編

このあと第二期分として 『あしながおじさん』 や 『海底二万マイル』 などの28巻も続きますが、そこは割愛します。さて皆さんは、上記の中でどれほどの物語を読まれたことがあるでしょうか。
私が小学生時分に読んだのは、ほんのわずかしかありません。
人一倍本好きな少年でしたが、お気に入りは 『〇〇の図鑑』 というヤツでした。
こちらのほうは 『植物』 『動物』 『科学』 『天文』 『地理』 『歴史』 など全巻を揃えてもらい、飽きることなくページをめくる毎日を過ごしていました。
けれども文学方面には、ほとんど興味をそそられることがありませんでした。

たまたまある女の子から 「お誕生日会」 に招待してもらうと、その子の家には 『少年少女世界名作文学全集』 が全巻そろっていました。
小さな仏壇ほどもある専用の本棚にズラリと並んだ全集を実際に目にしたのは、この時が初めてでした。
そもそも私の子供時代、「お誕生日会」 にクラスの半数以上も招待すること自体、よほどお子さんに手間暇お金をかけている家庭なわけです。
普段から図鑑やマンガ本に耽っていた私もこれには驚き、たぶん不思議なものを見るような目をして、その中の1冊2冊を手に取っていたことだろうと想像します。

いま私の手元には、『クオレ』 のみがあります。上記の全集の中から、その本だけを買ってもらったのです。
1965年の版で、定価は200円。B6版・320ページで、とても丁寧で上質な製本となっています。
1965年ごろのお金の価値については、公務員初任給で21.600円というデータがあります。
全集28巻を揃えると5600円,56巻だと11200円というのは、かなり高価なものだったと言えるでしょう。

私は文学全集の向こうに夢を見ることはなかったのですが、これを揃えてもらっていた子供たちがどんな夢を抱いていたか、今さらながら知りたい気がするのです。
それは今、ものを書く・本を作るという仕事をしているからという理由のほかに、もうひとつ。
子供の頃の自分が、もし図鑑ではなく文学全集を読む喜びを何かのきっかけで覚えたとしたら、その後の人生がどんなふうに変わったか、という個人的な興味があるからです。

今や古典的な文学全集など CASIO・エクスワードのROMの中に全部収められていることは、通販番組のやたらカン高い声の社長さんによって知らされています。
仏壇みたいな本棚を用意しなくても、気軽にページを繰ることができるようになりました。操作じたいは子供にも何の苦もなく扱えるものとなっています。
だからといって、少年少女が文学に目覚めるようになったという話は聞きません。
かつての文学全集が醸(かも)し出していた格調、言葉をかえればその敷居の高さこそが、文学世界への憧憬(しょうけい・どうけい)を誘発したのかもしれません。
久しぶりに、1冊だけ本棚の隅に身を潜めている 『クオレ』 を取り出し、童心に帰って 「しょうねん・しょうじょ・ぶんがく」 たらいうものを味わってみたい気がします。

http://www.youtube.com/watch?v=zDTUZF54RBU

廃語の風景⑬ ― 仰げば尊し [廃語の風景]

E233系西八・八王子間:撮影;織田哲也.jpg

あるランキング・サイトによると、卒業式ソングの上位には、森山直太郎の 『さくら』 や、ミスチルの 『終わりなき旅』、ゆずの 『栄光の架け橋』 などが上位を占めています。
定番といわれる松任谷由美 『卒業写真』 や海援隊 『贈る言葉』 といったあたりも頑張っています。
EXILE 『道』 や、いきものがかり 『YELL』 といった曲も、この季節の風物詩としてランク入りしているようです。
私の時代の卒業式に定番の歌といえば、なんといっても 『仰げば尊し』 なのですが、同じサイトのランキングでは85位という位置に甘んじているようです。

2008年に 『少年サンデー』 誌での連載を終えた 『金色のガッシュ』 最終回近くに、この 『仰げば尊し』 の全歌詞が、主人公の心理を物語る重要な要素として登場しました。
作者の雷句誠氏はのちにご自身のブログで、「読者から、あの 『仰げば尊し』 とはどんな歌ですか、という質問がたくさんきて驚いた」 と書いておられたのが印象的です。
まずは、その歌詞をご覧ください。

『仰げば尊し』 (文部省唱歌)

一、
仰げば尊し、わが師の恩
教えの庭にも、はや幾年(いくとせ)
おもえばいと疾(と)し、この年月(としつき)
今こそわかれめ、いざさらば

二、
互いにむつみし、日ごろの恩
わかるる後にも、やよわするな
身をたて名をあげ、やよはげめよ
今こそわかれめ、いざさらば

三、
朝夕なれにし、まなびの窓
ほたるのともし火、つむ白雪
わするるまぞなき、ゆく年月(としつき)
今こそわかれめ、いざさらば

実はこの歌には、いろいろな問題があるにはあったのです。
第一に、「わが師の恩」 などというものを文部省唱歌として押し付けるのはいかがか、という論点がありました。旧時代の教育ではともかく、新しい民主主義教育には相応しくない、という話です。
また、「身をたて名をあげ」 という部分にも、立身出世至上主義の雰囲気が感じられ、一庶民としての幸福に水を差すのかといった主張も聞いたことがあります。
全体に文語調であることも問題のひとつでした。たしかに 「今こそわかれめ」 という部分に 「係り結びの法則」 が効いているくらいですから、口語の常識とはニュアンスの違う歌詞であることは間違いありません。

だけど私は思うのですが、この歌詞って、そんなに時代とズレているものなのでしょうか。

たとえばの話ですが、卒業式の一場面を思い浮かべてください。
教師は教師で 「俺が面倒見てやらなければ、お前たちはロクな人間になっていなかったぞ」 といった自負があり、生徒は生徒で 「オメーラはウザかったが、今日からはせいせいするぜ」 という最後のツッパリがあったとします。
それらは互いに交わっていないかといえばそうでもなく、人生の節目の卒業式という舞台を共有することで、案外最後の時間を楽しんでいるのかもしれません。
実際に 「超問題児」 とされてきた生徒から、「卒業式が終わって最初に握手しにいったのが、俺のことをいちばん叱った教師だった」 という発言を聞いたことがあります。
それを想うと、いい加減ウソだと分かっていながら、意識の断層面に最後の一輪の花を飾るとしたら、私はこの 『仰げば尊し』 がぴったりくるのではないかと、今も考えているのです。

いや正直に申すなら、今この齢になってはじめて、件の歌詞の意義がわかったような気がします。意義というより、妙な存在感とでも言った方が適当かもしれません。
違う世代との断層を実感することろから、単なるわがままでない自己の形成がはじまる。
それを象徴する歌が卒業式から消えていくのは、淋しいと言うより、何をかいわんやと怒りにも似た気持ちになってしまうのです。いい齢したおじさんの独り言としてはね。

http://www.youtube.com/watch?v=qOw-tVhJjw8
今日は珍しく、ブログの内容と100%リンクした歌です。どうぞ。

廃語の風景⑫ ― 続・ワードプロセッサ [廃語の風景]

