SSブログ
前の30件 | -

廃語の風景㉙ ― 行水 [廃語の風景]

終点・多摩センター:撮影;織田哲也.jpg

『廃語の風景』を書き始めた当初から、いちばん多く廃語になってしまったのは夏の風物詩にある言葉ではなかろうか、という気が何となくしていました。
『徒然草』に、「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる」という一節があることは幾度か紹介しました。
そこには、冬の寒さは何としてでも防げるが、夏の暮らしに配慮しない家にはとても住めたものじゃない、といった主張があります。
少しでも暑気をはらうために、古来より日本人は、衣食住の面で様々な工夫を重ねてきました。それがこの国の文化を支える大きな柱ともなってきたのです。

ところが、オフィスや家庭にエアコンが普及するようになってから、夏の暮らしに対する工夫が急速に消えていきました。
スイッチひとつで室内が冷却できるわけですから、「工夫」などする必要がなくなるのも当然です。
そればかりか、風通しよく作られた建物はエアコンにとってはむしろ無駄な存在となるので、密閉性の高い建築様式が採用されるようになってきました。
かくして現代の家屋からは、障子や欄間が姿を消しました。
夏の風物詩から廃語がたくさん生まれる最大の原因は、人が生活の利便性を追求したことにあると考えて、まず間違いはないでしょう。

子供の頃、母は私にときどき「行水」をさせてくれました。
あまり広くない裏庭に盥(たらい)を置き、ぬるめの湯をはって、青空の下で「入浴」するのです。
家に風呂がなかったわけでなく、私も入浴が嫌いな子供ではなかったので、この行水は半分プール遊びのようなものでした。
盥は直径1メートルほどの木製で、もともとは洗濯に使われていたものだと母から聞きました。

現代でもビニールプールに水をはって、家庭で手軽にプール遊びをするのは子供の娯楽として定着していますが、それと行水は、本来似て非なるものです。
プール遊びは文字通り「遊び」ですが、行水はあくまで「入浴」なのです。
今から半世紀以上前の庶民生活では、そんなに贅沢に湯水を使うことはできませんでした。お風呂だって、毎日毎日沸かして入れる家庭は少なかったと聞いています。
だから真夏の炎天下に汗をかいたとき、湯の量も少なくて済む行水は、庶民の楽しみとなっていたわけです。

私が子供の頃に経験した行水は、現代のプール遊びとほぼ同じ意味でした。
それでも湯から上がって新しいシャツに着替えると、風呂上りと同じように気分はサッパリ。三ツ矢サイダーでもあれば最高だったでしょう。
庶民的な暮らしの工夫は、意外にも「贅沢」な気分を味わえる画期性を持っていました。

バスルームでシャワーを浴び、気密性の高い部屋にエアコンをかけて涼むのは簡単ですが、家の裏庭で夏の太陽に裸身を晒しながら入浴するという、あの開放感と贅沢さ加減は、設定温度を下げてキンキンに冷やしただけの部屋の中には決してあり得ないものなのです。

http://www.youtube.com/watch?v=IbFafks2Uoc

少年の夏 [日々雑感]

立川行き115系長野色:撮影;織田哲也.jpg

子供の頃、夏休みといえば、母方のおばあちゃんちに2~3週間泊まりにいっていたのを思い出します。
最初に行ったのが小学校の4年生、最後の年は中学3年生だったと記憶しています。
夏休みに入るとすぐに、小学校では林間学校、中学では臨海学校の行事があり、部活動や試合などで7月いっぱいはそれなりに忙しく過ごしました。
8月に入ると、本格的に長い夏休みが始まります。
自宅で過ごすより、おばあちゃんちで過ごす時間のほうが、8月は長かったでしょう。

おばあちゃんちに行くには鶴橋から近鉄奈良線に乗り、各停しか止まらない生駒山の麓(ふもと)の駅で下車します。
駅を降りると、左手には大阪平野のごみごみした街並が見渡せ、右手には大きな神社があります。
放水路に沿ってくねくねと細い路地を下りると、5分ほどでその小さな家に着きました。

家は小さいのですがやたらと天井が高く、明り取りの窓が、子供の目には遠いところで光って見えました。
座敷のいちばん奥には作り付けの仏壇があり、そのようなもののない家庭に育っていた私には、線香の匂いたつその一角だけが、妙に重々しいワンダーランドに感じました。
座敷に寝転がると、放水路をざあざあと流れる水音が、昼も夜も耳について離れません。
目に映るものも、生活環境の音も、漂う空気の匂いも、食べ物の味付けも、全部自分の家とは違っていて、子供心に「コレガ夏休ミノ風景ナンダ」としみじみ感じたことを覚えています。

2日もごろごろしていると、何かしたい、どこかへ行きたい気持ちが湧きあがってきます。
母親が持たせてくれたお小遣いでプラモデルを買ったり、貸本屋で普段は読めないようなマンガ本を借りてきたりし始めました。
プラモデルはたいしたものが売っていなかったのですが、貸本マンガはとても興味をそそられるものばかりで、結構長い時間を読書にかけていました。
後から知ったことですが、大阪は貸本マンガ文化が最も成熟した地域です。
貸本屋の棚には、恐怖ものの楳図 かずお氏や水木しげる氏、サスペンスもののさいとうたかお氏、永島慎二氏などの作品がぎっしり並んでいました。
それらの本は一様に表紙が擦り切れていて、祖母は「そんな汚い本はやめなさい」としきりに言っていました。
けれども、少年マガジンやサンデーの読者であった私は、擦り切れて手垢のいっぱいついたマンガの、おどろおどろしさと一種のエロティシズムにすっかり感化されてしまっていました。

最初に泊まりにいった夏、上がり框(がまち)に面した座敷で昼寝をしていると、なんと虚無僧(こむそう)が入ってきて尺八を吹きだしたので、飛び上がったことがありました。
当時の大阪で育つと、京都や奈良が近いこともあり、山伏が電車に乗っていてもたいして驚かなくなっています。
が、さすがに、黒づくめの着物に円筒形の編み笠をかぶった虚無僧は時代劇の中でしか見たことがありません。
私が後ずさりして引きつっていると、祖母は取り乱すわけでもなく、いくばくかの小銭を首から下げた袋に入れてやっていました。そうすると虚無僧は、尺八を吹きながら出ていきました。
「あれ、虚無僧やろ?」と聞くと、祖母は「そうや」と頷いたあとで、「お金もらいに来やんねん」と言っていました。

家のいちばん奥には台所があり、そこから勝手口を出ると裏手に出ました。
そこには2~3軒の家で共同に使っている井戸があり、洗濯用の水として使われていました。
私が泊まりに行くとその井戸の中に西瓜を沈め、夕方ごろ冷えたのを食べさせてくれました。
家の裏手に腰かけて西瓜にかじりついていると、赤トンボが頭の上を飛び交い、茜色の雲はゆったりと流れていきました。

長い長い時間が過ぎて、明日両親のもとに帰るという日に、祖母は必ず塩昆布を炊いていました。次の日、私に持たせるためです。
その日は一日中、昆布を醤油で煮詰める香ばしい匂いが家の中にも外にも漂っていました。
それは、もうすぐ夏休みが終わることを私に告げる匂いとして、今でも鮮明に思い出すことができます。

高校1年生のとき、この祖母は亡くなりました。
それ以来、おばあちゃんちには泊まったことがありません。今ではその家もなくなりました。
少年の日の夏の香りは、記憶の中にだけ存在しています。
「俺はおばあちゃんに、何かしてやれたかなあ…」
たいしたことは何もしてあげられなかったことは分かり切っているのに、時々そんなふうに呟いたりするのは、よほど自分勝手に生きてしまった少年時代を悔いているか、さもなくば過去へのアリバイ作りに気持ちが掻き立てられてしまうからではないでしょうか。

http://www.youtube.com/watch?v=GsfM1ygNGvM
本当はオリジナルの JITTERIN' JINN ので出したかったのですが…

もの忘れ [日々雑感]

藤野にて:撮影;織田哲也.jpg

ふとした瞬間に、「ああ俺も、もの忘れするようになったなあ…」と思うことがあります。

特に今日のもの忘れは、ひどいものです。
というのも、今日8月31日は、私にとって人生最大の節目の記念日なのです。
ところが、それが何の日だったか、思い出せないのです。
大事な記念日を忘れるなんてアホかいな、と思われるかもしれませんが、本当にそうなのですからとても困っています。
親父の命日でもなければ、結婚記念日でもないし、何か事業を起こした日でもなし。

つくづく、歳をとることが恨めしくてなりません。
そもそも、なんで人は1年ごとに1つずつ歳をとらなきゃならんのでしょうか…。

http://www.youtube.com/watch?v=XHFWqk08tNY

廃語の風景㉘ ― 夏やせ [廃語の風景]

豊田電車庫遠景:撮影;織田哲也.jpg

『廃語の風景』を書いていくなかで、これは「廃語」なのか、それとも「死語」なのだろうか、と迷うことがずいぶんあります。
「廃語」と「死語」を同一に見る向きもありますが、私はこの両者を区別して書いています。
「死語」は、それが表す物事は今でも存在するけれど、言葉だけが忘れ去られたものと規定しています。「ナウなヤング」がその典型例と言えます。
それに対して「廃語」は、その指し示す物事自体がなくなってしまったために、言葉も追随して廃れていったものを指す、と私の中では区別して考えています。
典型的な例としては「国鉄」なんかがそうです。「国鉄」時代に走っていた電車が今でも走っているのに、「国鉄」という風景は過去の遺物として歴史に名をとどめるのみの存在。
そん言葉を集めて少しばかり語ってみようと思ったのが、『廃語の風景』というテーマの原点なのです。

では「夏やせ」はどうなのでしょうか?
意味としては、夏の暑さにあてられてついつい食欲不振におちいりがちになる、だから夏にはげっそりとやせてしまう、といった生理的現象を表す言葉です。
これは「死語」なのか「廃語」なのか。
似た言葉に「夏バテ」があります。もちろん現在も生きている言葉ですが、「夏バテ」と「夏やせ」は、似ているようで違います。
現に夏にバテている度合いは、やせている人よりも太っている人のほうが著しいように思えます。

話しは少し変わりますが、ダイエットに最も適した季節は、冬だそうです。
夏はダイエットには適した季節といえません。汗をかくから夏は痩せやすいと思ったら大間違いらしいです。
どういうことかと言えば、適正な体温の維持に関して、夏場はエネルギーを使う必要がほとんどありません。放っておいても、必要な体温は確保できる。つまり、基礎代謝のいちばん少ない季節が夏ということなのです。
それに対して冬場は気温が低いので、適正な体温を維持していくのにエネルギーを使います。すなわち、基礎代謝量が大きいというわけです。
だから、ダイエットするなら冬場がいい。私の主治医もそのように申しております。生理学的にみれば、夏はむしろ太りやすい季節と言えるでしょう。

だから、基礎代謝量の少ない季節に「夏やせ」してしまうのは、よほど食欲をなくして、体力が衰えているからということを表しています。
そう考えれば、「夏やせ」は、エアコンの完備していなかった時代の言葉なのでしょう。

その「夏やせ」を防ぐ方法は、とにかく食欲を増進させて、少しでも多く栄養を摂ることです。
エアコンのよく効いた室内で焼肉を腹いっぱい食べるといったことが望めなかった時代に、冷たい素麺や冷や麦といった夏特有の食べ物が、庶民の間に定着しました。
井戸で西瓜(すいか)を冷やし、食塩を振って食べるという夏の風物も、熱中症対策としては合理的なものです。
「涼をとる」とは、今ではそれこそエアコンをつけることに他なりませんが、かつての日本人は自然と向き合う中に様々な工夫を凝らして、この苛烈な季節を乗り切る智慧を絞り出していたのです。

この夏の暑さあるがゆえに、日本人は智慧と工夫の民族たり得たのではないかと、私は本気で思っています。
「夏やせ」してしまうことは災難な話ですが、抑圧が延びしろを育成する事だって、いままでずいぶんとありました。

