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五月の季語から [日々雑感]

下り「スーパーあずさ」上野原通過:撮影;織田哲也.jpg

五月はいったい、春なのか夏なのか。
旧暦で言えば夏に分類されますが、新暦では春に組します。
旧暦と新暦のイメージの差が最も出やすい月、と言えるでしょう。

五月五日は 「端午の節句」。
「端午」 は五節句のひとつで、わが国では 「こどもの日」 に指定されています。
「ちまき」 を食べたり 「菖蒲湯」 をつかうことなどは古代中国由来の習慣で、わが国では 「菖蒲」 が 「尚武」 に通じることから、武家を中心に男子の健やかな成長を祈願する日とされてきました。
「鯉幟(こいのぼり)」 は江戸中期以降に広まった、わが国独自の風習。「鯉の滝登り」 が立身出世の象徴として捉えられたことによります。
「武者人形」 や 「鎧・兜」 を飾るのも、やはり武家の影響が大きいようです。

浦の船 端午の菖蒲 載せて漕ぐ (水原秋桜子)
青葉がちに 見ゆる小村の 幟(のぼり)かな (夏目漱石)

五月には全国で大きな 「祭り」 が催されます。
ざっと考えただけでも、東京では 「神田祭(神田明神)」、「三社祭(浅草神社)」、京都では 「葵祭(賀茂神社)」、福岡では 「博多どんたく」 などがあげられます。
また毎年のことではありませんが、「御柱祭(諏訪大社)」 の 「里曳き」 が行われるのも五月です。
国宝・阿修羅像で有名な奈良の興福寺では 「薪能」 が催されます。

月残す 浅草の空 まつり笛 (杉本寛)
月出づる 橋弁慶や 薪能 (正岡子規)

「新」 のつく五月の季語もいくつかあります。「新緑」 「新茶」 「新樹」 などはその代表です。
「初」 では、何と言っても 「初鰹(はつがつお)」 でしょう。

目には青葉 山ほととぎす 初鰹 (山口素堂)

この有名な句以外に、「女房を質に入れても初鰹」 などというけしからん川柳もあるくらい、江戸の庶民は春から夏に向かう季節の旬を楽しんでいました。
「蛸」 「烏賊(いか)」 「鯖」 「飛魚」 「鮑」 「紅鱒」 といった海・川のものに加え、「筍」 「蕗(ふき)」 「蚕豆」 「豆飯」 など山や野のものも、この月の季語に名を連ねています。

蛸壺や はかなき夢を 夏の月 (松尾芭蕉)
好き嫌ひなくて 豆飯豆腐汁 (高浜虚子)

「夏めく」 「夏きざす」 「薄暑」 「夏霞」 といった、「夏」 を含んだ季語も、初夏の薫りを運んできます。
「麦秋」 「麦の秋」 は古文の授業でも習った言葉。そういえば小津安二郎が原節子を起用して撮った 『麦秋』 という映画もありました。

芛(たかんな)の 皮の流るる 薄暑かな (芥川龍之介)
麦秋の 人々の中に 日落つる (吉岡禅寺洞)

そうそう、忘れてはならないのが 「母の日」 です。
ところが母の日を題材にした句は、意外にも哀しいものが多くなっています。

母の日や 塩壺に「しほ」と 亡母(はは)の文字 (川本けいし)
母の日の 主婦の結核 みな重く (山本蒼洋)

その理由もわかるので、心が少し痛んだりしています。
大阪で独り暮らしをしている母親に、電話のひとつもかけてやらないといけません。


青葉並木 少年の日の 香(か)に萌ゆる
母の日や 小さく咲ける 霞草(かすみそう)

http://www.youtube.com/watch?v=GVZAK-9oIwI



五月晴れ? [日々雑感]