EF210貨レ西国分寺駅通過:撮影;織田哲也.jpg

30歳で独立した頃は神田神保町に事務所がありました。
こう言えば聞こえはよいのですが、実際は某広告代理店の関連の出版社が開店休業状態となっていたところに、間借りしていたわけです。
最初のワープロはこのときに導入したのですが、その後は新しい機能を備えた機種が次々と出回るようになりました。しかもどんどん値段が安くなっていきます。
神保町から秋葉原へは、歩いてでも行ける距離です。
メイド喫茶もAKB劇場もまだなかったアキバに、私は足しげく通いました。電気街巡りは中学時代から大阪・日本橋で修業を積んでいたため、お得意のものです。
目的は、ワープロも含めて進化するOA機器に、実際に触れて回ることでした。

当時、ワープロの辞書機能を計るのに、難解な熟語が変換できるかどうかがひとつの目安になると言われていました。
電器店の店頭に新機種のワープロがあると、私もついついその機能を試してみたものです。
例えば 「ちみもうりょう」 と入力して、「魑魅魍魎」 という 「鬼へん」 の文字が4つも続くおどろおどろしい熟語に変換できるか、といった具合です。
あるいは、「五月雨(さみだれ)」 「陽炎(かげろう)」 「蜻蛉(とんぼ)」 「祝詞(のりと)」 「長閑(のどか)」 といった熟字訓が変換できるかも、興味と試験の対象となっていました。
ついでに言えば、ワープロの黎明期にいろんな機種に触れてまわったおかげで、自然と機器の扱いやキーボード操作に熟練するようにもなっていきました。

そして、意外な効果があったと思えるのは、ワープロ操作を通じて言語そのものへの興味が深まったことでした。
文書を手書きしていた時代は辞書を引くのが面倒なので、複雑な漢字での表記を避けたり、ほかの言い回しに変えたりする傾向がありましたが、キー操作ひとつで変換できるとなるとそんな手間が大きく省けるわけです。
言語のキーボード化は、一方では漢字を覚えなくなったというマイナスも生みましたが、他方で漢字や熟語、日本語への興味といったプラス面が発達したことも否定できないでしょう。
これまでに何度か起こったいわゆる 「日本語ブーム」 に、ワープロの広まりが影響を与えたということは、多くの人が認めるところです。
だから 『書院(シャープ)』 だの 『文豪(NEC)』 だのと大袈裟な名前のついた機種があったのか、と今になって思う次第です。

パソコンを使うようになって以来、(一部のDTP編集機を除いて) ワープロ専用機を使うことはなくなりました。
大型リサイクルショップ、例えば HARD OFF のいちばん奥にはジャンク品を積み上げたコーナーがあります。そこを自らの墓場と決め込んだワープロ専用機もしばしば見かけます。
個々の機器は流れの速い川に浮き沈みしたおかげで、実際に使用された年月からすればTVなどよりずっと短命だったに違いありません。
キーボードに手垢をつけたかつての主はいま、どこでどんな言語生活を送っているか、彼らは知ってみたくないのだろうかと、ひそかに思ったりしています。

http://www.youtube.com/watch?v=wpWYYwYfeMk
八王子出身の作詞・作曲者は、まだ旧姓です。

廃語の風景⑪ ― ワードプロセッサ [廃語の風景]

485系魔改造車『華』:撮影;織田哲也.jpg

いま 「ワープロ」 といえば、WORD や一太郎といったパソコン用の文書作成アプリケーションソフトを指すのが当たり前になっています。
1980年代の 「ワープロ」 は圧倒的に 「ワードプロセッサ」 を指していました。これはある年代以上の者にとっては記憶に新しいところと言えるでしょう。
日本のパソコン環境は1990年代から徐々に広まりを見せ、Windows 95 の登場によって一気に普及しましたが、それまではワープロ専用機が職場や家庭で支持を得ていました。
今では中古市場にしかその姿を見ることはなくなっています。「廃語」 の風景もいよいよ加速してきたものと、あらためて認識させられます。

私が勤務していた出版社をやめて独力でやりだしたのは1985年のことでした。そのときコピー機より前に導入したのが、キャノンから発売されていた Canoword Mini-5 というワープロでした。
http://www.chiba-muse.or.jp/SCIENCE/vm/doc/sub/0030095.html
上の画像は Mini-9 で、よりあとの機種です。私が買った Mini-5 のほうは文字の出るカーソルが1行しかなく、FDD(フロッピーディスク・ドライブ)もついていませんでした。
辞書には学習機能がなく、同じ変換を何度も繰り返さねばなりません。データを容易に保存できないので、スイッチを切ったら二度とその文書には出会えませんでした。
画像つきの文書を作るなどまったく想定の範囲外。そもそもモニタがついていないわけで、勘を頼りにエイヤッと印刷して、はじめてレイアウトが確認できるという代物でした。
この機種に、当時なんと29万8千円も支払ったのです。

それでもワープロを導入したかったには、私なりの理由があります。
実はワタクシ、たいへん字が汚いのです。
弁解がましいことを言えば、小学校低学年からずっと書道を習っていて、中学生のときにはその教室の最高段位を取るまでになっていました。
だからきれいな字を書くことができないわけではありません。今でも時間をかければバランスが良く美しい文字を書くことはじゅうぶん可能です。
ただ、せっかちでいい加減な気質が災いして、文字をきれいに書く根気が1分も続かないのです。
「字なんか読めりゃいいや」 という割り切りが我ながら見事すぎて、誰も私の字を読むことができないばかりか、時には自分でも何を書いたかわからなくなるほどでした。
だから、ずっと昔から文字をきれいに清書してくれる機械というのを求めていました。ドラえもんがいたら、きっと真っ先にねだったことでしょう。
上に書いた程度のワープロ機種でも、私にとっては夢の道具で、何が何でも手に入れたい一品だったわけです。

いま同じ金額を出せば、パソコン本体にモニタやプリンタもつけて、かなり高級なものが買えます。
けれども、そのセットを買ってきてできることは、たいてい予測がついています。新品を手に入れる喜びはあっても、そのことで夢が大きく広がるかといえば、さほどでもない気がします。
あの頃、初めてワープロを使ったワクワク感は、独立した直後という人生の節目とも相まって、忘れがたい高揚感を与えてくれました。
クライアントに出す大事な企画書で、「今ではイベントは…」 とすべきところを 「居間で排便とは…」 と変換ミスしたまま提出し笑い種になったことも、私には一生の思い出となっています。

http://www.youtube.com/watch?v=teMdjJ3w9iM
最近、このフレーズがアタマから離れません。春だからかなぁ…?