私は、夏の暑さを、きっと愛しているのだと、そのようにしみじみと想う8月31日です。
夏はまだ終わりません。

http://www.youtube.com/watch?v=HvOHMrdVhOg

summer without a vacation [女王の細脚繁盛記]

季節の終わりへ:撮影;織田哲也.jpg

今年は夏休みがなかったなあ…
いや、「今年は」なんて言っていますが、実は何年にもわたって、毎年思っていることです。
休みらしい休みもないまま、とうとう8月の終わりを迎えてしまいました。
まだまだ残暑は続きそうですが、気持ちの上では、寂しいような哀しいような。

小学生の頃、夏休みに入るすぐに林間学校の行事がありました。
それが終わると、長くけだるく暇な時間が、青空にぽっかりと浮かんだ雲のようにゆっくりと流れていきました。

アシナガバチたちは、今が増殖のピークです。
おそらく、女王・カトリーぬⅠ世はすでに死んでいます。働きバチだけが、女王の遺し子を育てている時期です。
急にハチが増えたように感じるのは、実際に個体数が増えたこととあいまって、餌を探したり巣の材料を集めてくるための労働が減ったことも関係します。
上の写真は昼間に撮影したものですが、朝夕は壁にも20匹以上のハチが張りついています。

このコロニーの役割は、そろそろ収束の方向に向かっています。
新世代の女王バチもたくさん誕生し、オスバチとの交尾も進んでいると思われます。
交尾したからといって、今シーズンに卵を産んで育てるということはしません。
このあたりは昆虫の脅威なのですが、ハチの体内ではオスの精子が来シーズンまで生き続けるというのです。
越冬した女王バチは来年の5月ごろから巣作りを始め、そこではじめて受精卵を巣に植え付けるという手筈です。

だから上の写真に写っている多くのハチたちは、すべてカトリーぬⅠ世の子供たちなのです。
新世代の女王バチになれなかった働きバチたちは、今年のうちに死んでしまいます。実際、数匹の死体が地面に落ちている姿をちらほら見かけるようにもなってきました。

ゆく夏の後ろ姿を追うように、最後まで彼らの営みを見届けたいと思います。

http://www.youtube.com/watch?v=BB81_DTZYns

夏(7・8月)の季語から [日々雑感]

215系・大月駅にて:撮影;織田哲也.jpg

閑(しず)かさや 岩にしみ入る 蝉の声 (松尾芭蕉)
やれ打つな 蠅が手をすり 足をする (小林一茶)
たたかれて 昼の蚊をはく 木魚かな (夏目漱石)

夏には虫がつきものです。
冒頭に挙げた3人の著名な俳人も、小さな生命のふとした仕草に、句を通じて微笑ましい愛情を向けていることがわかります。
漱石の句は、昼下がりのお寺でお坊さんが木魚をたたきだした。すると暑さを避けて木魚の中に潜んでいた蚊が驚いて飛び出したという情景を詠んだものであり、昼の蚊を木魚が「はく」という擬人法がとてもユーモラスな味わいを教えてくれます。

夏の虫では、「兜虫」「玉虫」「髪切虫」といったあたりが7月の、「蝉時雨(せみしぐれ)」「蜩(ひぐらし)」「法師蝉(ほうしぜみ=ツクツクボウシ)」「赤蜻蛉(あかとんぼ)」などが8月の季語に分けられています。
「蝉時雨」は大勢の蝉が一斉に鳴く様子を表した言葉。もともと「時雨」とは、秋から冬にかけて強い雨が一時的に降ったりやんだりする現象を表した言葉ですが、その激しい音と併せて「蝉」を冠することで、夏の代表的な季語となっています。

汗を吹く 茶屋の松風 蝉時雨 (正岡子規)
秋風に ふえてはへるや 法師蝉 (高浜虚子)

夏は祭の季節でもあります。
盂蘭盆(うらぼん)や七夕にちなんだ行事であることが多い一方、農村部では農事暦に由来するもの、都市部では疫病封じに由来するものなど、その意味合いは多種多様です。
7月には「祇園祭」「野馬追祭」と並んで、「朝顔市」「虫送り」「四万六千日(しまんろくせんにち)」がエントリーされています。
「四万六千日」というのは、浅草寺のほおずき市の日に詣でると、その1日の御利益が4万6千日分に値するとの言われからきています。
8月の祭は、「ねぷた」「花笠」「竿灯祭」に「天の川」「星祭」「盆」「大文字」「送り火」「走馬灯」などがあわさって、盛りの季節の背中を見送る風情にも溢れています。

ゆくもまた かへるも 祇園囃子(ぎおんばやし)の中 (橋本多佳子)
燃えさかり 筆太となる 大文字 (山口誓子)
走馬灯 みたりがおもひ めぐりけり (久保田万太郎)

旬の食べ物に目を向けると、「赤魚」「あわび」「うなぎ」「かんぱち」「すずき」「車えび」「蛸」「どじょう」「うに」など、寿司ネタになる魚介類の多いことに驚かされます。
意外なことに「鮨(すし)」が夏の季語として歳時記には載っています。
この季節、生ものは腐りやすいのになぜだろうと調べてみると、これは琵琶湖周辺で有名な「鮒鮨(ふなずし)」を表していることを知りました。
「鮨」の語源は「酢」。塩漬けにした鮒(ふな)に米飯をつめ、夏の暑さを利用して米の発酵で酸味を加える「なれずし」は、生鮮食品の保存法の原点ともいえる技術です。
意外、という点では、「甘酒」が夏の季語ということも引けをとりません。
米麹を発酵させて作る甘酒は、アミノ酸と天然吸収ビタミンを多く含むので、夏バテ対策の栄養ドリンクとして効果があります。事実、江戸時代には、天秤棒を担いで甘酒を売り歩く商売があったということですから、それが庶民生活に浸透していたと想像することは困難ではありません。
日本の発酵文化の奥深さを、歳時記をめくりながらあらためて認識させられます。

鮒鮨や 彦根の城に 雲かかる (与謝蕪村)

吉田兼好師は『徒然草』のなかで、「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる(第五十五段)」と著しています。
言い換えれば、「冬の寒さは何とでもやりすごせるが、夏の暮らし向きには心配りが必要だ」ということになります。
そんな生活の工夫は、「冷奴」「心太(ところてん)」など食にまつわることから、「打ち水」「夏座敷」「日傘」「浴衣」といった衣・住のうえでの季語にも表されています。
「風鈴」「噴水」「花火」「納涼船」「行水」など、今で言うレジャーに関わる語も含まれていますから、夏の過ごしようが庶民の生活にとっていかに重大なテーマだったかを伺い知ることができます。

浴衣着て 少女の乳房 高からず (高浜虚子)
風鈴の 荷に川風や 橋の上 (水原秋櫻子)
水打てば 御城下町の にほひかな (芥川龍之介)

遠雷が次第に近づき、今にも涼しげに夕立が来るかと思えばさして降らず、
その一方で突然のゲリラ豪雨に、脆弱な雨水対策が浮き彫りとなる…。
どこか歪んだ都会暮らし。アスファルトから立ち上る陽炎を、お天道様はどのようにご覧になっていることやら、思いを馳せながらよろめき歩くも、今年の夏はまだまだ続いていきます。

停車場に 雷を怖るる 夜の人 (河東碧梧桐)
夏痩は 野に伏し山に 寐(ね)る身哉 (正岡子規)


夕立を 祈リ佇(たたず)む 野の仏
送り火の 名残りの風や 小雨ふる
街の灯火(あかり) なぜに生き急(せ)く 夜の蝉

http://www.youtube.com/watch?v=axsoLohidCs

廃語の風景㉗ ― 風鈴 (あるいは feeling) [廃語の風景]

夏・公園:撮影;織田哲也.jpg

いつの頃からだろう、風鈴の音を聴かなくなったのは…。

夏になると、必ずスーパーでもデパートでも、風鈴を売っているコーナーがあったように記憶しています。
いえいえ、風鈴売り場だけの話ではありません。
電器店に行けば、エアコンのコーナーには必ず風鈴がいくつも設置されていて、涼しさの象徴として大きな役割を担っていました。
素麺のCFには、必ずと言っていいほど、風にそよいで軽やかに鳴る風鈴の音色が添えられていたと覚えています。
あの風鈴は、どこに消えてしまったのでしょうか。

当たり前の話ですが、風鈴そのものやその音色がいくら美しくとも、涼風を起こしてくれる機能があるはずもありません。
それはあくまでも気分の問題。
チリンチリンと響く音色は、昔から高温多湿の夏の重苦しい大気に、ほんのわずか気の流れを気付かせてくれるというだけの、言ってみれば「気休め」でしかないのです。
けれども日本人は、その気休めに風情を感じることで、文字通り気を休めていたのです。「暑いわねぇ」とか何とか呟きながら、団扇(うちわ)で額に滲む汗を乾かしながら。
灼熱の陽光のなかに、人も動物も、セミの鳴き声も夕立の雷さまも、団扇も風鈴も、額の汗もかすかな風も、ひとつに重なって溶け込んでいたのが、日本の夏だったのではないでしょうか。

あるサイトによると、風鈴の音は「近所迷惑」であると訴えられる場合があるのだそうです。
この『廃語の風景』というシリーズを始めたとき、決して「昔は良かった」という記事にはしたくないというコンセプトを持っていましたので、そんな主張をするつもりはありませんが、ならば翻って考えると、このようには言えますまいか。
「風鈴の音色が近所迷惑になると主張する人は、よほどこの国の文化に馴染めなくなってしまわれたのですね」と。
もちろん、こうした考えが巡ってしまうとき、哀しい気分の起こるのは否めません。

夏といえば暑い、暑いといえばエアコン。
昨今の熱中症対策も考えれば、それはある意味正解なのかもしれません。
でもねえ、空調のバッチリ効いた部屋で甲子園の熱闘を視ていても、感動は薄いんですよ。
風鈴の音色や素麺・西瓜の口当たりの良さで身も心も少しずつ潤しながら、夏の暑さそのものを楽しむ、それがこの国に生まれた甲斐というものではないでしょうか。

決して無理をしようと勧めているわけではありません。暑い寒いというときには、冷房も暖房も人には必要なのです。
ただ、人工的に調節された環境にどっぷりつかっている生活の中でも、わが国が古来より継承されてきた「わび・さび」の文化を少しでも失いたくないと考えているだけなのです。

エアコンの効いた部屋の中でも、ときどき鳴らしてやる風鈴の音は意外に新鮮なものです。
こればかりは理屈で伝えようとしても、まったく始まりません。
なぜなら、夏ほど「思う・考える(think)」ではなく、「感じる(feel)」季節はほかには見当たらないからです。

http://www.youtube.com/watch?v=MpoORSGqV9A

コロニー “the colony” [女王の細脚繁盛記]

the colony:撮影;織田哲也.jpg

2か月近くブログを更新していない間に、画期的な発展を遂げたのが画像の彼らです。
6月17日の画像と比較してみてください。当時は巣の直径がテニスボールくらいでしたが、大きめのソフトボールを超え、ハンドボール大に迫りつつあります。
ファミリーの構成員も前回は5匹程度でしたが、今や30~40匹のコロニーに成長しました。
体の大きい個体も数匹いて、どれが女王・カトリーぬⅠ世か、容易には判別がつかなくなっています。
巣に風を送る羽音も一段と大きくなり、撮影のため数十センチにまで近づくと、彼らの性格はわかっているにしてもやはり少し恐ろしくなります。
デッキで見上げて観察していると、頭やシャツにたかられることもしばしばで、平和的共存のためには、いちいちそれに驚いて手で払ったりしないよう注意しなければなりません。
幼虫や蛹(さなぎ)もどんどん生まれてきています。この先どこまで発展するのかとても楽しみです。

若い方はご存じないでしょうが、私が小学生の頃(1960年代前半)には2B弾(にービーだん)という、火薬を使った一種の爆竹が駄菓子屋などで売られていました。
タバコより少し細めの筒の中に火薬が詰められていて、3センチほどの導火線が延びています。これに点火して数秒すると、最初煙が出て、その後かなり大きな破裂音とともに爆発する仕組みです。
この玩具は危険度も高く、子供がポケットに入れたままにしていたら発火して火傷を負ったり、稲わらなどに引火して火災が発生するなどしたので、のちに販売禁止となりました。