下りE233高尾行き:撮影;織田哲也.jpg

今年のゴールデンウィークは2日までにいろいろな仕事をやり終えて、久しぶりに3~5日の3連休が楽しめました。こんな年はなかなか巡ってこないので嬉しいかぎりです。
いざ、デジタル・デトックスの実践と洒落込みました。
ケータイは電話とメールの用がない限り触れもしない習慣ですから、普段通り持っていても平気。
デジタルカメラは趣味の一環なので、もともとストレスなど感じません。
私の中毒症状は、やはり過度のPC操作に集中しています。
仕事がらみでさまざまなデータや文献を検索しながら、関連のサイトを巡っているうちに脱線、いろんなサイトに無制限に枝分かれしていくのが私の悪い癖です。
そのうち雑学から趣味サイトに立ち寄り、おふざけページを巡って、ときどき激烈Hなところに足を延ばしていると、気がつけば食事を摂るのも忘れて一日が終わりかけていたりします。
そこで2日夜から6日朝まで、メイン機とサブ機には一切電源を入れず、モバイル用のを使って最低限度の連絡とデータ更新のみにとどめることに決めました。
結果は上々、いまアタマの中は、風薫る五月晴れのようにスッキリしています。

ところでかなり前の話、ちょうどゴールデンウィークの頃にTVのニュースを見ていると、アナウンサーが 「今日は 『ごがつばれ』 の一日でした」 と伝えていました。
デビューしたての若いアナウンサーなら読み間違いだと思うところですが、ベテランのアナが確信的に 「ごがつばれ」 と読んだので、「お、こいつ、やるなあ!」 と一人快哉を叫んだものでした。

「五月晴れ」 を 「さつきばれ」 と読むと、これは旧暦五月の季語になってしまいます。
旧暦五月は新暦の六月とほぼ重なります。
つまり 「さつきばれ」 のもともとの意味は、五月の爽やかな晴れの日を指すわけではなく、梅雨の長雨の合間にときどき現れる晴れ日のことを指しているのです。
ベテラン・アナはこのことを分かっているからこそ、「さつきばれ」 と読まずに、あえて 「ごがつばれ」 と読んだわけなのです。
あとから的外れのクレームが局にたくさん寄せられるのを予想しながら、こうしたこだわりを見せたのは、見上げたプロ根性と言えるでしょう。

同じことは 「五月雨(さみだれ)」 にも言えます。
松尾芭蕉 『奥の細道』 に 「五月雨をあつめてはやし最上川」 という句がありますが、最上川は日本でも有数の大きな河川です。
その大きな河川が、五月に少々降ったところで、急に流れが速くなるはずもありません。
「五月雨」 もまた、新暦で六月ごろの雨を指しています。梅雨の長雨を集めるからこそ、轟々と濁流渦巻く最上川に変身するというわけです。

今日の東京は天気は良いのですが、風が強く、気温も低めです。
毎年この時期に日焼けししまうのですが、今年はそんな雰囲気がまだありません。
早く 「ごがつばれ」 の下をロードバイクで疾走してみるか、あるいは下町の風に吹かれて隅田川沿いを散歩でもしたいものです。

http://www.youtube.com/watch?v=flIzZgrUZp8

色いろいろ⑥ ― 黒 [諸々の特集]

京王9000系・多摩境:撮影;織田哲也.jpg

1980年代初頭のモードはモノトーンが中心でした。
コム・デ・ギャルソンに代表される黒を基調としたファッションが流行し、「カラス族」 と呼ばれる若者が原宿や青山の街を闊歩していました。
そんな頃、同窓会のために大阪に帰ったとき、黒ずくめのいでたちで出席すると 「誰かの葬式か?」 と言われて、ずいぶんがっかりしたことがあります。

「黒」 は彩度・明度とも最も低い色で、「白」 の補色となっています。
自己主張が強く、実際よりも重厚感を引き立たせるので、威厳や高級感を醸し出す色です。
反面、弱さを隠して強く見せる場合にも使われ、虚構のイメージもなくはありません。
暗闇や絶望、悪、死、恐怖、孤独、沈黙といったマイナーな感情の象徴になりやすく、その意味でも白の対抗色と言えるでしょう。