廃語の風景⑩ ― ミゼット/スバル360 [廃語の風景]

長野色115系:撮影;織田哲也.jpg

いま日本では、軽自動車がよく売れています。
原油高が続きガソリン代が高騰したおかげで、性能が良くて燃費のいい軽自動車に人気が集まったせいです。
実際、上の娘が乗っているダイハツ・ムーブは660ccながら、低燃費の割にはふた昔ほど前のリッターカーと同じくらいのパフォーマンスを示し、内装もまあまあの出来になっています。
さらに軽自動車の税金は普通乗用車に比べて格段に安いのが特徴です。自動車税は都道府県が課税しますが、軽自動車税は市区町村が課税することも、その理由のひとつになっています。
最近アメリカの一部の業界が、こうした日本の税制に注目し、TPPを利用して軽自動車税を撤廃するよう求めていますが、これには日本の自動車の歴史を踏まえて反論したいところです。

ダイハツ 『ミゼット(Midget)』 は1957年に生産が開始されたオート三輪で、『Always・三丁目の夕日』 にも見られるように、戦後復興する産業のシンボル的存在とも言うべき車です。
鈴木オートのような中小企業や個人商店が経営を拡大していくにあたって、欠かせない一台だったのがこの車種なのです。
一方、富士重工の 『スバル360』 は1958年に登場し、 量産型軽自動車として初めて大人4人乗りというコンセプトを実現した画期的な車です。
エンジンは空冷2ストローク2気筒356ccと、車のエンジンというよりバイクのそれと言った方がふさわしいシロモノですが、「マイカー」 という言葉を定着させた最初の車種となりました。
実際に大人が4人乗車すると、それはそれは窮屈な車内だし、走行性能も今から思えば極めて貧弱なものだったに違いありません。
しかし、自営業者の夢が前述のミゼットだったとしたら、勤め人の家族が休日に家族でドライブする夢を乗せたのがスバル360だったわけで、その意味でこの2車種は戦後の自動車史というより、世相の歴史そのものを物語る大きな役割を担ってきたと思われます。

1960年代の高度経済成長期を迎えると、やがて1000ccのニッサン 『ブルーバード』 や トヨタ 『コロナ』 などが車社会を支える柱となっていきます。
そうした車種が1500~1600ccに格上げされるようになると、『サニー』 や 『カローラ』 といった1200cc前後の大衆車が新たなファミリー層に定着し、そのようにして日本のモータリゼーションは発達し続けてきたわけです。
その時代においては、すでにミゼットやスバル360は生産されなくなっていました。
しかし日本のクルマの原点を振り返る時、この2車種を除いて語ることはできないという事実に変わりはないと考えてよいのではないでしょうか。

いま我が国のクルマ事情は、「一家に一台」 から 「一人に一台」 という考えが当たり前とも言えるでしょう。
都市部では通勤や買い物といった近場の移動に気楽に利用できる軽自動車が普及し、農村部では 『サンバー』 などの軽トラックが欠かせない存在となっています。
その姿こそ見かけなくなりましたが、『ミゼット』 と 『スバル360』 の残した文化は、きっちり現代にも受け継がれている、そのことに異論ははさめないのではないでしょうか。
「TPPにともなう軽自動車税の撤廃」? ― バカなことを言ってはいけません。それはあまりに、国情というものを無視した悪平等の産物です。
キャデラックがアメリカ車の魂を表しているというのであるならば、日本車の魂の原点は 『ミゼット』 と 『スバル360』 にこそあると言い切って過言ではないはずです。

私たちの国の庶民は小さな国土で小さな家に住み、大きな良いことも大きな悪いこともしないながら、小さな良いことと小さな悪いことを日々重ねて、小さな夢を一歩ずつ実現してきました。
小さいものへの愛情こそが、良くも悪くもこの国の潜在的な姿なのです。特段に愛国の精神など鼓舞しなくとも、小さな幸福の中にじゅうぶんこの国を誇る精神は受け継がれているわけです。
歴史の中の名車は現代の私たちに、そんな大切なことを語りかけてくれているように思えてなりません。
伝統の重みというのはいつだって、そんな身近なところから生まれ出ずるものなのです。

http://www.youtube.com/watch?v=sKHg-JQaLBQ

廃語の風景⑨ ― ハーフサイズカメラ [廃語の風景]

多摩都市モノレール高松駅付近:撮影;織田哲也.jpg

普通の半分の大きさをしたカメラ? そうではありません。
何がハーフサイズかというと、1枚の写真で使用するフィルムのサイズが半分なのです。
もう少し説明を加えると、一般的であった35mmフィルムでは写真1枚のネガ面積が36mm×24mmであったのに対し、それを縦に半分に割って18mm×24mmで使用する機能のカメラなのです。
1960年代を中心に流行りました。当時の主流だった36枚撮りフィルムを使うと、ハーフサイズカメラでは72枚撮影することができたわけです。
欠点は、フルサイズに比べると解像度が半分に落ちてしまうこと、そして普通に横長の写真を撮るときはカメラを90度回したポジションで扱わなければならなかったことがあげられます。

当時はカメラもフィルムも非常に高価な時代でした。
また、フルサイズのカメラは図体が大きくて重いものが多く、操作するにもある程度の熟練が必要で、女性向きの機械ではなかったのです。
ところが1961年、歴史的なハーフサイズカメラが登場します。『オリンパスペンEE』 と呼ばれる機種で、機能を限定して 「シャッターを押せば写る」 のが売り物のコンパクト・カメラです。
それ以前にも極端に簡単なオモチャのようなカメラはありましたが、このオリンパスペンEEは操作の割に性能は本格的で、そのシリーズは多様化してその後多くの世帯で使われることとなります。
http://www.olympus.co.jp/jp/corc/history/camera/pen.cfm
丁度、高度経済成長期を迎え、若いカップル(当時はアベックと呼んだ)が新婚旅行などを楽しめる時代となっていました。
東京発九州行きのブルートレインは吉日ともなれば新婚カップルで満席となり、特に宮崎県は 「フェニックス・ハネムーン」 の聖地として憧れの的となりました。
そんな新妻が下げるハンドバッグの中に、このスマートなオリンパスペンEEが入っていることも多かったという話です。

私事になりますが、小学校4年生のとき(1965年・昭和40年)、クリスマスのプレゼントに 『フジカハーフ』 というハーフサイズカメラを買ってもらいました。
その前年くらいから、私は親父のあとをついて鉄道写真修行を始めていました。
親父がかつて使っていた安物の二眼レフカメラなので、使い勝手がすこぶる悪く、自分用のカメラが欲しいとねだったからです。
親父にしてみれば自分の趣味を息子もするようになってきたので、それじゃあ考えてやろうということになったのでしょう。
多少は値切って買ったのでしょうが、カタログ定価は9800円でした。調べてみると、大卒初任給が24000円前後の時代です。今の感覚で言えば、7~8万ほどの価値ではないかと思われます。
http://ha1.seikyou.ne.jp/home/takac/halfsize/fujica.html
私が写真に馴染んだのは、ひとえにこのカメラのおかげでした。
1本のフィルムで72枚も撮れたわけですから、あとで暗室の中でそれを1枚1枚印画紙に焼き付けるのはたいへんな作業でしたが、嬉々としてやっていた記憶があります。