この2B弾には、生涯忘れられない思い出があります。
友達と一緒にカエルの口にこれを突っ込んだうえ、導火線に着火。理不尽な被害者となったカエルは、内臓をあたりに飛び散らかして骸(むくろ)と化しました。
今ここに書いているだけでも、身の毛のよだつ経験です。
主導した友達は何度もこの残酷な遊びを実行していたそうですが、なぜそんな遊びに自分も参加してしまったのか、どうして「やめようよ」と一言言えなかったのか、カエルが吹き飛んだ瞬間から現在に至るまで、後悔の念はずっと継続しています。
食に供するというのなら話は別です。また対象が害虫や害獣なら退治するのも仕方のないことでしょう。研究などのために動物を犠牲にすることにも、納得はいきます。
けれども、小さい生命を弄(もてあそ)び、まして虐待願望を満足させるためにその尊厳を奪うことはあってはならないと、小学校低学年のときのあの遊びが私に教えてくれました。
口の中に血の味が漂うような苦い思いは、半世紀たった今でも変わりません。

アシナガバチのコロニーを観察しながら、そんなことをふと思い出します。
お盆です。明日は寺院に出向いて、水施餓鬼廻向法要に立ち会ってきます。
ご先祖の霊はもとよりとして、殊更(ことさら)に殺し誤って殺してきたいくつもの命にもまた、廻向の祈りを捧げてきたいと思っています。

http://www.youtube.com/watch?v=DpWzL54n1Ds
山好きですから


液晶モニタに二日酔い [日々雑感]

183系ホリデー快速河口湖:撮影;織田哲也.jpg

じぇじぇじぇぇぇ!
前回の更新から、実に2か月近くもブランクが空いてしまいました。
本業で書くものが多くて、こっちに回すエネルギーが足りなかった…。それが理由といえば理由ですが、少しニュアンスが違います。
本業以外でデスクの前に鎮座してキーボードを叩くという作業が、とても耐えられなかったのです。
PC環境に囲まれ完全に中毒していたわけで、そこにこの暑さが加わったことで、さらに症状が悪化。少しでも時間があったら、モニタが目に入らないところに身を遠ざける習慣がついていました。

だからこの間は、TVもDVDもなるべく視ないようにしていました。液晶画面の前にいる時間を、必要最低限にしたかったからです。
普段はPCについているプレイヤーを使って音楽を聴いていますが、それも避け、モニタなどないCDプレイヤーを使用しました。
本を読む時間がとれたのは、まあ良かったと言えるでしょう。何年かぶりにギターに新しい絃を張って弾くといったこともしてみました。
プラモデルのひとつも作ってみたい気分ですが、今のところ実現していません。鉄道写真の撮影旅行、いやいや目的を持たないぶらり旅、うわぁ行きたいなあ…。

たまに町田のロテンガーデンに出向いて、温泉につかりながら空を見上げていると、俺は本当はデジタルな生活が嫌いなんだろうなという思いが、ふつふつと湧いてきます。
いくら忙しいといっても自由な時間がまったくなかったわけではなく、またブログに書きたいネタはそれなりにあったのに、キーボードに拒絶反応を起こしてしまう。
もちろん本業ではPCスキルも芸のうちですから、意識を集中して構築した環境をフルに生かす、それは当たり前にこなしています。
でも究極のところでは、ちょうどお酒を飲んで楽しく話したり、物思いにふけることは好きなんだけれど、本当は心の底でそんな酒飲みの自分を嫌っているというか、それに近い感じもするのです。

ともあれ少し回復したので、やっとブログを更新することができました。
お盆の間に、まとまったことが書ければいいなと思っています。

http://www.youtube.com/watch?v=MQWnQKR35EI
Yoshitaka Minami

廃語の風景㉖ ― 蚊帳と蠅帳 [廃語の風景]

E257@豊田:撮影;織田哲也.jpg

前回、蚊の記事を書いて、ついでに蠅も登場したことから、今回の廃語は 「蚊帳(かや)」 と 「蠅帳(はいちょう)」 にしました。

ウチには30歳と27歳の娘がいますが、どちらも蚊帳の中で寝たことはないと言います。
私が子供の頃には、どの家庭でも寝室には蚊帳を吊っていました。
ちょうど長押(なげし: あ、これも廃語?)のところに金属製のフックをかけて、室内全体を麻または化繊の網で覆い、家族はその底で川の字に布団を並べて、暑い夏の夜を過ごしていました。
蚊帳は文字通り、室内に蚊が侵入するのを防ぐための道具です。
同時に風通しをよくして、少しでも室温を下げるための暮らしの知恵でもあったのです。

蚊帳は、実は日本特有の知恵というわけではなく、古代よりエジプトや中国で重宝されていました。
現在でも世界中で使われ、とくにマラリヤやデング熱など蚊が媒介する病気が多く発生する国に対しては、WHO(世界保健機構)がその効果を宣伝し、使用を推奨しているほどです。
それだけでなくわが国は毎年、ODAを通じて、ナイジェリアやタンザニアなどの国に蚊帳を提供しています。
つまり今でも蚊帳は、国内生産されているわけです。
ところが国内で蚊帳を使っているなど、実態はどうか知りませんが、私はまったくそんな例を見かけなくなりました。

私の実家で蚊帳を使わなくなったのは、おぼろげな記憶で申し訳ないのですが、ルームクーラーが取り付けられるようになった頃からではないかと思います。
ルームクーラーはエアコンの前時代的なものです。人為的に部屋を冷却するため、当然、部屋を閉め切って密閉状態にすることが前提です。
あちこちを開け放して風を通し、一部屋だけ蚊帳を吊っているという生活様式とは、180度違ったコンセプトです。
ルームクーラーはアルミサッシ窓枠の普及とも関係が深いでしょう。
アルミサッシは窓を開けても蚊の侵入を防ぐ網戸を備えており、ガラス窓を閉めれば空気の流れを完璧にシャットアウトする構造になっているからです。

蚊帳は蚊の侵入を防ぐのが最大の目的ですから、出入りするときは素早く、しかも小さくなる必要がありました。
ところが蚊帳は、部屋の中に設置された秘密基地のようなワクワク感を子供に与えたので、どうしてもはしゃぎまわってしまいます。
子供は何度も出入りを繰り返し、立ったまま網を大きくめくり上げたりするものですから、蚊は当然その隙をついて入ってきます。
両親はそんな不手際を叱りながら、蚊帳の中で出口を失った哀れな蚊をなんとか仕留めようと必死でした。
私の記憶の中では、そんな風景は夏の風物詩のひとつです。

小学校5年生か6年生のときの林間学校で、高野山の宿坊に宿泊しました。
何十畳という座敷に、それこそ何十畳分の巨大な蚊帳を吊り、布団を敷きながら枕投げに講じたこともいい思い出です。
眠りにつく前、明かりを消してひそひそ話の時間帯、蚊帳の外は戸も開け放され、宿坊の庭や門が座敷から見えていました。
薄い網の繊維を通して外界と繋がって眠るという状況は、高野山という霊場にふさわしい神聖さと恐怖とを同時に運んで、布団にくるまった私たちを神秘の世界に誘(いざな)いました。
これが、蚊帳についての、私の最後の記憶となっています。

蚊帳の経験がない娘たちも、意外なことに蠅帳(はいちょう)は知っていると語りました。
彼女たちが知っている蠅帳は、いわゆるキッチンパラソルのことで、頭頂部の紐を引っ張ると網がパラソル状に開くものです。
これを食べ物が盛り付けられた食器の上にかぶせておくと蠅にたかられる心配がない、というお手軽な道具で、確かに娘たちの子供の頃に使っていました。
同じものは私の子供の頃からありましたが、本来 「蠅帳」 というのはそれを指すものではありません。
食器棚の一部が網を張った引き戸になっていて、その棚の中に食べ物の入ったお皿を保存しておくという機能のものを指します。
これは以前にも書きましたが、昔の台所というのは今のダイニングキッチンのように家屋の真ん中にあるものではなく、どちらかといえば裏手のじめじめしたところにあるのが普通でしたから、食器棚の蠅帳の中に料理を保存するというのは、それだけでも痛むのを防ぐ効果があったわけです。
今ではそういう発想にはなりません。昔よりはるかに大型の冷蔵庫が普及しています。
だから痛みやすいものは、ラップをかけて冷蔵庫で冷やします。
凍ってしまいそうなくらい冷やしても、レンジでチンすれば、いつでも暖かいものが食べられるという寸法です。

蚊帳も蠅帳も、多彩な電化製品によってこの国から追い出されてしまった、と言うことはできるでしょう。
それでも世界を見渡せば、今でも遺憾なくその力を発揮している道具たち。
どちらが幸せな風景かはいちがいには言えませんが、エコロジーの観点からすれば、あまりにも電力消費に頼りすぎている生活様式には疑問符がつきます。
高温多湿の夏の環境を実感できない不健康さと、そこにあるべき暮らしの工夫から手を離してしまっていることの理不尽さは、人類の知恵の幼児化に繋がりはしないのか。

夏は蒸し暑く、虫たちが喜び、ものは腐りやすい。
そんな当たり前の夏をあえて望んで過ごすという生き方も、未来への選択肢としてあっていいのではないかと、私は思っているのです。かなり本気で。

http://www.youtube.com/watch?v=pM9MCsk2H0U

 [日々雑感]

ロクヨン@甲府:撮影;織田哲也.jpg

雨が小やみになった朝、ベランダに出てアシナガバチの観察をしていると、さっそく蚊に脚を刺されました。
私はたいへん蚊に好まれる体質を患っています。
ある部屋に私を含めて5人くらいの成人が入り、そこに血に飢えたメスの蚊を1匹放ったとすると、どうなるか。
おそらくほかの4人は無傷で、私だけが2か所も喰われる結果となるでしょう。
もちろんそんな実験はしていませんが、それくらい蚊にだけはモテてモテて仕方がないのです。

蚊に刺されやすい人の特徴は、いくつか報告されています。が、自分にはそんなに当てはまっていないように思えます。
「血液型がO型の人」 : なんでも O>B>AB>A の順で刺されやすいそうですが、私は最低ランクのA型であります。
「体温の高い人」 : むしろ低いほうです。呼吸数も多くありません。
「太っている人」 : 178cm で 75kg は、太っているというほどじゃないでしょう。
「汗っかきの人」 : 昔ほどではありません。年齢とともにカサカサ肌になってきています。
「酸性体質の人」 : そりゃ肉好きですが、酸性体質かどうかは調べようがありません。
「足の臭い人」 : 今朝はシャワーした直後でしたぜ。
「香水を吹きかけている人」 : だからシャワー直後だって。
「飲酒中の人」 : 朝から飲みますかいな。
「妊娠している人」 : なんでやねん。
ことほど左様に、アテにならない情報ばかりです。

以前、プレステ2のゲームで、その名もまさに 『蚊』 というのがありました。
プレイヤーは山田家という家庭に住みついた1匹の蚊になり、殺虫剤や人間とのバトルを克服しながら、より多くの血を吸っていくというゲームです。
私はプレイ中の動画を見たことがあります。
戦闘機バトルゲームに似ていますが、敵はホットパンツでお昼寝中のお嬢さんだったり、アタマに蚊取り線香をのせたステテコ姿のオヤジだったりします。
結構おもしろそうでしたが、わざわざお金を出して蚊になる必要もなかったので買いませんでした。

それにしても、私が子供の頃から比べると、蚊はめっきり少なくなっています。
蠅に至っては、夏になっても姿を見かけることがほとんどなくなりました。

蚊が少なくなったのは、街なかから 「どぶ」 の減ったことが大きな理由だそうです。蠅はおそらく、トイレが水洗化されたことが最大の原因でしょう。
蚊は、熱帯ではマラリア原虫を媒介しますが、まず日本では考えられません。血を吸われたら痒いというだけです。
蠅のほうは汚物との接触が多く、細菌や寄生虫を運んでくるので、明らかに衛生害虫です。
だから 『蚊』 というゲームはあっても、『蠅』 というのはありません。たとえゲームとはいえ、プレイヤーの分身が雲古にたかるシーンなど見たくもないでしょう。

私は室内で蚊取り線香を焚いたり、電子蚊取り器や殺虫剤を使う習慣がありません。
蚊に対処するには、手の平でツブすという原始的な手段だけです。
たいていは手足にとまられて血を吸われていることに気づいたとき、はじめて一撃を加えます。敵は即死ですが、勝ったほうもあとで猛烈な痒みに悩まされる羽目になります。
私は蚊の唾液にはアレルギーが強いらしく、刺されたあとが大きく膨らみます。
眠っている間に瞼を集中的に刺され、起きて鏡を見たらお岩さんになっていたこともありました。

そんな季節の訪れを告げる今朝の蚊の痕は、今でもはっきりと腫れています。
緊張の夏、日本の夏。ニャロメ!

http://www.youtube.com/watch?v=t3jQOh3iVZI

ザ・ファミリー [女王の細脚繁盛記]

the family:撮影;織田哲也.JPG

4日前に撮影したものです。
あっという間に、女王・カトリーぬⅠ世の家族は、こんなに増えていました。
5年ぶりに襲われることなく、次世代が我が家から誕生したのです。
Bravo!