ジェラール・ド・ネルヴァルの 『オーレリア、あるいは夢と現実』 を読んだのは高校3年の2学期、たしか中間テストの直前だったと思います。
この頃の私は半ば浪人生活を覚悟していて、テストの直前になると無性に余計な本を読みたくなる病に侵されておりました。
ネルヴァルの作品は 「幻想文学」 というジャンルに括(くく)られ、夢と現実との境界を行ったり来たりする作風です。
オーレリアという女性に叶わぬ恋をした男は、彼女が死ぬことで自分のものになると考えます。
現実に彼女を殺すのではなく、主人公は夢想の中で 「彼女は死んだ」 と思い込むという手段に訴えます。
しかしそこには満足感などなく、残された自分がこのあと長い時間を孤独に生き続けなければならないことに気づきます。
それもまた夢想でしかないのですが、夢想が現実を凌駕(りょうが)し、「いまや死なねばならないのは私だった。望みもなく死ぬのは私なのだ」 との言葉を残して主人公はこの世を去る、というストーリーです。
現実の作者も神秘主義から錬金術への傾倒をたどり、精神の平衡を欠いて、薄汚れたパリの片隅で首を吊って生涯を閉じています。

このネルヴァルの 『幻想詩集』 という作品に、「黒い太陽」 というモチーフがあります。
夢想の世界を 「第二の生」 と考える作者にとって、「黒い太陽」 は 「死と再生」 の象徴とされています。
高校生の頃の私には、それが 「死」 の象徴であることは理解できても、なぜ 「再生」 の象徴となり得るのか納得がいきませんでした。
せいぜい 「死こそが第二の生である」 と考える (なんと仏教的な!) ことによって、そこに 「再生」 の意味があるのだと思いつくのがやっとでした。

いま 「黒い太陽」 と聞くと、多少は違った発想ができるでしょう。
仮に、現実に天空に輝くお日様を 「白い太陽」 と呼ぶことにすると、この 「白い太陽」 の生み出すものは何といっても 「光」 です。
この世のすべてのものは 「白い太陽」 の光を受けて可視化されます。また光あるところには熱が発生し、生命も育ちます。
ところが地球上で考えるとわかりにくいのですが、例えば月では、太陽光のあたる地表温度は110℃ですが、これが月食時に地球の影が投影されるとマイナス110℃まで一気に下がると言われています。
そこは暗黒であり、死の世界と言えるでしょう。
何のことはない、「白い太陽」 はその光ゆえに、影を生み出す根源とも言えるわけです。

この影、暗黒の部分に光をあてるのが 「黒い太陽」 なのではないか。
影の部分に描かれた普段は可視化されていない文字や図柄を、ちょうどブラックライトを照射された蛍光体のように浮かび上がらせるのが、「黒い太陽」 の 「黒い光」 なのではないか。
そう考えると、「黒い太陽」 が 「再生」 の象徴であることも納得がいくのです。
闇に隠れて生きるのは何も妖怪や魔王だけではなく、現実に生きる人の心の一部、それもけっこう重要な部分がそこに息づいていると思えるからです。

このような発想を持ってしまうのも、今まで生きてきたなかで、自分の心の暗黒部分にたくさんの文字や図柄を描いてしまったからに他なりません。
醜い大人には 「白い太陽」 だけではなく、「黒い太陽」 が必要なのです。

そして 「黒」 は決して 「白」 の対抗色などではなく、「黒」 と 「白」 は永遠に向かい合わない運命を背負った一卵性双生児のようなものかもしれません。

http://www.youtube.com/watch?v=FKJPmOh74Xg

色いろいろ⑤ ― 緑 [諸々の特集]

八王子みなみ野:撮影;織田哲也.jpg

通っていた幼稚園での話。
教室の天井に万国旗が吊るされ、「好きな旗の絵を描きましょう」 という課題が出たとき、私は迷わずブラジルの国旗を選びました。
選んだ理由は、何よりもその色が綺麗に見えたからです。
緑のクレヨンがどんどん減っていくのを、今でも鮮明に思い出すことができます。
でもこれ、半世紀以上も昔のことなのですねえ…。

目が疲れたときは緑を見ると良い、とよく言われます。
視神経にとってどういった効果があるのか私は知りませんが、散歩などして自然の緑を見ると心身がリラックスするのは事実です。
緑は 「生命力」 の象徴であると同時に、「平和」 や 「慰安」 の色でもあります。「落ち着き」 を感じさせてくれる点で、緑の右に出る色はないでしょう。
ビリヤード台や麻雀卓が緑なのは、冷静に勝負ができるためと指摘する説もありますが、どうも眉唾くさい気がします。
また、「未熟さ」 も表し、英語で a green boy は 「青二才」 という意味です。
a green eye は 「嫉妬のまなざし」 を表しますが、これは瞳の色がダークブラウンの日本人には理解しにくい感覚かもしれません。私たちが 「嫉妬のまなざし」 をイメージするのは dark red や black に近いものでしょう。