考えてみると高度経済成長期というのは、「小さいもの」 プロダクツの全盛期でした。
日本製トランジスタラジオが国内でも普及し始め、海外への輸出が大きく伸びたのも1960年あたりからでした。それ以来、精密機器の小型軽量化は日本のお家芸と呼ばれるようになります。
ハーフサイズカメラもまた、そんな時代に一世を風靡した格好になりました。
時は移り、デジカメ全盛期の今ではフイルムカメラを見かけること自体少なく、ましてやハーフサイズカメラなど博物館にでも行かなければお目にかかれないくらいの存在です。
そもそも携帯電話にすら、そこそこ映るカメラ機能がくっついています。

私が買ってもらったフジカハーフはもう正常には作動しませんが、今でも手元に残してあります。
親から買ってもらったものなどほとんど手放し、むしろ親に逆らう形で半生を生きてきた私です。
それでもこれだけを大事にとってあるのは、いまものを書いて表現する仕事についていることの原点が、この手の平サイズのカメラにあるように思えるからです。
手に取ると、小型のくせに意外とずっしりくることには、何か意味があるのかもしれません。

http://www.youtube.com/watch?v=_nx9rrNUI50

廃語の風景⑧ ― ながら族 '70 [廃語の風景]

立川某所:撮影;織田哲也.jpg

「ながら族」 という言葉すら、今の若い人は 「え、なにそれ?」 と言うかもしれません。
これには1970年代に大流行したラジオの深夜放送が深く関係しています。その深夜放送を聴き 「ながら」 受験勉強に精を出した世代を称する言葉です。
いわゆる団塊の世代の先輩たちは、大学の募集人員に対して、受験者数が圧倒的に多かった時代に生きていました。
その当時の言葉として 「四当五落」 というのがあります。これは、睡眠時間が四時間の者は合格するが五時間も寝ている奴は受験に失敗するという意味で、いかに熾烈な受験戦争が展開されていたかを物語っています。
現代では受験する若者の人口が減少したり、高等教育機関が多様化したり、その募集人員が増えたりして、環境が整えば誰でも高等教育を受けられるようになりましたが、ひと昔前はそう簡単にいく話ではなかったわけです。

団塊の世代でブームとなり、私の世代で多様化したのが、まさにラジオの深夜放送でした。
人が寝静まってから受験勉強はいよいよ佳境に入る。そのとき、圧縮された空気をほんの少しほぐしてくれる存在が、まさにラジオだったのです。
そんな 「ながら勉強」 が功を奏した人もいれば、そのせいで勉強に熱が入らなかったという人もいます。いや、そちらの人のほうが確実に多かったはずです。
そもそも 「ながら族」 とは日本医科大学の木田文夫教授が、何か他事をしながらでないと物事に集中できない精神疾患の人をさして表した言葉ですから、はなから文化の範疇に入る話ではあり得ないのです。

ではなぜ1970年代の深夜放送が多くの若者を惹きつけたかというと、それには大きく2つの理由があると私は考えています。
ひとつは、それまで扱われなかった深夜という時間帯に新しい若者文化を開放しようとしたことの功績です。
いまひとつは、商業ベースに乗れなかったフォークソングやニューロックのミュージシャンをDJに起用したことで、新しい音楽シーンを展開することができたからです。
深夜放送に没頭しすぎたために受験に失敗した若者も当時はたくさんいたことでしょう。
それでも恨み言が聞かれないのは、たとえ結果が出なくても、そのときに流れていたラジオの声や音楽に、若い感性が間違いなく同調していたからではないかと思えます。

私は団塊の世代よりも5年ばかりあとの生まれですから、ラジオの深夜放送に聴き入ることはむしろ、大人の世界への早熟なスタートという意味合いのほうが強かったと思われます。
同世代にとって 「ながら勉強」 は大学受験を特定したものではなく、中学生・高校生が少しずつ成長していくための日常的な過程や営みとなりつつありました。
私が高校時代に思い入れのあったのは、大阪のMBSが1:30から5.00まで放送していた 『チャチャヤング』 という番組です。
パーソナリーティーはミュージシャン(メジャーになる前の谷村新司など)以外にも、放送作家や大学教授、SF作家(眉村卓さん)などがラインアップされていて、まさに多様化の花が開いた時代でした。
………

多様化の次は俗物化が起こり、その次にはマンネリ化が起こる。これは大衆文化の逃れられない運命なのでしょうか。
1983年にフジテレビで 『オールナイトフジ』 が放映される頃にはラジオの深夜放送はめっきり影をひそめ、1994年には城達也さんの 『ジェットストリーム』 がひっそりと幕を閉じました。
「ながら族」 という言葉がいつごろ消えたのか、私には判別できません。
ひとつ現象としてわかっていることは、いつのまにか 「~族」 の時代は姿を消し、いつのまにか 「~系」 の時代に移行していたということだけです。
ある世代を十把一絡げにして 「~族」 と表現するような風潮には、私は賛同できません。
かといって、そう言ってしまえばなんとなく理屈が通るような 「~系」 という逃げ方は、断じて創造的であると思えません。

私にとって心の置き所を探すという作業は1970年代の深夜放送ラジオの時代に始まりましたが、いやまさか、今にまで継続されているとは思いもしませんでしたよ。

http://www.youtube.com/watch?v=S45sZVbKm-g

廃語の風景⑦ ― 喫茶店のマッチ [廃語の風景]

日野駅の湾曲ホーム:撮影;織田哲也.jpg

知り合いの印刷会社はかつて、喫茶店のマッチの製造を得意としていました。
印刷だけでなく、紙の断裁や箱の組み立てなど結構手間のかかる作業で、30年ほど前までは売上全体に占める割合もかなり高かったという話です。
それが現在では注文が激減し、入ったとしても単純な構造の折り畳み式紙マッチがほとんどだそうです。
1970年代半ばにいわゆる100円ライターが普及したことによって、マッチの使用頻度や製造個数は急速に低下していったようです。

1970年代半ばというと私が一浪して大学に進学した頃と重なります。
喫茶店に入り浸って水ばかりお代りしながら何時間も、友人とダベったり、独りで本を読んでいたりという習慣があったのもそんな時代でした。
少しおしゃれな喫茶店のテーブルの上には、灰皿の脇にその店が独自に作ったマッチが置かれていました。
デザイン的に優れたものも多く、一時期は毎日違った喫茶店を訪れて、そうしたマッチを集めて回っていました。机の引き出しには、常時100個を下らない数のコレクションがあったと思います。
しかし100円ライターの普及の速度は驚異的に速く、気がつけば喫茶店のマッチは街から姿を消していきました。
時を同じくして、私のコレクション熱も冷めてしまいました。集めたくなるような凝ったデザインのものが次第に少なくなっていったことも原因のひとつだったでしょう。