敵が全くいないわけではないようで、先日もすぐ近所の公園で、中型のスズメバチがホバリングしているところを目撃しました。
この時期のスズメバチは、人間にはあまり恐怖の対象ではありません。
我がとこの巣作りや子育てに忙しくて人間などに構っている暇はないからですが、その分、アシナガには脅威が増すというわけです。
これはファミリーが増えたからといって、安心できる話ではありません。
アシナガの成虫がいくらいようと、1匹のスズメバチにはとても適わない。
大勢で敵を取り囲み、サウナ攻撃を仕掛けて相手を撃退するといった忍法が使えるのは、ニホンミツバチだけなのです。

ここのところ雨が降り続き、一方で気温は高かったため、アシナガの成虫は巣の上で翅を打ち振っては、巣に風を送っていました。
こういうところの知恵は、見ていて感動的です。
最近TVで、日本野球機構の醜悪な老人や、復興庁の暴言ツイッター男の泥顔など厭でも拝ませられたので、よけいに心が洗われる思いがします。
撮影した写真を見ると、さらに次の世代の幼虫が育ちつつあるようで、どこまで大きな巣になっていくか楽しみです。

http://www.youtube.com/watch?v=LiziwxZBIH0
― 僕らは地球に生まれ、太陽はまぶしく、目に映るもの手に触れるもの、求め旅は続く…

ダサくてすみません

踏切注意:撮影;織田哲也.jpg

TVで視た白黒の古い日本映画で、忘れられない情景が私にはあります。
何という題の映画か、いやそれどころか、いつごろ見たのかさえもはっきりしないのですが、昨日の出来事のように鮮明な記憶として残っています。
まずは、そのシーン…

― 場所は東京の下町・御茶ノ水あたり。
1軒の古本屋に、セーラー服姿の 「女学生」 が入ってきます。もちろん擦れたところのない、お下げ髪で、純な心を持った美人です。
大きな本棚から取り出した1冊の本。表紙には 『人間失格』 とタイトルが記されています。
ページを開けて文字を追う女学生。憂いを含んだ瞳は、その小説にぐんぐん引き込まれている表情を呈しています。
と、女学生の脇にスッと立った、詰襟・角帽姿の背の高い大学生。いかにも文学を志しているかのように、色白で神経質そうな風貌。じっと女学生を見つめています。
ハッと気づき、大学生と視線を合わせた女学生。そしてついに、彼はこう囁くのでした。
「お嬢さん…太宰は危険です…」

うわぁ! 恥ずかしいったらありゃしねぇ!
いま思い出しただけでも、背中に強烈な “ぞんぞ” が走りましたぞ。
太宰治といえば抜群の知名度を誇る小説家で、『人間失格』 はその代表作の1つ。
さらに美男美女の俳優がシリアスに演技をしているシーンで、行き着く先が “ぞんぞ” とは、一体これでいいのでありましょうや?

1948年(昭和23年)の6月13日は、太宰治が愛人とともに、三鷹市付近の玉川上水に入水自殺した日です。
遺体は6月19日に上がったため、この日を 『桜桃忌』 と定めて、現在でも愛好家たちが彼を偲ぶ忌日となっています。奇しくもこの日は、彼の誕生日でもあります。
享年38歳。自殺の原因にはさなざまな説がありますが、ここで取り上げるつもりはありません。
作風は、これは私の感想ですが、単純ではあるけれども人の心の力強さを示した 『走れメロス』 のような作品と、 『人間失格』 に見られるように病的で死への傾倒を思わせる作品との間を、何度も行ったり来たりしている印象です。
太宰ファンの読者の多くは、その不安定感こそが、彼の作品に魅せられる入り口となっているようです。

太宰治に対する評価の1つに、「冒頭の一節が人を惹きつける」 というのがあります。
これは私も完全に同意するところで、例えば先に出した作品では、
・「メロスは激怒した」 (『走れメロス』)
・「私は、その男の写真を三葉、見たことがある」 (『人間失格』)
となっています。
このほかにも、
・「おわかれ致します」 (『きりぎりす』)
・「死のうと思っていた」 (『葉』)
などがあり、読者はジャブもフェイントもなく、唐突にストレートを顔面に喰らわされたボクサーと化してしまうのです。

『二十世紀旗手』 という小説には副題がついていて、それは 「生まれてすみません」 という異様なフレーズです。
この言葉をして、太宰治を語る人もいるほどです。
太宰と言えば 「生まれてすみません」、「生まれてすみません」 と言えば太宰。
それで 「お嬢さん…太宰は危険です…」 なんて迷セリフが生まれる。
私はそれもまた、異様に偏ったものの見方だと、呆れかえってしまいます。

太宰治という人は、小説家として高く評価されるべきだと思いますが、私は特に好きでも嫌いでもありません。
ただ 「生まれてすみません」 は、いっさい喰う気になれません。
「すみません」 と思うなら黙って死ねばいい ― 単純化して言えばそういうことです。
「生んでくださったのに、まっすぐ生きられなくてすみません」 と言うべきだろう ― このようにも思うからです。
「私は生まれた」 は、英語では I was born. と表します。文字通りに訳すなら、「私は生まれさせられた」 という受け身になります。
心に傷を負った若者が 「なんで自分を生んだんだ」 と親に怨み言を吐くことは理解できても、「生まれてすみません」 は容認できないと思っています。

言葉は生き物です。
だから、生きた言葉も、死んだ言葉もあります。
同時に、人を生かす言葉もあれば、人を殺す言葉もあるということです。

本名・斎藤清作、芸能界では 「たこ八郎」 と名乗った人のせりふは実に秀逸で、
「迷惑かけてありがとう」。
文法的におかしいとか、「迷惑」 と 「ありがとう」 の二重の甘えじゃないかという批判はあっても、何か耳にするだけで、生きていてもいいんじゃないかと不思議な勇気が湧いてくるのです。
太宰ファンには申し訳ないですが、全員を敵に回しても私はこちらを選びます。
お嬢さん、たこさんは素敵です。そう思いませんか?

「迷惑かけてありがとう」

http://www.youtube.com/watch?v=cdWPZeOZxTQ

六月の季語から [日々雑感]

大宮行快速『むさしの号』:撮影;織田哲也.jpg

6月は別名 『水無月』。
雨が降るのに水無月とはどういうことか? 「それはな、旧暦の6月は新暦の7月に相当するからやで」 と、国語のウエノ先生は仰ったのです。
6月も5月に引き続き、旧暦と新暦の狭間にあって、さまさまな季語が飛び交います。
「常夏月」 などと呼ばれる一方で、「入梅」 とあるなどその典型です。

梅雨(つゆ)にもいろいろありまして、「走り梅雨」 は梅雨本番に先立って雨がぐずぐず降り続く状態をいいます。
「空(から)梅雨」 は、梅雨の間にほとんど雨が降らない状態を指していい、夏に向けて水不足が心配されます。
「青梅雨」 というのもあって、新緑の葉に降り注ぐ雨を美しく表現した季語です。

睡蓮の池 まづ梅雨に 入りにけり (久保田万太郎)
落書の 顔の大きく 梅雨の塀 (河東碧梧桐)

「夏至」 ともなれば衣替えの時期。
「夏衣(なつころも)」 「単衣(ひとえ)」 あるいは 「網戸」 といった言葉から、高温多湿の季節を迎える暮らし向きがうかがわれます。
「早苗」 「代掻き」 「田植え」 などは農事暦そのものです。
「川狩」 「夜釣」 「夜焚(よたき)」 「夜振(よぶり)」 は漁法にまつわる季語。
「夜焚」 「夜振」 はともに松明(たいまつ)やカンテラなどの光で魚を集めるのですが、「夜焚」 はおもに海魚、「夜振」 はおもに川魚の漁法です。

しなのぢや 山の上にも 田植笠 (小林一茶)
雨後の月 誰ぞや夜ぶりの 脛(はぎ)白き (与謝蕪村)

田植えの時期ともなれば、脇にはカエルの姿がつきもの。
「青蛙」 「雨蛙」 「蝦蟇(がま)」「蟇(ひきがえる)」 みんなこの月の季語におさまっています。
また、鳥が季語になっているのも、6月の特徴です。
「岩燕」 「夏燕」 「仏法僧」 「筒鳥」 「駒鳥」 「鵜(う)」 「夜鷹」 「夏鴨」 「時鳥(ほととぎす)」 と、少し探しただけでこれだけ見つかりました。
「閑古鳥」 もあります。「梅雨の長雨で、劇場や映画館はどこも客足が悪いのか…」 と勘繰るのは間違い。「閑古鳥」 はカッコウのこと。
どの鳥も、巣から新しい生命が羽ばたいていく時期なのです。

雨蛙 不思議に酒の 飲める夜や (大野林火)
淋しさは 闇人にこそ かんこどり (加賀千代女)

「花菖蒲」 「あやめ」 「くちなし」 「鈴蘭」 「紫陽花(あじさい)」 といった花も、梅雨を彩る主役です。

菖蒲剪(き)るや 遠く浮きたる 葉一つ (高浜虚子)
思ひ出して 又紫陽花の 染めかふる (正岡子規)

「五月雨(さみだれ)」 が梅雨の長雨、「五月晴れ」 が長雨の合間の晴れ間を指すということは、以前にも書きました。
「五月闇(さつきやみ)」 は、五月雨の降る頃の夜が暗いことを表します。
都会の明るい夜はそんな言葉などどこ吹く風かと思いきや、節電のために街灯を落とした公園などを歩いていると、その闇にふと心が惹きつけられたりします。
ここ数日、東京では深夜に少しまとまった雨が降りました。
夏の明るさの中に飛び込んでいく前に、暗さを楽しめる季節になるよう、自ら機会を求めていきたいものです。

五月雨や 桶の輪きるる 夜の声 (松尾芭蕉)
夏の川 汽車の車輪の 下に鳴る (山口誓子)


紫陽花の色 日替わるや 朝の雨
歩を止めて ただ雨音の 五月闇


http://www.youtube.com/watch?v=Kt8aFHZdGG4

霉雨(メイユー) [日々雑感]

215系@甲府:撮影;織田哲也.jpg

ずいぶん長い間、更新できていませんでした。
さまざまな理由があったわけですが、それにしても6月に入って初めての記事とは、自分でも驚きです。
今日のテーマにした 「霉雨(メイユー)」 とは 「梅雨(メイユー)」 と同じ発音の中国語で、「霉」 はカビを意味します。
このブログにもカビが生え始めてきたのかもしれません。

6年ほど前に最初のブログを立ち上げたときは、公開から1カ月もしない間に妙な本気モードに陥って、長広舌まるだしの日々が続いてしまいました。
書きたいことが山ほどあったのも事実ですが、さすがに数か月もたつとネタの鮮度が落ち、自分ではあまり深く考えていないことでも大袈裟に表現するようになったわけです。
息抜きにするつもりが、わざわざ自己疎外を引き起こす原因になったので、アホらしくなってやめました。
今回のブログはもっと気楽にと思っていて、実際に半年以上、あまり無理せずにやってきました。それでも時々は、「本気モード出してるなあ」 と、恥じて頭をかくこともあります。
今はそれが 「時々」 だからいいようなものの、これ以上頻度を高めないようにしなければなりません。