「みどり」 はもちろん 「緑」 なのですが、ほかに 「翠」 「碧」 も 「みどり」 を表します。
翠は 「翡翠(ひすい)」 、碧は 「碧玉(へきぎょく)」 に使われる字で、これらはどちらも宝石の種類です。
鉱物として 「みどり」 を見ると、植物の 「緑」 とは異なり、あまり生命力を感じさせてはくれません。むしろ死をイメージさせるほうに近い色具合です。
このことと関係あるのでしょうが、映画に出てくる毒物が緑色の液体だったり、ホラーの化け物が緑色の血を流していたりすることもあります。

尾崎翠(おさき・みどり)という小説家をご存知でしょうか。
大正後期から昭和初期にかけて作品を発表した女性作家で、活躍した期間は短かったのですが、印象深い作品を残しています。
代表作 『第七官界彷徨』 は、主人公の若い女性が女中部屋に住んで家事を手伝いながら、その家の家族と交流するという筋立てです。
ところがこの家庭、とにかく奇妙な家族の奇妙な行動に溢れ返っています。
不思議な気分にまみれた主人公はその思いを、人間の第六感を超越した 「第七官界」 で詩を書き続ける、という行為に昇華させていきます。
主人公のこの行動を作者の言葉で表現するなら、「二つ以上の感覚がかさなつてよびおこす哀感」 によるものということになります。

尾崎翠は、文学少女がそのまま作家になった、稀有な例であると思います。
「ブンガクショウジョ・ミドリ」 の世界には、「生命力」 も 「慰安」 もある一方で、「未熟さ」 も 「死」 のイメージも同居しています。
そればかりか 「毒」 の要素も色濃く漂っています。
「みどり」 に代表される要素が混沌とする中に、「ブンガクショウジョ」 という奇妙な生き物特有の、どろどろしたエロスが芳香を放つ。
そう考えると頭がクラクラして、私自身が 「第七官界」 に逃げ込んでしまいたい気分になってきます。

そしてもう一度読み返したい本が、また一冊増えてしまったのです。

http://www.youtube.com/watch?v=2z2CmrVsc2E

色いろいろ④ ― 黄 [諸々の特集]

ホリデー快速・河口湖:撮影;織田哲也.jpg

太陽を描くと、日本人ではほとんどの場合赤く塗るケースが多いのですが、世界の多くの国々では黄色く塗るのが一般的だそうです。
聖徳太子が定めた冠位十二階では、黄は赤よりも下に位置付けられています。
「冠位」 という概念の発祥である中国では、黄は皇帝の象徴として最も貴い扱いを受けます。これは五行思想で、黄色が中心・中央を表すことに由来するとか。
現代では、暖色系で最も明るい黄色は 「明朗」 や 「活力」 といった印象はもとより、「知性・好奇心」 の象徴ともされています。
「目新しさ」 や 「独自性」 を想起させることも多いようです。

あまり悪いイメージのない色ですが、目立ちすぎることが災いして 「警戒」 を与えることもあります。ただしこの色効果は、注意を促す信号や標識、子供のレインコートなどに有効利用されています。
自然界でも、ハチの腹部やヘビの胴に黄色と黒の縞があるのは、「警戒」 を相手に与えながら身を守る保護色となるわけです。

ディスプレイや広告制作の担当者に言わせると、
「黄色の商品はあまり売れないが、必ず見せなければならない色」
という話です。
黄色をバックに他の色の商品を配置する、あるいは黄色の商品を中心に他の色のものを周りに展示する、そうすることで見栄えがぐっと良くなるのだそうです。
その発想からすると、黄は 「存在感のある脇役」 としての機能に優れていることになります。
主人公をたてる脇役なだけに、でしゃばり過ぎてはいけない、扱い方は慎重にといったところでしょう。