いや、それ以上に、私自身が喫茶店に入り浸る機会を減らしてしまったことがあげられます。
また街なかにはファーストフードの店やファミレスが勢力を伸ばし、昔ふうの雰囲気のある喫茶店が凌駕されていったのも大きな理由と言えるでしょう。
一部の地域を除いて喫茶店文化などと呼ばれた風景は消え、安さや手軽さがいちばんに求められるカフェには、手の込んだマッチなど必要のないものとなってしまったのです。
神田神保町に行けば、「さぼうる」 「ミロンガ」 「ラドリオ」 など歴史と風情を有した喫茶店は今でも営業していますが、私はそうしたお店よりもファミレスを利用することが多いです。
理由は簡単で、ファミレスのテーブルは面積が広いので、飲食をしながらノートPCを操作したり、取材した資料を広げたりすることが容易だからです。
私自身の心の中では、喫茶店文化を味わおうという気分は過去のものとなってしまいました。

奇しくも2月18日は 『嫌煙運動の日』 です。1978年のこの日、「嫌煙権確立をめざす人々の会」 が結成されたそうです。
今や喫茶店内は分煙化が進み、もとから喫煙席の設置されていないお店も増えました。
私は本数はめっきり少なくなりましたが、喫煙の習慣が多少残ってます。それでも禁煙席を利用することのほうが圧倒的に多いのは、いろいろな人の吐き出した煙のなかに真昼間からいることを嫌うからです。
1980年代に市場を席巻したデオドラント文化の影響を受けて、私もそんなふうに変化しました。
喫茶店のマッチの思い出は、猥雑な空気が支配する環境に入り浸っていることを自ら求めた、あの若い日々の記憶に重なっています。
そうした記憶の片隅には、煙草の先に火を点けようと喫茶店でマッチを燃やしたときの燐の匂いが漂っています。
それを素直に懐かしいと感じる反面、思い出したくない記憶がその匂いの周辺に潜んでいるような気がして、なぜか眉をひそめてしまったりもするのです。

http://www.youtube.com/watch?v=rl5dFVySigY
1973年のリリースとはとても思えないセンスの良い曲です。

廃語の風景⑥ ― ビートルズ1966 [廃語の風景]

DE10単機回送:撮影;織田哲也.jpg

初めに弁解しておきたいのですが、私は 「ビートルズ」 という歴史的なユニットが現代音楽における意味を失ったと主張しているわけではありません。
あえてあとに 「1966」 と付け足しています。この年は日本武道館において、彼らの最初で最後の日本公演が行われた年です。
その公演の周辺で起こったいろいろな出来事を整理していけば、なぜ 「ビートルズ1966」 を廃語認定したかということをお分かりいただけるかと思います。

ビートルズ日本公演は、1966(昭和41)年6月30日から7月2日の3日間に、5回のステージで行われました。
今ではコンサートといえば2時間公演が相場ですが、当時は1ステージ30~40分が常識で、だから1日に2回公演することが可能だったのです。
公演の計画はその年の早春から交渉が始められ、4月9日には読売新聞に次のような記事が掲載されました。
「読売新聞社は協同企画、中部日本放送と協力して本年6月末、現在世界で最も人気のあるイギリスのボーカル・グループ 『ザ・ビートルズ』 一行4人を招き、極東で初めての演奏会を開催することとしました。(中略) 今回はザ・ビートルズ一行が6月からドイツ、アメリカ、カナダ演奏旅行の途次、日本公演が実現することになったもので、我が国音楽界の最大の話題であり、音楽愛好家にとってまさに千載一遇の機会であります」

日本公演の入場券はハガキによる抽選販売でした。3日間5ステージの合計収容人数は多く見積もっても3万人でしたが、全国から集まった応募は20万通を超えています。
会場が日本武道館であったことは大きな波紋を呼びました。当時の武道館理事長は、
「女王から勲章を授けられた英国の国家的音楽使節、ザ・ビートルズが読売新聞社の招きにより、初めて日本で公演をすることになりました。(中略) 英国側からも重ねて強い要請がありましたので、諸々の情勢を検討した結果、その使用を許可することになりました」
と声明を発表しましたが、当の読売新聞社・正力松太郎オーナーは、
「ペートルなんとかというのは一体何者だ? そんな連中に武道館を使わせてたまるか」
と発言しています。

TBSテレビで人気の 『時事放談』 という番組では、
「ビートルズがこじき芸人なのは、騒いでいる気違い少女どもを見れば一目瞭然」
「あんな気違いどものために武道館を使わせるなんて、もってのほかだよ。ゴミだめの夢の島でやらせりゃいいんだ」
などの発言が相次ぎ、ファン心理との間の摩擦はますます上昇。
これに対し警視庁は 「ビートルズ対策会議」 なるものを立ち上げ、来日に際しては機動隊のべ3万5千人の導入を決定し、ついでに都内の小中高等学校に対して 「良識ある行動をとるように生徒に話してほしい」 と異例の要望まで出しています。
6月24日には暴走ファン対策の一環として、警視庁は非行少年早期対策を敢行、683人を補導しています。武道館・北の丸公園周辺は、今から思えばテロリスト対策かといったふうな厳重警戒態勢が敷かれていきます。

6月29日、暴風雨の影響で大幅に遅れていた日航機が、ついに羽田空港に到着しました。
ビートルズの面々はハッピを着て軽快にタラップを降りてきましたが、すぐにキャデラックのリムジンに乗せられ、ヒルトンホテル(現:ザ・キャピトルホテル東急)に直行。ホテルの警備には婦人警官を含む2000人の警官隊がスクラムを組みました。
毎日新聞:「安保、日韓を除いては、警視庁創設以来の大規模な警備体制」
朝日新聞:「前後がパトカーを固める。国賓なみに税関もフリーパス。あっけにとられる歓迎陣を後目に100キロ近いスピードで空港北端のゲートから消え去った」
などと報じています。

ものものしい警備とはうらはらに、ステージは熱狂の中で展開します。
第一回目のステージに立ち会った作家の北杜夫氏は、
「ビートルズの姿が現れるや、悲鳴に似た絶叫が館内を満たした。それは鼓膜をつんざくばかりの鋭い騒音で、私はいかなる精神病院の中でもこのような声を聞いたことがない」
と、中日新聞に寄稿しています。
また都議会警備消防委員会のある議員は、
「警視庁が主催者の片棒をかついだものであり、また神経過敏になりすぎた大袈裟な警備が、逆に狂乱状態をあおることになったのだ。税金の無駄遣いだ。」
とコメントしています。