幸い、書きたい小ネタはいっぱいあるので、その点は安心です。
あとは 「ものを書く」 という姿勢に濃淡をつける話です。
とりとめもない日記に多少の読者がついていてくださるのは本当に有り難く嬉しいことですが、だからといってヘビー・ブロガーになろうという気はさらさらありません。

― つれづれなるままに、日暮らし硯(すずり)に向かひて、心にうつりゆく由なしごとを、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそもの狂ほしけれ。 (『徒然草』 序段)

そんなふうに始めたブログですから、細く長く軽い足取りで続けたいもの。
それがもし上手にできなくなっているとしたら、カビが生えているのはブログではなく、私のアタマのほうだということになるのでしょうね。

http://www.youtube.com/watch?v=Kt23QlumlvY
1973年リリース。TV-CMにも使われました。

廃語の風景㉕ ― ウルトラC [廃語の風景]

成田エクスプレス(八王子-成田):撮影;織田哲也.jpg

ウルトラマンの新シリーズでも、レモン果汁入り炭酸飲料でもありません。
『ウルトラC』 は、「最高の技、とっておきの秘策、大逆転を生む決め手」 といった意味を表します。
もとは体操競技の技の難度からきています。現在はA難度からG難度に分類され、G難度が最高ですが、1964年に開催された東京オリンピック当時は 『ウルトラC』 が最高難度でした。

用例としては、例えばクラスの誰もが力でかなわないノブナガ君を、ミツヒデ君が鮮やかな奇策でやっつけてみせたとき、「ミツヒデのウルトラCが決まった!」 と言うわけです。

体操男子は1960年のローマ大会で団体優勝しており、東京オリンピックでの活躍は国民的期待を集めていました。
実際、ベテランでチームリーダー・小野喬選手が不調ながらも団体2連覇を果たし、新エース・遠藤幸雄選手は日本人初となる個人総合優勝の栄冠に輝きました。
個人競技でも金メダル銀メダルをそれぞれ3個ずつ獲得するなど、体操男子チームは多くの日本人にとって、この大会の華とも言える存在でした。

西欧人に比べ体格に劣る日本選手は、さまざまな競技で不利な戦いを展開していました。
体格の差は体操選手も例外ではなく、同じ技ではどうしても見劣りがしてしまいます。
日本チームの活路は、難しい技を高い完成度で成功させる、という一点に求められていました。『ウルトラC』 はまさにその象徴だったわけです。
作戦はものの見事に成功し、前述の好成績をもたらし、さらに時代の流行語までも生み出していったのです。

体操競技からはほかに、「ムーンサルト - 月面宙返り」 という流行語が生まれています。
1972年に塚原光男選手が成功させた 「後方1回宙返り2分の1ひねり、前方1回宙返り2分の1ひねり下り」 という技のことで、国際的な公式名称は 「ツカハラ」 です。
「月面宙返り」 は、米ソの宇宙開発競争という時代の中から生じた俗称でした。
体操だけでなく他のスポーツからも、いくつもの流行語が発生しました。
記憶に新しいところでは、2006年トリノ・オリンピックで、フィギュアスケート女子・荒川静香選手の決めた 「イナバウアー」 などその代表でしょう。

けれども、「月面宙返り」 や 「イナバウアー」 と、『ウルトラC』 とを比較すると、そこには言語として明らかな差が存在します。
「月面宙返り」 「イナバウアー」 ともに技の名称であり、その技以外の意味を表すことができません。せいぜい 「月面宙返り並みの難しさ」 とか、「後ろにのけぞった状態」 を比喩的に表す程度の応用範囲しかないのです。
これに対して 『ウルトラC』 のほうは、冒頭に挙げた用例のように、普通の会話の中で 「最高の技、とっておきの秘策、大逆転を生む決め手」 という意味を表すことができたのです。
一般の生活とはかけ離れたところにある特殊なスポーツ用語が、こうした流行の仕方をしたなど、私はほかの例を知りません。きわめて稀有なケースでしょう。

こうした現象には、時代背景が大きくかかわっていると思われます。
1964年開催の東京オリンピックは、第二次世界大戦で焦土となったこの国が、目覚ましい復興から繁栄をきたし、国際社会の最前線へ復帰することを、目に見える形で訴えました。
と同時に、日本だけでなくアジア地域で最初の開催であったこと、有色人種国家が初めて開催国になったことには、世界史的な意味がありました。
アジア、アフリカ諸国から初出場の国々が一気に増え、当時としては史上最多の参加国数を記録したのです。
柔道が正式種目となった最初の大会としても、記念されるものです。

多くの国民が 『ウルトラC』 という聞き慣れない言葉にこうした時代のシンボルを、「最高の技、とっておきの秘策、大逆転を生む決め手」 を求めたのだと解釈して間違いはないでしょう。

いま、2020年開催の第32回夏季オリンピックを東京に誘致しようと、活動が活発になっています。
未曾有の被害に見舞われた東日本大震災や、バブル崩壊後の 「失われた20年」 から脱却し、再び世界のナンバーワンへ、と意気込む気持ちは分からなくありません。
その気持ちは1964年の頃と比べて、より大きいのか小さいのか、あるいは同じ程度なのか。
二度目の東京オリンピックは国民の意識を一変させるほどの影響を、顕すのか顕さないのか。
いったい人はいま 『ウルトラC』 を、強く希求しているのかいないのか。
私には正直なところ、判断がつきません。

テレビの画面を食い入るように見つめ、一生懸命に日本人選手を応援をしていたかつての小学3年生の姿は、私の記憶の中には鮮明に残されていますが、全身を巡る血液の中からは既に消えているような気がしてなりません。
それが年齢のせいなのか、あるいは時代のせいなのか、それすらよくわからないのです。

http://www.youtube.com/watch?v=6zmHGPcoDVw

禍福(かふく)妄言録 [日々雑感]

115とE351:撮影;織田哲也.jpg

中学生の頃、日曜日の朝といえば 『兼高かおる世界の旅』 でした。
ツーリストライター・兼高かおるさんが、世界のあちこちを旅してまわる紀行番組で、今ではよくある旅番組のご先祖みたいなものです。
調べてみるとこれは、1959年から1990年にかけて TBS 系列で放映され、じつに30年にもおよぶ長寿番組だったことがわかりました。
兼高さんは私の母親と同年齢で、世界150カ国以上を訪れた経験があるそうです。
私が番組を見ていたころ彼女は40歳前後のようですが、80歳をゆうに越えた現在も取材に飛び回っておられるとか。いやはやタフなおばあちゃんです。

中学生の私は 「こんなふうに世界各国を旅しながら過ごせる人生って、なんと幸福なのだろう」 と憧れる一方、「どうやって旅行費用を捻出しているのだろう、旅行ばっかりしていたら仕事でお金を稼ぐ時間がないじゃないか」 と、よけいな心配をしていました。
今でこそスポンサーの存在やら、スポンサーを説得するための企画のプレゼン、などという大人の事情を理解していますが、純朴だった当時はそんなところにアタマの回る余裕などなかったのです。
『少年ジャンプ』 に連載されていた 『すごいよマサルさん』 というマンガの中で、ヘンな主人公マサルの将来の夢が 「旅人」 だと知り、あ、作者のうすた京介も 『兼高かおる世界の旅』 に憧れたはずだ、と一人で納得したものです。

大学生の頃、ふと目にした少女マンガに中世の吟遊詩人が登場し、貴族の奥方と大恋愛に陥るシーンがありました。
吟遊詩人は10世紀から15世紀のヨーロッパに現れ、自分で詩や曲を作り、各地を放浪しながら歌い歩いていた人。言ってみれば一種のシンガー・ソングライターです。
身分の低い者もいましたが、王侯貴族の一部の変わり者が他の貴族や騎士の宮殿を訪ねてまわるケースも結構ありました。
詩曲の内容は、神話や各地の紀行・伝説、英雄たちの武勇伝などさまざまです。
とりわけ身分の高い奥様方にウケたのは恋物語や女性への賛美だったそうで、そのあたりから、ついついイケナイ関係に発展したりしたのでしょう。
旦那が戦に出かけている間に、お気に入りの吟遊詩人を寝室に引き入れて一夜を過ごしたところ、翌朝ふいに旦那が帰ってきてそれを発見し決闘になってしまった、などといった話も稀ではなかったようです。
なにやら最近の芸能ニュースみたいで、人類の進歩もあやふやなものだとわかります。

中世の吟遊詩人にとって、いかに宮殿内でスポンサーを見つけるかが命綱でした。
そのため貴族や騎士の奥様方のご機嫌をとり、心にもない讃辞を贈り、欲望を満たすお手伝いをしなければなりませんでした。
シンガー・ソングライター以外に、ホスト的才能もなければ、務まらなかったわけです。
「王侯貴族や騎士の間では、ホモ、レズ、サド、マゾ、夫婦交換、乱交、フェチ、スカトロ、幼児愛好など、あらゆる変態行為が流行していたんだぞ」 大学時代の先輩が教えてくれました。
「変態性癖を持った奥方のお相手をさせられたのが吟遊詩人や音楽家、芸人たち。見た目は優雅でも、スポンサーの要求に辟易したこともままあったんじゃないかな」
さすがにこういうことまでは、少女マンガのネタにはできなかったでしょう。
ちなみにこの先輩は、中世ヨーロッパの男色文化に興味を持って研究していた人でした。

自分は兼高かおるさんになれなかったのは残念ですが、吟遊詩人になれなかったことは本当によかった。
「禍福は糾(あざな)える縄の如し」 というのは、まさにこういうことを言うのですね。
(違うわっ!)

http://www.youtube.com/watch?v=EA46jZD6ZM0

「禍福は糾える縄の如し」 : 「禍福」 とは災いと幸福、「糾う」 はより合わせること。人間の幸不幸はより合わせた一本の縄のように表裏をなしていて、予測できないものだ。不幸だと思ったことが幸福に転じたり、幸福だと思っていたことが不幸に転じたりすることのたとえ。

廃語の風景㉔ ― デラックス [廃語の風景]

上りE233西八王子駅:撮影;織田哲也.jpg

「デラックス」 はもちろん deluxe という英語の単語です。
もとはフランス語で de luxe と綴られ、英語でいうと of luxury に相当します。
最近の若い人は、この 「デラックス」 の意味をあまり知らないようです。
なんでも 「デブ」 とか 「オカマ」 とかいう意味で捉えていることが多いと聞きましたが、それは多分、「上からマリコ、横からマツコ」 のあの人のインパクトがあまりに大きいせいだと思われます。
本来の意味は 「豪華な、ぜいたくな」 で、a deluxe train(特等車) とか a coupe deluxe(デラックスクーペ) のように、名詞の前にも後ろにも置くことができます。

私が子供の頃、いや高校生の時分まで、「デラックス」 は、日常生活の中で頻繁に見かける単語だったように思います。
もう、どんな商品名につけても 「ワンランク上」 という意味を表すことのできる、万能選手でした。
記憶を辿れば、日産ブルーバードの下のクラスが 「スタンダード」 で、上のクラスが 「デラックス」 だと、親父が集めていたカタログに載っていました。
中2のときに買ったテニスのラケットは、今はなきフタバヤの 「ミリオンストローク」 でしたが、そのシャフトの部分にも DE LUXE MODEL と書かれていました。
明治製菓から販売されている、あのこげ茶色のパッケージ 「明治ミルクチョコレート」 は、なんと大正15年生まれのブランドですが、「明治ミルクチョコレート・デラックス」 もかつては全国のお菓子屋さんでベストセラーを誇っていました。
黄色の地に金色の縦ストライプが入ったパッケージは、こげ茶色のに比べていかにも豪華に見え、高級品の品格を遺憾なく誇っていたものです。
ホテルや旅館も 「デラックス」 なら、鉛筆や消しゴム、洗剤、トイレットペーパーといった日用品に至るまで、「デラックス」 のオンパレード状態でした。
これはもう、「アブラカタブラ」 や 「エコエコアザラク」 に匹敵する、最強の呪文といって過言ではありません。