黄色の存在感ということで言えば、真っ先に思い出されるのは、1970年に公開されたイタリア映画 『ひまわり』 です。
あたり一面のひまわり畑を映したシーンはこの映画の中に何度も登場し、美しさのみならず、戦争によって引き裂かれた男と女の哀しみを見事に描き出していました。

話は少しそれますが、少し前に 『少年少女世界文学全集』 を記事にしたとき(3月28日)、いま私の手元にある 『クオレ』 をもう一度読んでみたい、と書きました。
子供の頃の私は、本といえば図鑑や空想科学ものに没頭していて、物語などほとんど興味がありませんでした。
それなのになぜ 『クオレ』 だけに興味を持ったかと言えば、それはこの小説の構造によるところが大きいのです。
基本のストーリーは、イタリアの小学校に通う主人公と友人たちの日常を描いたものです。
それ自体も面白いのですが、月に一度、担任の先生がクラスで「お話」 をしてくれるというのがポイントです。
その 「お話」 のひとつが 『母をたずねて三千里』 であったり、あるいはまた 『難破船』 であったりするわけです。
こうした 「劇中劇」 構造がこの物語最大の魅力で、文学好きではなかった私の心さえも、一気にその世界へ引っ張っていってくれたのです。
その当時、あれほどたくさん持って熱中していた図鑑も空想科学ものも漫画も、今は手元にまったく残っていません。
そのくせ 『クオレ』 だけはいまだに本棚の隅にあるのです。我ながら不思議に思えてなりません。

映画 『ひまわり』 を見る機会はここ何年もありませんが、もし今 『クオレ』 を読み返すと、地平線まで続くひまわり畑のシーンが、あの黄色で一面覆われたシーンが目の前に蘇ってくる ― そんな予感がしているのはなぜでしょうか。

http://www.youtube.com/watch?v=2O6-LLRdwmQ
マルチェロ・マストロヤンニはすでに鬼籍の人です。
ソフィア・ローレンには長生きしてほしい。

色いろいろ③ ― 青 [諸々の特集]

115系・八王子駅:撮影;織田哲也.jpg

文化の流れは川の流れに例えられます。
シルクロードの東の最下流、河口の部分に日本という国があり、あらゆる古代文化が堆積物となってそこに錨をおろしています。
正倉院の宝物 『紺瑠璃杯(こんるりのつき)』 は、ササン朝ペルシアのガラス造形を施したワイングラス様の杯で、コバルトブルーの意匠が鮮やかな一品です。
歴史の教科書でご覧になった方も多いでしょう。
私に 「美しい」 という言葉の意味を初めて感じさせてくれた工芸品が、この 『紺瑠璃杯』 であり、興味の外にあった美術というものに目を向けるきっかけを作ってくれたのでした。

「青」 は空の色、海の色、そして平和の色であり、「知性・冷静・堅実」 などの象徴です。
同時に、blue には 「気の滅入った、憂鬱な、悲観的な、血の気のひいた」 という意味もあり、音楽で言えばブルースの語源となっています。
そのために、精神を開放させたり落ち着かせたりする 「青」 がある一方で、人を不安に陥れる 「青」 もあるといった、両極の効果を併せ持つ 「神秘の色」 となるわけです。
青色が五感に働きかける作用も極端で、分かりやすい例を挙げれば、澄み切った空や海などの青い風景は見たくても、青い食べ物が目の前に出されたら食欲はさっぱり湧かないでしょう。

古代ローマの博物学者プリニウスは、鉱石ラピスラズリを 「星のきらめく天空の破片」 と表現しました。
青い色は、現実世界の存在というより、高い精神性を持った存在にこそ似合う色と言うべきであるかもしれません。

パブロ・ピカソに 『青の時代』 があったのはよく知られています。
ピカソが20代前半の頃で、青色系の絵の具をこれでもかと使った沈痛な作風が目を引きます。
(ぜひ 「ピカソ/青の時代」 で検索してみてください)
初めて美術館でこの頃の作品の前に立った時、私は何度も前のめりによろついてしまいました。
ピカソの代名詞とも言えるキュビズムが 「びっくり箱」 的な世界であるなら、青の時代は 「パンドラの箱」 的な世界と言えるでしょう。
この時代の作品の前では、あるとあらゆる絶望とほんのわずかに残された希望との深淵を、不意に覗き込まされるような錯覚に襲われてしまいます。