7月1日の午後2時からの公演はTV放送され、視聴率60%と驚異の数字をたたき出しています。
ビートルズのメンバーは、つごう在日103時間を経て、次の公演地であるフィリピンへと向かいました。ここで最後のハプニングが起きます。
当初予定されていたキャセイ航空から日航へと、航空会社が急きょ変更になったのです。
これは日航側が、航空運賃をタダにするからうちの旅客機に乗ってほしいと要望したためで、「ビートルズが乗った飛行機」 というPRを打つための作戦だったということです。

ビートルズ来日のこの年、私は小学5年生でした。
公演の模様はTVで少し見ましたが、キャーキャー言う声が高すぎて、演奏がほとんど聴けない状態であったことをありありと思い出します。
現在に至るまでには、おそらくもっと耳をつんざくようなコンサートを経験しているはずですが、「社会的狂乱」 という意味ではビートルズ1966に勝るものはないと思っています。
上記の中で、「あんな気違いども」 「ゴミだめの夢の島」 「いかなる精神病院の中でもこのような声を聞いたことがない」 などの発言は、あえて引用しました。
当時のものとはいえ、差別発言と受け取られてもおかしくない表現です。ただ時代が大きく変わりゆく断層面に、真っ正直に咲いた花の言葉であることは否めません。
私が 「ビートルズ1966」 を廃語として扱った理由は、まさにその点にあるのです。お汲み取りいただければ幸いですが。

http://www.youtube.com/watch?v=q3xEn2uV7qo

つぶやき:普段は1つの記事で平均30分、短い場合はそれ以下の時間で仕上げていますが、今回は1時間以上かかってしまいました。まあ、格別のネタですから。

廃語の風景⑤ ― 野良犬 [廃語の風景]

多摩の古民家:撮影;織田哲也.jpg

昨日 『月に吠える』 を書いたとき、引用した萩原朔太郎の詩の中に 「青白いふしあはせの犬」 という記述がありました。
そこからの連想です。最近身のまわりに野良猫はいても、野良犬はすっかり見かけなくなりました。
絶滅に近いのかといえばそうでもないらしく、厚生労働省の資料によると、たまに野良犬の被害について苦情が持ち込まれているようです。
「野良犬」 が消えたわけではなく、野良犬の生息できる環境が極めて限定的になったと言ったほうが正しいのかもしれません。
ちなみに野良犬の管轄は保健所で、野良猫は環境省らしいです。
狂犬病とのからみもあり、早くから保健所が野良犬の駆除に手を回したので、その効果が現在に現れているということでしょう。

小学校2年生のとき、私は野良犬に手を噛まれたことがあります。
自宅でも犬を飼っていたので、不用意に野良犬の頭を撫でようとしたのが原因でした。手の平に深くえぐったような傷がつき、出血は大したことなかったのですが、奥のほうにズシンとくる痛みがありました。
親に告白すると、はじめ真っ青な顔になって近くの大きな病院に強制搬送され、狂犬病の危険はまずないだろうと判断されるに至って、ようやく真っ赤な顔で怒られました。
昭和30年代後半のことですが、狂犬病の恐怖というのはそれほど身近なところに存在したのです。

保健所の犬狩り、などというものもありましたが、私は現場を見たことはありません。
友人の話によると、数人の男たちが犬を追い込み、セミとりの網を大きくしたやつで捕獲していたそうです。
近所の公園と河原の間ををウロついていた顔見知り(?)の野良犬もどうやら駆除されたらしく、銀玉鉄砲で狙撃する楽しみはいつの間にかなくなってしまいました。

昭和39(1964)年は、東海道新幹線の開通から東京オリンピックの開催に代表される年です。
昭和45(1970)年には、大阪万博が開催されています。
高速道路の開通や都市部における下水道の整備など、一気に近代化が進んだ時代と言ってよいでしょう。
その一方で消えていったものもたくさんあったはずです。野良犬もそんな時代の流れに飲み込まれ、沈んでいった命だったのかもしれません。

故・中島らも氏によると、大通りの端でいわゆる 「ヤンキー座り」 をしていると、「野良犬の目線」 になるらしいです。
通行人の顔ではなく腰、腰、腰ばかりが通り過ぎる風景をぼんやり眺めていると、「この人たちと自分とが何の関係もないんだ」 ということが実感でき、「安心して、少し哀しい気分がして、ようするにどうでもいいや」 という思いがするとのこと。
つまり野良犬そのものはあまり見かけなくとも、野良犬のような人になることはできるのです。
そう思うと無性に 「野良犬の目線」 が気になって、田舎の便所以外ではしないヤンキー座りを繁華街でやってみたくなります。というか、やってみたくてうずうずしちゃっています。

そんな思いに耽っている深夜、小雪の舞う自宅近辺の路上で狸を見かけました。
珍しいことではありません。近くの山には狸やハクビシンなどが生息していて、山を切り崩して開発された住宅団地には頻繁に姿を見せているのです。
きまって庭にため糞をされているご近所もあります。
狸のほうはいたって堂々としたもので、人間に気づいても害を与えないと知ると、えっちらおっちら向こうに去っていくだけです。
そういえば狸はイヌ科の動物、なんだ、野良犬は近所にもいたのでした。
寒さに負けず頑張って生き抜いてほしいものです。
間違っても保健所なんかに捕まるんじゃないぞ。もう銀玉鉄砲で撃ったりしないからさ。

http://www.youtube.com/watch?v=_ujNZshoCKU
15年前まで住んでいた多摩ニュータウンが舞台です。

廃語の風景④ ― 駄菓子屋 [廃語の風景]

中央線と富士(立川近郊):撮影;織田哲也.jpg

前に 「スカ」 について述べたとき駄菓子屋が場面として登場しましたが、考えてみると駄菓子屋自体、廃語であるように思います。
たしかに駄菓子屋はいまもありますが、レトロショップとして開店しているところがほとんどです。
そこで売られている商品もチープな雰囲気のものではありますが、それぞれ衛生管理がしっかりなされていて、誰が食べても安心なものになっています。
そんな駄菓子屋は、私の知っている 「あの駄菓子屋」 とは趣きがまったく違うのです。
何がいちばん違うかといえば、今の駄菓子屋には 「子供だけの悪所」 といった風情がないことです。
子供の世界というのは大人の世界の前段階などではなく、それ自体が独特の価値観を持ったものであり、大人の介入を許さないことが無言のルールとして存在している世界なのであります。
(⇒参照: J.J.ルソー 『エミール』)

個人的な話になりますが、私の実家は堺市でちょっとした救急医院を営んでいました。
父親が医師で母親が看護師ともなれば衛生観念は強いのが当たり前で、駄菓子屋に行くなどもってのほかという指導を受けていました。
近所にN君という同級生がおり、彼の家は医薬品の卸問屋を経営していて、私と同じように駄菓子屋で買い物をしたことなどありません。
その二人があるとき共謀して、思いっきり駄菓子を食ってみたいものだという話になりました。