「デラックス」 と同じように、単語の前後につけて 「ランクが上」 といった意味を表す語に、「super(スーパー)」 があります。
man の前につければ Superman(スーパーマン) になり、文字通り 「超人」 の意味を表します。
さらに super 以上の意味を持たせるため、ultra を冠した Ultraman(ウルトラマン) は 「超・超人」 というほどの意味でしょう。
super や ultra は、現在でもあらゆる商品に適用されています。
私は髭を剃るために今まで何種類かのシェーバーを使ってきましたが、「スーパーなんとか」 もあれば 「ウルトラなんとか」 もありました。
new(新~) というのも定番で、new とか neo とかを商品名の前後につけただけで、
「あ、これは新しい機能を伴った商品なんだ」
という、美しき誤解を消費者に容易に与えることができます。
英語の教科書にさえ、NEW HORIZON や NEW CROWN があります。かつては NEW PRINCE READERS や NEW APPROACH TO ENGLISH といった教科書もありました。
英語教育に関わる仕事は多いのですが、いまだにどこが new なのかよくわかっていません。

cyber(サイバー) とか global(世界的な) を冠した商品もあります。実際にそれほどの意味のある商品かどうかはあまり関係なく、要はイメージ的に 「他と違う」 ことが伝わればいいという戦略です。
それも分からなくはありませんが、だったらどうして、今日び 「デラックス」 だけがぽつんと忘れられた存在になっているのでしょう。
頭出しの 「デラ」 が、発音上あまりにもベタな印象だからでしょうか。

「デラックス」 の復権がいつ来るのか、ひそかに楽しみにしている私です。
それにしても今、「明治ミルクチョコレート・デラックス」 は普通の菓子屋やスーパーにはなくて、百均ショップや通販で販売されています。
これって、いったいどういうことでしょうか。謎はますます深まります。

http://www.youtube.com/watch?v=S301GWoi60s

蛹化(ようか) [女王の細脚繁盛記]

蛹化:撮影;織田哲也.jpg

巣の真ん中のほうの子供たちが、蛹(さなぎ)になるようです。
室に天井ができて蓋をされたようになっていますが、あれは女王カトリーぬⅠ世の手によるものではなく、幼虫自身が口から繊維を吐きだして造成したものです。
生まれて間もないのに、もうそんな大事な仕事をやり遂げたというわけです。
今回の撮影は30cmほどの距離で行いましたが、女王はすでにこちらに馴れたか、見向きもしません。
幼虫の群れだけが、モゾモゾと蠢(うごめ)いていました。

5年ほど前に、2年続けてヒメスズメバチの襲撃を受け全滅したときは、1匹とて蛹になることさえできませんでした。
最後の試練を越え、あの蓋を内側から破ってこの世に出てきたら、立派なキアシナガバチの成虫です。
働き手が増えると、巣もまたどんどん大きくなっていきます。
カメラを構えながら、自分の鼓動がはっきりと聞こえました。

http://www.youtube.com/watch?v=OvOUhdtEF3Y

検索ワードの不思議 [日々雑感]

下りE257相模湖駅通過:撮影;織田哲也.jpg

このブログは、ソネットエンタテイメントという会社が提供しているサービスを利用して公開しています。
そのサービスの一環で 「アクセス解析」 の結果がグラフ表示され、管理者にわかるようになっています。
解析項目としては、「ページ別(訪問者数)」 「時間別(訪問者数)」 「(訪問者が経由した)検索エンジン」 「(ヒットした)検索ワード」 などがあります。
興味があるので、私もブログを更新するたびに覗いています。
なお、「訪問者のIP表示」 機能は提供されていません、為念。

「検索ワード」 をチェックしているとときどき傑作なのもあって、少し前に 「ジャイアンの歌声でカラスが逃げる」 というのがありました。いったいこの人は何を調べたかったのでありましょうや?
以前 「ジャイアンはレッド・ツェッペリンのファンである。その証拠に着ている Tシャツにロゴが入っている」 といった旨の記事を書いたので、そこにヒットしたのだと思われます。
こういう心当たりがあるぶんにはいいのですが、昨日の検索ワードには本当に、首を捻るしかありませんでした。
それは 「ブラジャーを忘れた高校生」 というものです。

私が実際にそのワードで検索をかけてみると、あるTV番組にブラジャーをつけ忘れて登校し、体育の時間にセロテープを貼って臨んだという体験を告白した高校生が登場、その女の子がたいへん可愛かったという他愛のない内容とわかりました。
わからないのは、どうしてその検索ワードでこのブログがヒットしたかということです。

サイト内検索をかけてみると、このブログにはかつて一度も 「ブラジャー」 は出てきませんでした。そりゃそうです、今日はじめてここに書いた単語ですから。
「高校生」 のほうは何度も出てきますが、そんな一般的な名詞でこんなマイナーなサイトが、google や yahoo の上位にランクされるとは思えません。

わずかに残る可能性としては、次の4点が思いつきます。

1.以前、かつては電車の中で赤ちゃんに授乳しているお母さんもいた、というエピソードで 『鉄道とおっぱい』 という記事を書いた。
2.女性の下穿きを 「ぱんちー」 と記したことがある。
3.昨日の記事で、ブローニングm1910という拳銃のことを、「ルパン三世の峰不二子がガーターベルトに仕込んでいるヤツ」 と紹介した。
4.「ブラジャー」 はないが、ブランデー、ブラジル、ブラック、ブラつく、ブラ下げるなどの 「ブラ」 語は何度も登場する。

無理やり考えればこんなところです。どれも根拠としては薄い話でしょう。

「ブラジャーを忘れた高校生」 のお客様、どこをどう通ってウチに辿り着かれたのか、ぜひとも教えていただけませんでしょうか?

http://www.youtube.com/watch?v=_X99qt2_JcM
驚きました。小粋なバーでかかっていてもおかしくない編曲。

夕焼け小焼けの里 [日々雑感]

回送@八王子駅・ホリデー快速:撮影;織田哲也.jpg

久しぶりですが、西の空に夕焼けを見ました。
都心の無機質な高層から眺める武蔵野は、何故かいつも怠け心を起こさせる風が吹いているようで、
その先に霞む多摩の山々ときた日には、
おお、いつか自分も疲れて枯れて、没するところがあそこなんだなあ、と涙がチョチョ切れる思いさえする今日このごろなのでございます。

私が居を構える八王子市にあって、恩方と呼ばれる地区は 『夕焼け小焼けふれあいの里』 とされており、名曲 『夕焼け小焼け(作詞:中村雨紅)』 の舞台となっています。
古(いにしえ)より、西方は “お浄土” のある地と信じられています。
みんな日が落ちるのを待って、お手々つないで帰るのです。
カラスと一緒に、西の方角へと帰って行くのです。

移り変わりの激しい情報の世界に身を置いていることが突然恐ろしくなるのは、今日のような夕日を眺めている瞬間です。
大きなものを見ていると死にたくなるが、小さなものを見ていると生きていてもいいかもしれないと思う ― これは故・安部公房氏が著書 『箱男』 の中で展開されていたモチーフのひとつです。
大河を思わせる大きな時代の流れと小さな幸不幸の狭間で、人は呼吸し、血液を循環させ、善意と欲望とを天秤にかけながら生きているものですね。
ガラス越しの陽光を浴びた自分の影を見て、つくづくそう感じます。
なんと言うか、いい歳こいて心の置き場をまだ定められずにいることの恥ずかしさを、陽の当たるところ曝け出された感じがして、血管の中に虫が生息しているような錯覚に陥ります。
そんなだから、夕日を見たら本当は 「ありがとう!」 と叫びたいのに、なぜか 「バカヤロウ!」 と叫んでしまっちゃうわけなのでしょう。

こんなこと書いていいんだっけ。まあいいよね、日記なんだから。
今夜のお酒は、ボンベイサファイア・ベースのギブソンとギムレットです。
お付き合い頂けるのなら、独りぼっちのあなたも、是非。

http://www.youtube.com/watch?v=dj5tMiO4SFc

廃語の風景㉓ ― 銀玉鉄砲 [廃語の風景]

下りE233浅川橋梁:撮影;織田哲也.jpg

昨日めでたく30歳の誕生日を迎えた長女は、「銀玉鉄砲? なにそれ」 と言いました。
彼女はBB弾を放つエアガンを触ったことはあるそうですが、銀玉鉄砲に関しては名前すら知らなかったのです。
調べてみると、今でも百均ショップで中国製の安いのが売られています。ただし、売れ行きが良いといった様子はありません。

銀玉鉄砲は私が小学生時分には、男の子ならだれでも持っているというオモチャでした。
みんな持っているくらいですから、あまり高価な商品ではありません。
そのころ一世を風靡していたのが、『セキデン』 というメーカーの 『オートマチック』 という拳銃でした。
私はそれをオモチャ屋で買った記憶はなく、学校の隣の文房具屋で求めました。詰め替え用のタマも同じ店で補充していました。友達も似たような入手経路だったと思います。

タマは黄土色の土のようなものを丸めて、外側に銀色のコーティングを施した、直径5ミリ程度のものでした。きれいな球形ではなく、いびつな形や最初から一部が欠けているものもありました。
材質的に脆(もろ)く、子供が道路で踏みつけただけで割れてしまうほどでした。BB弾のようにプラスティック製ではないので、壊れるとすぐ土に還るため、環境には優しいようです。
今のエアガンのように圧縮ガスで撃つのではなく、スプリングの反発力によってタマを飛ばす構造です。ですから、そんなに速く強くは撃てません。5メートルも飛ばすと、おじぎをしてしまうようなタマの勢いでした。

いま私は 『マルサン』 製の 『ブローニングm1910』 というエアガンを持っています。機種的には20世紀中盤の名機と言われる護身用拳銃で、ルパン三世の峰不二子がガーターベルトに仕込んでいるヤツです。
この銃からBB弾を発射すると、皮膚に傷をつけるほどではないにしても、眼球に直接当たると障害が出るかもしれない程度の勢いがあります。
それに比べると、銀玉鉄砲はいたって平和なオモチャです。発射音もスプリングの反発時に、「きゃしょーん」 という情けない音がするばかりです。

よくよく考えれば、「銀玉鉄砲」 というネーミングから変です。
どう見ても 「てっぽー」 ではなく、「拳銃」 もしくは 「ピストル」 です。ところが、だれも 「銀玉ピストル」 とは呼びませんでした。
運動会の徒競走で 「よーい、ドン」 するときの号砲は 「ピストル」 なのに、銀玉鉄砲はあくまで 「てっぽー」 なのです。
当時の感覚をいま明確にたどることはできませんが、そのレトロなネーミングに、小学生ながら何かしらの共感を持って呼んでいたのかもしれません。
また、タマはふつう銀色をしていましたが、別売りで金色のタマもありました。ただ、誰もそのような名前の鉄砲とは呼びませんでしたが。

遊び方はごくごく単純で、相手に向けて撃つか、マトを設定して射撃の腕を競うかだけの話でした。
公園などで撃ちあっていると、そのうち誰かが 「タイム!」 をかけます。何をするかと思ったら、みんなでタマを拾い集める時間です。お互い限られたお小遣い事情ですから、貴重なタマを無駄にすることはできません。
先生から 「学校には持ってくるな」 と指示されていましたが、そこは一流のスパイよろしくカバンの中に密かに忍ばせていたりします。
同じクラスの女子に向けて 「きゃしょーん」 とぶっ放したアホタレがいて、このときは全員カバンの中をあらためられ、持ってきていた者は取り上げられていました。その日、たまたま持参していなかった私は、難を逃れました。
いろんな意味で、銀玉鉄砲がらみのスリルを味わえた時代でした。