ピカソの 『青の時代』 はまさに、計り知れない天賦の才が、体の中で熱くどろどろとかきまわされている状態なのでしょう。
のちに花開くべき狂気の 「蛹(さなぎ)」 と対峙しているような、あまりにも不安定な精神に、この 『青の時代』 の作品は私を引きずり込んでいってしまうのです。

本来は精神を鎮静化させる作用があるはずの 「青」 なのに、どうして私はこの色にこんなにも不安と動悸を感じてしまうのか。
『紺瑠璃杯』 と 『青の時代』 のピカソは、私にとって大きなトラウマとなっています。
性根の腐った女に急所を掴まれた男のように、それらには恨みと憎しみと底知れない愛を、どこまでも引き摺って行かなければならない運命のような気がして、それこそ blue な気分に襲われてしまうのです。
まあ、顔つきは案外、そう深刻でないのかも知れないですけれど。

http://www.youtube.com/watch?v=JSuNImVHWlY
たまにはこんなブルースも…



色いろいろ② ― 白 [諸々の特集]

ロクヨン立川:撮影;織田哲也.jpg

イメージとしての 「対抗色」 は、色相理論上の 「補色」 とは必ずしも一致しません。
補色関係からすると、たとえば私たちが一般的に思い浮かべる 「赤」 の補色は 「青緑」 であり、「青」 のそれは 「橙」 ということになります。
けれどもイメージの面からいえば、「赤の対抗色は何色?」 という質問に、私たち日本人は 「白」 と答えることが多いです。
これは日の丸や運動会の組分けなど、「紅白」 の伝統があるからと考えられます。
同じ質問を西洋人にすると、「赤の対抗色は黒」 という答えが多いそうです。
また 「赤の対抗色は白」 と答えた日本人に、「では白の対抗色は?」 と尋ねると、これが 「赤」 でなく 「黒」 と答える人が多かったりします。
つくづく色彩の放つイメージは、言語感覚のそれと同じくらい面白いものです。

私の高校の制服は、夏は白シャツと決められていましたが、冬は上着の下にブルーやピンクのシャツを着ていても問題ありませんでした。
それでも下着は白が圧倒的主流の時代でした。
女子生徒のぱんちーが白なら、オシャレな男子は精悍なBVDの白ブリーフと相場が決まっていました。
かのゴルゴ13など今でもその習慣です。年に1回くらいの割合で、白ブリーフ一丁でマグナムを構えているゴルゴにお目にかかります。冗談みたいなシーンですが、ここまでくるといっそ潔いと感服せざるを得ません。

白が 「善」 や 「純潔」 の象徴とされるのは、洋の東西を問わず共通した感覚のようです。
神や天使と呼ばれる者は白衣をまとっていますし、ウエディングドレスも白無垢も結婚式の定番です。医者が白衣を着ることも第一に 「清潔」 の象徴です。
また下着やシャツに白が使われるのは、それが死装束の一種であるから、という説もあります。これは武士道との関係の深い話で、いつ闘って討ち死にしてもよい覚悟を定めたものという意味に通じます。

概ね良いイメージの白ですが、果たして本当にそうなのか、私はたいへん疑問に思っています。
というのも、白は 「覆い隠す」 ことを最も得意としている色ではないかと考えるからです。

大雪が降り積もった街は、たとえ普段そこが汚れた場所であっても、積雪のおかげでそのときだけは綺麗に見えたりします。
しかし雪解け後にどれほどがっかりする風景かを考えたら、手放しで喜べない効果です。
「美白」 などと言いながら、結局は白い化粧品を塗りたくるだけのことだってあります。
純白のウエディングドレスの下に、どれほど醜い心が隠されていようとも、清楚で可憐な花嫁を演出することができるわけです。
ビジネスの現場でも、クリーニング返りのホワイトシャツに身を包んだビジネスマン同士が、ドロドロして血なまぐさい思惑を秘めながら笑顔で交渉しているシーンなど、どこにでもころがっています。
そういう意味では、「白」 はたいへん罪深い存在の色です。
覆い隠す術にかけては、「大悪党」 の部類であると言っても過言ではないでしょう。