堺市は刃物や自転車の工業が発達していて、近所には鉄工所やネジの工場などがたくさんありました。
私たち二人は道に落ちている鋼のボルトやナット、銅線、真鍮の加工品などの欠片を集めて、鉄屑屋さんに売りに行くことを思いついたのです。
実際、高度経済成長当時の工業地帯では、金属片の管理などいい加減なものだったのでしょう。二人で30分ほどかけて集めた金属片は、売りに行くと100円以上になりました。
もちろん今の100円ではありません。公務員初任給が2万円程度の時代の100円です。
子供のお小遣いも平均すれば1日20円ほどだったので、一人50円の駄菓子が買えるとなればもうこの世は天国みたいな気分です。

N君と私がそうやって儲けた(?)お金を握りしめ、胸ふくらませて訪れた駄菓子屋さんは、なんとも妖しい魅力がいっぱいのワンダーランドでした。
当時の駄菓子屋さんの様子はネットで画像検索すればいくらでも出てくるので、ここでは細かい描写は省きますが、ひとつ2円とか3円とかいった水彩絵具のような色合いのお菓子がいっぱい並んでいて、本当に健康に悪いものばかりだったでしょう。
一例をあげると、1つ2円で売っていた 「変わり玉」 という飴菓子は、口に入れた瞬間に舌の上に赤い色が広がり、さらに舐めるにしたがって舌が青や緑や黄色に染まっているといった代物でした。
人工着色料の塊と言って差し支えない、とんでもない食品だったに違いありません。親が 「行くな」 といった気持ちも、今から思えば当然の話なのです。

現代の子供たちは、そんな 「子供だけの悪所」 を経験することはできたのでしょうか。
私たちの時代よりも、はるかに早熟な子供たちが増えています。sex の経験年齢も、当時の常識とはずいぶん異なる環境に現代の若者たちはいると思います。
けれども sex はどんなに時代が変わろうと大人の世界の産物であり、そこに近づくのが早いからといって、彼らが子供だけの世界をじっくり熟成してきたかどうかとは別物の話ではあるでしょう。
コンビニの前にたむろしてカップ麺などをズルズル食っている高校生などを見るたび、
「ああ、彼らにとっては今が駄菓子屋の時代なのだろうけど、もっと幼い時期に子供としての悪所通いをしたかったんだろうな」
そんなふうに思えば、青少年が少々街を汚したって、全部許してあげたい気になったりもするのです。

http://www.youtube.com/watch?v=pcmh2FoDH5A

廃語の風景③ ― スカ [廃語の風景]

下り8000系快走:撮影;織田哲也.jpg

映画 『Always 三丁目の夕日』 の主人公のひとり、小説家の茶川竜之介は小説では食べていけないので、オンボロの駄菓子屋を営んで糊口をしのいでいます。
文学雑誌の懸賞に応募はするものの落選続きで、それを店の客の小学生にまでからわれます。
その腹いせに、店に出している10連発ピストルの当たるくじ引きのくじに、「スカ」 という文字をどんどん書き続けていくシーンがありました。
子供の頃に駄菓子屋でくじ、あるいは当てものをした経験のある人なら、外れたときのくやしさは必ず記憶にあります。毎回 「アタリ」 ばかり引いていた人はいないはずですから。
けれども、いつの間にか 「アタリ」 でないくじは 「ハズレ」 になって、「スカ」 という文字は今では見かけなくなってしまいました。

「ハズレ」 と 「スカ」 とでは大きな違いがある感じがします。
たとえばサッカーでシュートを打って、ゴールネットを揺らせば当然それは 「アタリ」 です。
惜しくもキーパーに阻まれるかゴールを外してしまったとき、それは 「ハズレ」 になりますね。
ところが同じシュートの場面で、ボールが足下にあるのに空振りをしてしまった。「スカッ」 という擬態を残して。ここに 「スカ」 の本質が見えます。
ゴールを外してしまった友人には 「ドンマイ!」 などとかける声もありますが、大事な場面でスカッと空振りをしてしまった友人の周りには無言の重みに支配された異様な空気が漂うだけです。
本人にとっても、前者は確実にシュートを決めるにはもっと自分を磨かねばといった反省も働きますが、空振りの場合は自己嫌悪に陥るばかりで反省する気力さえ残されないでしょう。

このように見ていくと、「ハズレ」 には救いがありますが 「スカ」 にはない。
「スカ」 には絶望だけがありありと現れている印象です。
だが果たしてそう言い切っていいのでしょうか。へそ曲がりの私は、「スカ」 こそが人生の節目になるように思えてならないのです。
こんな2パターンの場面を想像してみてください。

【パターンA】
俺は昨夜、バーである女と知り合い、意気投合してベッドを共にした。
一夜明け、目覚めると女は部屋を出て行こうとしている。その背に向かって俺は声をかけた。
「また会ってくれるかい?」
女は俺に一瞥をくれながら冷たくこう言い放った。
「貴男は私にとってハズレだったわ」

【パターンB】
俺は昨夜、バーである女と知り合い、意気投合してベッドを共にした。
一夜明け、目覚めると女は部屋を出て行こうとしている。その背に向かって俺は声をかけた。
「また会ってくれるかい?」
女は俺に一瞥をくれながら冷たくこう言い放った。
「貴男は私にとってスカだったわ」

パターンAの場合、部屋に取り残された男の考えることは、「なんだあの女、冷たくしやがって。こっちこそお前なんか願い下げだ」 といった程度のものでしょう。
そこには反省もなければ、単に運の悪さを呪う言葉しかありません。
ところがパターンBの場合、「スカ」 扱いされた男が 「ふざけやがって。今にお前など足元にも寄りつけないようないい男になってやるわ」 と、一念発起するチャンスの可能性があるとは思えませんか。
これは私が 『夢の回廊』 でしばしば述べてきた、「絶望の深さとロマンの高さは比例する」 ということに通じるパラドックスです。
「スカ」 を引いたからこそ、人生に本気で向き合える。そんなことがもしあるなら、だからこそ娑婆世界に生きる妙味もあるというのものではないでしょうか。

「アタリ」 の反意語が 「ハズレ」 であるというのは、言葉の上で柔らかい印象にしているだけで、本質的には誤魔化しマヤカシの世界であるような気がします。
人生でいちど 「スカ」 を引いてみるがいい。「ハズレ」 ではなく 「スカ」 を。
「スカ」 のリアル(real)を噛み締めてこそ、その向こうに夢(dream)が広がっていくこともあります。
若い世代の人たちに伝えておきたい言葉です。私が生きているうちに。

http://www.youtube.com/watch?v=BQTLs4QCSB4

廃語の風景② ― ちゃぶ台 [廃語の風景]