20歳の頃、ある友人と街で銀玉鉄砲を見かけ、懐かしさと戯れに一丁ずつ買ったことがあります。
それをキャンパス内で撃ちあうという、およそ大学生とは思えない遊びに興じましたが、まわりに寄ってきた別の友人たちも目を輝かせて我先に手に取り、カッコよく構えてトリガーを引いていました。
件のメーカー 『セキデン』 では、ブームを作った 『オートマチック SAP.50』 を再生産して、リバイバル販売しています。タマが50発ついて750円となっています。そのことを取り上げたサイトもちょくちょく見かけ、評判は良さそうです。
どのような層の人がそれを注文するのか、容易に想像がつきます。かくいう私も、還暦まであと数年という齢ながら、欲しくて仕方がありません。
いつまでたってもそんなオモチャが欲しいほど、男はみんな幼稚な生き物なのです。

http://www.youtube.com/watch?v=AYV4R18s8Y8

廃語の風景㉒ ― ジュークボックス [廃語の風景]

八高線初夏:撮影;織田哲也.jpg

骨董品を扱うお店に、1台のジュークボックスが並べられていました。
店主の説明によると、多分まともには動かないし、レストアしてくれる工場もあるが結構値が張るということでした。

ジュークボックスは、今ではアンティークを売りにしているお店に行かないと見られない代物です。
かつてはホテルの娯楽室や喫茶店、パブ、ゲームセンターあたりではメジャーな存在でした。
大型スーパーのような店舗でも、今で言うとガチャガチャの機械が並んでいるような空間に、ジュークボックスが置いてあることさえありました。

1980年に上京して、最初に住んだ中野のアパート近くに T というスナックがあり、そこでは100円で3曲かけることができました。
コインを投入後、曲名の書かれたボタンを3つ選んで、順に押していきます。
すると機械の中で、シングルレコードが縦にいっぱい並んだ円盤がくるりと回転し、その一か所にアームが伸びてお目当てのレコードを取り出してきます。
あとはアームが取り出したレコードをターンテーブルにセットし、針が降りて曲がかかる構造になっています。なんともアナログなシステムです。
スナック T には8トラックのカラオケもあったのですが、誰かがジュークボックスを使い始めると、3曲かかり終わるまでカラオケは休憩でした。
お隣さんと会話をしながらグラスを傾けつつ、客はみんなでジュークボックスの奏でる音楽を聴くということになるのでした。

「みんなでレコードを聴く」 などという慣わしがあったのも、概ねこの頃までではないかと思われます。
学校や図書館、公民館、教会などでは 「レコード鑑賞会」 なる集いがときどき開催され、みんなで静かに音楽を鑑賞しましょうといった具合でした。
京都の木屋町には、私が何度か通った名曲喫茶 M がありました。
スピーカーは超大型で、とうてい学生が自室に保有できるサイズではありません。延びのある重低音が何と言っても魅力です。
店員も客も会話など交わさず、クラシックの調べに身を委ねました。
客の大半は心地よい BGM に揺られながら、本を読んだりレポートを書いたりしていましたが、中には本気で音楽鑑賞に没頭している客もおり、コーヒーカップを皿に置く音をさせただけで睨みつけられたことがあります。

1979年に、SONY から 『ウォークマン』 の第一号が発売されました。
数年の間にそれは世界的大ヒット商品となり、若者を中心に多くの人々がイヤホンを耳に入れ、音楽を楽しみながら街を歩いたりするようになりました。
ウォークマンは音楽をより身近で手軽なものにし、生活のあらゆる分野が音楽との共存を可能にしたという点で、多大な功績がありました。
と同時に、イヤホンやヘッドホンを使う習慣が一般化されたことで、録音された音楽は他人と共有するものではなく、個人の世界で楽しまれるものという価値観が定着しました。
このウォークマンの流行とジュークボックスの衰退とは、時を同じくしているように私は思います。
テレビの歌謡番組が少なくなってきたのも、1980年代半ばあたりからではないでしょうか。

その後、ウォークマンはカセットテープから CD,DAT,MD などの媒体を経て、iPod に代表されるデジタル・プレーヤーに至りました。
専用のプレーヤーを用意しなくても、スマホで音楽編集までできる時代になっています。
音楽を聴くという行為がお手軽になりすぎて、感動が薄れてきたのではないか。
これは世相の流れに掉さしている人を批判しているのでも何でもなく、私自身がそのように実感してしまっていることなのです。

ジャズやオールディーズの名盤を集めたジュークボックスを置いている喫茶店やバーも、探せば都内、横浜、鎌倉などにあります。
こんど休みがとれたら、わざわざジュークボックスをかけるためだけに、そうしたお店に出かけてみようかと思っています。

http://www.youtube.com/watch?v=XA0KbpNOBEs

蜂の子 [女王の細脚繁盛記]

P1060048 (2).jpg

卵がかえり、幼虫がすくすくと育っています。
お母さん蜂にとっては、今が一番忙しい時期です。
たった一人で、これらの子供たちを育てているわけですから。
けれどもそこは自然界の慣わし、よくしたもので、
幼虫がお母さんから口うつしで餌をもらうとき、
お母さんにとってエネルギー源になる養分を唾液に混ぜてお返ししているということです。
健気に生きています。何も言うことはありません。

http://www.youtube.com/watch?v=uBYlnReBDDg
「生きている鳥たちが生きて飛びまわる空を…」

お互い様 [日々雑感]

485系魔改造『宴』:撮影;織田哲也.jpg

昨日の朝、あるTVチャンネルで 「車内のベビーカーは、持ち込んだ方が配慮すべきか、周りが配慮すべきか」 を論争するといった番組が流れていました。
その論点に対して、タレント数名が互いに主張を述べたり、FAXやメールで届いた視聴者の意見を紹介する番組進行のようでした。
私はあいにくちらと見ただけで、ほかのニュース番組に切り替えてしまったのですが、果たしてそのあとどんな論争になったのやら、少々気になっています。
第一、それが 「論争」 すべき問題なのかどうか、疑問に思っているからです。

日本語には 「お互い様」 という表現があります。
これには大きく分けて3つの意味があり、要約すれば ①「おあいこ、引き分け」、②「同じ状況にいる」、③「助け合い、相互扶助」 といったところです。
①と②の意味は外国語に翻訳することができますが、③の意味はそれに相当する用例を探すのが非常に困難と言われているようです。
例えば英語では、次のように言うことができます。

You play dirty. (お前、ずるいぞ)
- You are another. (お前も同じようなもの=お互い様だよ)

We are in the same boat. (私たちは同じ船に乗っている=お互い様の運命)

③の意味は、日本人独特のメンタリティーに帰するところが大きいのでしょう。
私たちは互いに迷惑をかけあって生きている、だから寛容に許しあいましょう、といった庇い合い精神があってこそ、この意味が生きてくるのだと思われます。

(チームメートの会話)
A:俺がエラーしたのをみんなでカバーしてもらって助かったよ。
B:なあに、エラーは誰でもするもの、お互い様だよ。

(夫婦の会話)
妻:悪いわね、掃除を全部まかせちゃって。
夫:君こそいつも料理を作ってくれるじゃないか。お互い様だよ。

最初の問題に戻ると、電車の中にベビーカーを持ちこむのは、朝夕のラッシュ時はさすがに非常識ですが、そうでない時間帯にならさほどの迷惑行為とも思えません。
自分も知らず知らずほかの部分で周りに迷惑をかけていることだってあるし、将来年をとってからはもっと周囲に気を遣わせるようになるかもしれないわけです。
「お互い様」 という言葉は、どれだけ人生を長いスパンで捉えられるか、どれだけ互いの存在を受け入れられるかという 「心の器」 の大きさと、深い関係にあるものだと思います。
目先の気に入らない状況や自分が受けるちょっとした迷惑、他人との優劣・勝ち負けに心を囚われることは、却って自分の世界を狭くし、自ら器量を小さくしているだけではないでしょうか。

「でも、心の狭いギスギスした人が増えてきたかもしれない」 ― ついそう感じてしまうのが年齢を重ねたせいの勝手な思い込みであるならば、それはそれで結構な話です。
先に紹介した番組内でどんな話し合いになったかは、続きを見なかったのでわかりません。
しかし、もし看板通りに 「大激論」 にでもなっていたとしたら、そのことのほうが大問題だと思えるのですが、如何なものでしょうか。

http://www.youtube.com/watch?v=uPEUY_gYXEA

廃語の風景㉑ ―よろず屋 [廃語の風景]

松が谷:撮影・織田哲也.jpg

コンビニエンス・ストアのご先祖と言ってよいかもしれません。
よろず屋は田舎限定のコンビニでした。
「よろず」 は漢字で書くと 「万」 であり、食料品から日用雑貨まで幅広い商品を取り扱っています。
けれども最近は、地方都市や山地を訪れても、「よろず屋」 を見かけることがきわめて少なくなってきています。

かつては都市部と田舎では、その経済活動や生活様式において、厳然とした差異がありました。
それではいかん、日本全国どこの土地でも東京と同じかそれに近い暮らしが送れるよう、生活革命を起こそうじゃないか。故・田中角栄元首相が著した 『日本列島改造論』 の原点です。
莫大なお金が公共事業に投入されました。
道路や鉄道が整備されるようになると、物資の流通が活発化して地方商業が盛んになります。
スーパーマーケットなどの大型商業施設はいつしか全国に広まり、拠点の店舗には普及したマイカーで買い物に訪れる客が一気に増えました。

今、ちょっとした地方都市に行くと、駅前の風景には既視感が漂っています。
それもそのはずで、普段から見慣れたコンビニや何度も食べたことのあるハンバーガーのお店が、全国どこででもお目にかかるようになっているからです。
全国チェーンのスーパーや吊るしの洋服屋、牛丼屋、居酒屋、レンタルDVD店、薬局だってあります。
さすがに山中の駅前はそうではないにしても、国道を少し走れば同じような施設が脇に建っています。都市近郊よりもはるかに立派な大型店舗に出くわすことが珍しくありません。

フィールドワークで地方を訪れたついでに、そこのコンビニを覗いてみると、多少は地域ごとに特徴のある品揃えはされていますが、大半はうちの近所と似たり寄ったりです。
店内の照明や陳列、清掃具合、店員の制服から態度に至るまで、変化は見られません。
今度は隣のハンバーガー・ショップに入ると、接客トークが見事にマニュアル通りで、しかも発音が標準語です。
せめて方言で接客してくれたらと思うのですが、教育が徹底しているというか…、あ、ポテトはいりません、ええ持ち帰りでよろしく。

「よろず屋」 で今でも思い出すのは、秩父の奥の方でその1軒に立ち寄った時のことです。
ちょうどサッカーのJリーグが発足して間もない頃でしたが、あるよろず屋でジュースと菓子パンを買って食べていると、奥の壁に幼児向けのオモチャの野球セットが吊り下げられているのを発見しました。
ビニール製のバットとグラブとボールが詰め合わせになっていて、その背後の厚紙にジャイアンツのバッターがホームランを打ったイラストが描かれています。
バッターの横には大きな文字で、『J リーグやきゅうセット』 と印刷されていました。

これは何度も確認したので、「セ・リーグ」 や 「大リーグ」 の見間違いではありません。
『キン肉マン』 が 「筋肉マン」 になっていたり、『ドラえもん』 が 「ドラエモン」 になっているのはご愛嬌としても、『J リーグやきゅうセット』 はないでしょう。
東京に帰って知人にその話をしても、「また作り話を…」 などと信じてもらえませんでした。証拠に買ってこなかったことを、今でも悔やんでいます。
それだけにこのよろず屋のことは、いつまでたってもニヤリとしてしまう思い出として、心の中に残っています。

歴史には、ある種のいかがわしさがつきものだと、私は考えています。
歴史や文化に個性があればあるほど、その地域特有のいかがわしさもまた強く主張をします。
これは東京の下町しかり、京都しかり、大阪しかりといったところでしょう。都市部だけではなくどんな地方にも、いかがわしさを主張する余地は必ずあるはずです。
いま全国から 『ゆるキャラ』 が声を発していますが、あれなど地方のいかがわしさが形になった典型ではないでしょうか。