万願寺付近の浅川堤防:撮影;織田哲也.jpg

ちゃぶ台は4本の足を折りたためる、黒くて小さくて円いお膳というのが一般的なイメージです。
四角いのはテーブルであって、ちゃぶ台とはあまり呼びません。ましてや来客があったときに出すのはずっと重厚なお膳であって、ちゃぶ台はあくまで家族が食事をするためにだけ使われたものです。
昔の映画などを見ていると、怒りにまかせて丸いちゃぶ台をひっくり返すとんでもないオヤジが出てきたりします。『巨人の星』 の星一徹は四角いテーブルをひっくり返していますが、それは邪道かもしれません。

漢字で書くと 「卓袱台」 となります。
卓袱の中国語読みは “chuofu” に近いもので、もともとはテーブルにかける布のことでしたが、そのうちテーブル本体を指すようになり、最後にその上に並べる料理を表すようになりました。
唐風の料理を和風にアレンジしたものを 「卓袱(しっぽく)料理」 といい、長崎名物となっています。
大勢で円いテーブルを囲み、大皿に盛った何種類かの料理を自分の小皿に取り分けていただくのが特徴です。
四角いお膳だと上座や下座といった席の決まりごとが生まれますが、円いテーブルには席の上下がありません。卓袱料理からきたそんな慣わしが、家庭のちゃぶ台にも流れてきているように思います。
その証拠と言ってよいかどうか、厳格な家庭では一家の主だけが四角いお膳で食事をとり、女子供は円いちゃぶ台を囲んでいた、という話も聞いたことがあります。

ちゃぶ台が登場するのは、いわゆる 「茶の間」 と呼ばれる和室です。
ちゃぶ台を囲んで、一家そろって食事をとる。どの位置からも円の中心に向かって座る形になります。
いつもむっつりしているお父さんや、口うるさいお母さん、不機嫌なお姉さんや生意気そうなボクなど、自然に家族全員の顔をみんながうかがうようにできていました。

こうした風景に変化が起きたのは、茶の間にテレビというものが登場したときからでしょう。
食事中にテレビがついているのが当たり前になってくると、全員が円の中心に向かっていた姿勢は大きく崩れることになります。いわゆる求心力の喪失現象です。
お父さんやお母さんは比較的見やすい位置にいますが、子供たちはいちいち振り返ってテレビを見、その行儀の悪さを咎められることが増えました。しかし親もテレビを半分見ながら叱っているわけで、そうなると当然、子供たちも真正面からは叱られず、半身の姿勢で受け流したりしてしまうのです。
それから時代は急速に進み、今では食事をとる時間が全員バラバラになったり、テレビも1部屋に1台で好き勝手に番組を選ぶ状況にもなりました。

茶の間から 「ちゃぶ台が消えた」 のと、家庭の中から 「茶の間が消えた」 のとで、どちらが早かったのかは私には判断がつきかねます。
部屋というのは四角いもので、そこに置かれている箪笥や棚やテレビなどもみんな四角い形をしています。
その四角ばった空間の真ん中にたったひとつ円いものが置かれていて、畳の上にそれを囲んで生活の最大の関心事である食事を共有していた時代。
暮らしの中に円いものや丸いものを意識的に取り込んでいくことは、意外に大事なことかもしれません。
現代でもそんなライフスタイルの工夫は、気持ちひとつで可能ではないかと思います。

http://www.youtube.com/watch?v=iEshQf-tCJE

廃語の風景① ― チャルメラ [廃語の風景]

タキ(タンク貨物車輌)高尾駅通過:撮影;織田哲也.jpg

ある物事はちゃんと存在するのに、それを表現する一部の言葉が世の中で使われなくなった場合、その言葉を私たちは 「死語」 と呼びます。
たとえばファッションにせよ行動にせよ、時代の最先端をゆく若者は存在し続けるわけですが、その若者たちを 「ナウなヤング」 と呼ぶことはなくなりました。これが死語の典型です。
その一方、ある物事を表す言葉はそれしかなくても、その物事自体が時代遅れになってしまったがために、言葉も自然に忘れられてしまうということもあります。
これを私は 「死語」 と区別して、「廃語」 と呼ぶことにしました。
廃語のバックには、廃れてしまった時代の景色が広がっています。
ちょうど赤字ローカル線が廃止されたあと、錆びたレールが雑草の中に姿を留めていたり、誰も訪れなくなった駅舎がひっそりと佇んでいるような風景です。
そこで鉄道ファンが廃線跡を辿る旅に出るように、毎回廃語を1つずつ取り上げて、その背景をわずかながら考察していこうと思いついたのです。
最初に申し上げておきますが、「昔は良かった」 的な発想でやろうとは思っていません。レトロにはレトロとして現代に生かせる情緒や知恵を含み持つからです。

最初のテーマは 「チャルメラ」 にしました。
昨日のブログ記事でおでんの屋台を思い出したのがきっかけです。
子供の頃、親は 「夜鳴きソバ」 などと呼んでいましたが、チャルメラを吹くラーメン屋台は私が社会人になってからもちらほら見かけたものです。
語源はポルトガルから伝来した楽器 “charamela” によるものですが、これに似た楽器は中国や朝鮮、琉球などにも存在したようで、江戸城中での演奏の風景が絵画に残されていたりします。

チャルメラという言葉は今の世にも固有名詞として生きています。もちろん明星食品が1966年に販売を開始したインスタントラーメンの名称です。
最初のパッケージでは、チャルメラ吹きのおじさんはやや無精髭を生やし、腰に手拭いをぶら下げています。穿いているズボンは膝のところにつぎ当てが施されています。
今の若い世代は商品名としての知識はあるでしょうが、実際のチャルメラの音色や、その音色とともに移動していたラーメン屋台の風景を知っているでしょうか。
娘にきいてみると、チャルメラの音色の記憶はあるそうです。ただし実際に吹かれていたものではなく、軽トラック化された屋台からテープの音声で流されていたものだということです。

私が子供時分、チャルメラはだいたい秋の深まりとともにどこからともなくやってきました。
しんしんと更ける冬の夜、はじめ遠くの方にかすかに聞こえ、それからゆっくりと家の近くを通過し、角を曲がって公園の向こうに消えていくのがその物悲しい音色でした。
物悲しいのも当然で、長崎の唐人街では葬式の席で演奏されていたとも言われています。
子供にとってはとっくにお休みの時間です。チャルメラの鳴る時間帯は子供が関わってはいけない大人のそれであるということを、私は知っていました。
夜は子供の世界の向こうにあるものであり、夜更かしは大人の特権であり、夜鳴きソバを含めて夜食は大人だけが食べてよいものであったわけです。

そして、あのチャルメラを吹いているおじさんはどんな人なのだろう、どこから来てどこへ帰って行くのだろう、こんなに寒いのに遅くまで仕事をしているなんて大変じゃないのだろうか。
何重にも重ねた布団の中にもぐりこんで、私は子供の世界の向こう側を想像しながら、いつのまにか眠りについたものでした。なぜか少しべそをかいたりしながら。

http://www.youtube.com/watch?v=6BHbSjWKq-w
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