コンビニやハンバーガー・ショップの 「均一性」 が悪いとばかりは言えません。
『日本列島改造論』 に始まる生活レベルの均一化政策によって、地方の経済が発達し生活レベルの向上が達成された点は評価すべきです。
しかし、レベルの 「均一」 と、規格の 「画一」 は意味が違います。
例えばコンビニの品揃えが均一的ではあっても、接客や店舗の作り方まですべて画一にするのは行き過ぎという気がしてなりません。
その土地特有の言い回しや店舗の形態があるほうが、楽しいではないですか。
横浜のコンビニの外装がレンガ作り風になっていたり、大阪のハンバーガー屋の店先に 「くいだおれ太郎」 みたいな人形が立っていたり、京都のレンタルDVD店の店員が大原女(おはらめ)姿だったりしたら、それだけで観光名所になりそうな風情です。

ゆるキャラ全盛の今こそ、現代のよろず屋さんには頑張ってほしいものですが、まあ無理なんだろうな。
かつて、よろず屋のお婆ちゃんから感じた人の匂いの懐かしさを、もう感じることはできないものなのでしょうか。

http://www.youtube.com/watch?v=4IbM9YqAjnc
1977リリース

子供の領域 [日々雑感]

ホリデー快速・河口湖:撮影;織田哲也.jpg

昔、朝日新聞に 『小さな目』 というコラム記事があって、毎日1篇ずつ小学生の詩が掲載されるようになっていました。
1年生の時だと思いますが、ある日、担任のフジイ先生が 「みんなで詩を書いて 『小さな目』 に投稿しましょう」 と言い始めました。
私の家では毎日新聞をとっていたので 『小さな目』 の何たるかも知らなければ、「詩」 がどんなものかも理解していません。
それでも何とか見よう見まねで、私も一篇の詩を書き上げたものです。
それは 『お父さんの手』 という題の詩で、文言そのものは正確には覚えていませんが、「お父さんの手は消毒のアルコールの匂いがする、ぼくも大きくなったらあんな手になりたいなあ」 という内容でした。
父親が開業医だったのでこんな詩が生まれたのですが、中身は嘘っぱちの話ではなく、手から漂うアルコールの匂いを不思議に思って書いたのです。
自分は将来医者になる、という気持ちがあったことも事実です。
そしたら、それが 『小さな目』 に載っちまいました。私のメジャー・デビューの瞬間です。
その後にいろいろあって、結局私は医者を継がなかった訳ですが、きっちり別の意味でアルコールくさい手にはなりました。
私は嘘は申しません。

それにしても子供というのは本当に表現の天才で、特に低学年層の詩や作文を読むと、その都度ハッとさせらることの連続です。
たとえば次の2編の短い詩など、脳だけでなく私のすべての臓器を思い切り絞ったところで、とうてい出てこないほどの美しい言葉に溢れています。

『木』
木が風にのっていました
葉っぱがいっぱいありました
だから、音楽になるのです

『柿』
かきのいろは
きれいだなあ
くれよんがまけそうです

…すごいなあ。なんでこんなふうに書けるんだろう。
おじさんはお金を貰って文章を書いているというのに、君たちの足元にもまったく及ばないじゃないか…。

『先生がおこったら』
せんせいがおこると
ガラスがこわれ
じめんがわれ
ちきゅうがばくはつし
うちゅうもばくはつし
このよはおわる
みんなが
しぬ

『じしん』
さんかんびの日
学校からかえったらお母さんに
「こたえがわかったときは、じしんをもってしっかり手をあげなさい」
といわれました
これからは
じしんをもってこたえようと思いました
せんせい、じしんてなんですか?

『おとうちゃん大好き』
おとうちゃんは
カッコイイなあ
ぼく、おとうちゃんに
にてるよね
大きくなると
もっとにてくる?
ぼくも
おとうちゃんみたいに
はげるといいなぁ

もう何も言えません。「酒や酒や、酒持ってこい-!」 と叫びたくなる気分です。

最後に紹介する詩は、
私に涙を流すことさえ忘れさせた、生命への賛歌です。
ぜひ声に出して読んでいただけたらと思います。

『ぼくがうまれたとき』
ぼくのうまれたとき
おとうさんが
おとこのこでよかったといいました
かなこがうまれたとき
おかあさんが
おんなのこでよかったといいました
あとでかなこがしにました
こんどただしがうまれたとき
おとうさんもおかあさんも
おとこでもおんなでも
げんきならいいといいました

http://www.youtube.com/watch?v=thQWqRDZj7E


白いカーネーション [日々雑感]

115系連結作業:撮影;織田哲也.jpg

若い人たちは、こんなこと絶対にご存知ないでしょう。
私が小学校低学年のころ、「母の日」 には学校から赤いカーネーションの造花が、1人に1つずつ配られ、それを安全ピンで上着につけて、帰宅するよう先生から言われました。
私も無邪気に、そして誇らしげに胸元に赤いカーネーションを飾ったひとりです。
カーネーションの花の下には細い短冊が垂れ下がっていて、「おかあさん、ありがとう」 といった内容の文字が印字されていました。
けれども赤いカーネーションをもらえるのはお母さんのいる子供たちで、何らかの事情でお母さんのいない子供たちには 「白いカーネーション」 が手渡されたのでした。

こんな残酷な話があってよいものでしょうか。
白いカーネーションを胸につけることは、「私には母親がいません」 と世間に言いふらしているようなものです。
しかもそのとき教室では画用紙が1枚ずつ配られ、「お母さんの顔」 とか 「家族の楽しかった思い出」 とかの絵を描く課題があったはずです。
何も知らない私などはそれが当たり前で、「母の日」 に学校ですることはそういうものなのだと、疑問の入る余地はありませんでした。

たとえば 『Always 三丁目の夕日』 など、「古き良き昭和」 を描いたノスタルジックな映画や物語に触れる機会は結構あります。
私にとってもそれらは懐かしく感動的なことが多いのですが、だからといってその当時をすべて肯定的に捉えるのは、間違っているというよりある種狂気じみた話だと考えています。
生まれ育ちや学歴、都会と地方との差異、そのことによって生じる職業のミスマッチや社会的待遇の差別など、今よりもずっとたくさん、私の子供の頃にはあったはずです。
そうした社会の暗部に向ける視線を忘れて、脳天気に 「昔は良かった」 的な発言をする同世代人もいますが、何をか言わんや、怒りさえ覚えてしまいます。

「母の日」 を迎えるたび、私はあの白いカーネーションを思い出してしまいます。
白いカーネーションを胸にした子供たちは、クラスに数名いました。もちろん、死別したのか、あるいは別の大人の事情によるものかはわかりません。
けれども彼らは何を思いながら、配られた画用紙にどんな絵を描いたものなのか…。
当時は気配りさえできなかったことに対して、今にして思えば思うほど、胸に痛みが走るのです。

http://www.youtube.com/watch?v=seBtUJCCzcM

廃語の風景⑳ ― 牛乳配達 [廃語の風景]

下りE257西八王子通過:撮影;織田哲也.jpg

夏目漱石 『坊っちゃん』 で、まだ学生の主人公が母親に次いで父親も亡くしたとき、兄が家財産を片付けようと切り出す場面があります。
主人公は 「どうでもするがよかろう」 と答え、肌の合わない兄の世話になる気はないので、「牛乳配達をしても食ってられると覚悟をした」 というくだりになっています。
実際は兄から600円を財産分与され、それを資金に3年間物理学校に通うことになるのですが、初めてここを読んだとき、「牛乳配達は明治時代からあったのだ」 と驚かされました。

1970年初頭まで、毎朝自宅に配達されるものには、新聞以外に牛乳もありました。
どちらも黒い自転車を利用して配られていましたが、牛乳配達のほうは荷台に積んだ木の箱の中でビンが躍り、ガチャガチャうるさい音を立てるのが特徴でした。
新聞は現在と同じように、郵便受けに投げ込まれました。牛乳はそうはいかないので、各家庭とも玄関先に木でできた専用の牛乳ボックスを設置していました。
中には180mlの牛乳ビン2本が入るようになっています。飲み終えたあとの空きビンも、このボックスを介して返却するシステムです。
たしか母親は、月極めの配達代金もそのボックスに入れて渡していたようなので、ずいぶん鷹揚(おうよう)な話です。

とはいえ、牛乳を盗む輩はいて、ウチも数回被害に遭いました。
2本とも持って行かれたわけではなく、1本をその場でこっそり飲んだのでしょう。空きビンがご丁寧にボックスに返却されていました。今から思えば、微笑ましい泥棒もいたものです。
その後、牛乳ビンはテトラパックに代わり、ほどなく配達自体が少なくなっていきました。
スーパーマーケットなどの商業施設が全国的に増えたこともあり、牛乳は配達されるものではなく、店頭に出向いて購入するものに変わったのです。
衛生状態が問題視されたのと同時に、泥棒だけでなく毒物を混入させるなどの犯罪が発生したことが、その理由でしょう。

私の子供の頃は、牛乳さえ飲んでいれば子供は健康に育つ、といった一種の 「牛乳神話」 がまかり通っていました。
戦後の学校給食は、児童の欠食対策という役割が大きな比重を占め、アメリカから援助された脱脂粉乳を湯にといた飲み物が支給されました。
この時代の影響は昭和30年代以降になっても残り、学校給食には牛乳がつきものでした。
それだけでは足りないと考えたか、給食のない大人たちにも必要と思われたのか、毎日1本の牛乳を飲む習慣は多くの日本人に支持されていたようです。
今では牛乳配達がまったくなくなったかと言えばそうでもないようで、「宅配」 という名で細々と残っています。
ご近所で契約しているご家庭もちらほらありますが、昔のように多くのお宅で、というわけではありません。

いま私は月に一度、循環器クリニックに通っていますが、そこの主治医は完全に 「乳製品否定派」 です。
「酒を飲むな」 とは言わず、「牛乳を飲むな」 と言うわけですから、私にとってはたいへん受け入れやすい食事指導です。
理由としては、乳製品を摂取することで脂肪分の蓄積が多くなるというものです。また日本人の消化器構造では、乳製品からカルシウムを吸収することが困難であるということも根拠のひとつです。
牛乳をたくさん消費する国で骨粗しょう症が多く、あまり消費しない国で少ない、という研究発表も見せられました。わが国では、学校給食が始まって以降、骨粗しょう症患者が発生し始めたそうです。
そうした指導がある関係上、私も日常的に乳製品を摂る習慣が今はありません。

とはいえ時間があるとき、たまに町田の 『ロテンガーデン』 に出かけたりするのですが、風呂上りにコーヒー牛乳を飲むのは楽しみのひとつです。
ビンから牛乳を飲むとき、人は必ず腰に手を当てます。これは私だけではなく、多くの人が裸でそれをやっているのを、この目で何度も確認しています。
その姿がいかにも健康的に見えることが、かつては 「牛乳神話」 の助長に役立っていたのかもしれません。

http://www.youtube.com/watch?v=gICWmKroNOE

約20日後 [女王の細脚繁盛記]

約20日後:撮影;織田哲也.jpg

アシナガの巣作りを発見してから20日以上たちました。巣はこんなに立派になっています。
4月15日の画像と比較すると、女王様のご努力に感服至極でございます。
今回は撮影のために脚立を用意して30センチほどに近づいてみました。最初は少し意識してるようでしたが、攻撃してくる気配はありません。
顎(あご)をせわしく動かし、庭の草木から採取した植物繊維と唾液とを混ぜて巣の材料としている様子が、よく観察できました。

日本文学史上最古の長編物語である 『うつほ物語』 には、子宝に恵まれることを、「蜂巣のごとく産み広ぐめり」 と形容した記述があります。
巣の中のすべての房に卵が産み付けられ、それらが孵(かえ)って幼虫となります。
この幼虫の時期にヒメスズメバチの攻撃を受けなければ、蛹(さなぎ)から成虫へと成長を続けることができるのです。
ヒメスズメバチはアシナガバチの幼虫を噛み千切り、肉団子にして自分の子の餌にします。
自然の営みですから仕方ありませんが、幼虫の体の断片が足下に散らばっている悲しい光景は、二度と見たくないものです。

美しく 括(くび)れてをりし 蜂の腰 (大堀柊花)

母蜂の 庭を巡るる 羽音聴く

http://www.youtube.com/watch?v=thCePPbpdXI
前の30件 | -

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。