「善」 や 「純潔」 と「大悪党」 の二面性を持つ白。
長い歴史の中に脈々と生き続ける理由がわかるような気がします。
おそらくこのあと 「黒」 の項で、再度 「白」 にはご登場いただくことになろうかと思います。

http://www.youtube.com/watch?v=zF07JLgHa_M

色いろいろ① ― 赤 [諸々の特集]

石和温泉:撮影;織田哲也.jpg

私が大人用26インチの自転車を手に入れたのは、小学校の4年生か5年生のときでした。
それまでは子供用のを、サドルの位置を目いっぱい上げて乗っていましたが、さすがにそれも危険だということで買ってくれたのです。
その自転車は、フレームが真っ赤のやつでした。
今ではそんなことも珍しくないのでしょうが、私が小学生の頃は、まだまだ赤色は女の子の色というイメージが強くて、男子の持ち物としては考えられないという風潮が主流でした。
だからその自転車に乗ることには躊躇した…、というわけでは全然なく、反対に目にも鮮やかなその赤色がとても美しく感じられ、一目で気に入ってしまったのです。
たしかに 「女色の自転車に乗っとるわ」 とからかう連中もいましたが、気にしぃの私にしては珍しく、お構いなしに嬉々として乗り回していました。

高校生になって少々色気づいてくると、男性向け雑誌のファッション記事にも目が行くようになります。
『平凡パンチ』 だか 『プレイボーイ』 だかのグラビアで、真紅のスリーピースのスーツを着たモデルの写真が載っていて、これは今でも強烈に記憶に残っています。
髪はパーマをかけた長髪、トンボメガネをかけ、スーツの生地はベルベットで、パンツは裾幅が30センチを越えようかというパンタロンになっていました。
アルフィーの高見沢さんがそんなスーツを着ているのを思い浮かべていただければ、どれほど強烈かお分かりいただけると思います。
さすがにそんな服に身を包めるわけもありません。その当時の私の蛮勇は、せいぜい真っ赤なTシャツを着る程度のものでした。

色については、今は本当に自由になったものです。
男性が真っ赤なセーターを着ていても 「おかしい」 という声はなく、女性がカラスの濡れ羽色みたいなスーツを着ていても 「かっこいい」 という声のほうが多いでしょう。
かつては服装だけでなくちょっとした持ち物にさえ、男物と女物の色は明確に区別されていました。
そう考えれば、『坊っちゃん』 に出てくる赤シャツ教頭などはたいしたもので、イヤミと受け取られようが自分の趣味を通すあたりは、さすが明治の名士と評価すべきです。
私も赤のジャケットを、今は平然と着ています。赤いボクサーブリーフだって、7日に一度は穿くローテーションです。
もっともあと数年たつと、赤いちゃんちゃんこです。あんまり着たくはありませんけれど。

赤は炎や血液の色として、危険を表す色と認識されることが多いです。
「赤点」 とか 「赤字」 などの語は、いいイメージではありません。闘争や憎しみといった、尋常でない感情を象徴することもあります。
けれども、人がオギャアと生まれて、最初に識別できる色は 「赤」 だと言われています。
赤は人間の生理的・心理的な側面に、ストレートに働きかける作用を持った色です。
実際、人が赤い色を見ると興奮作用を起こす神経が刺激され、血圧や体温が上がり、気分を高揚させる働きがあるようです。

赤には、高貴な赤と下品な赤があるのも事実です。
黒だと、上品だ下品だといった話はあまり聞きませんが、赤にはそれが明確に存在します。目に映える色だけに、評価の境目が問題とされることも多いでしょう。
そういった微妙な危うさが、また赤の魅力であったりもするわけです。

私がいま使っているモバイル用のPCは、真っ赤なボディーをしています。今日はメインの黒のデスクトップでなく、その小さくて赤いPCからアップしています。
お気に入りの赤がいつも身近にあるというのは、なんとなく気分のいいものです。

http://www.youtube.com/watch?v=p-TlsbhTBIM

廃語の風景⑲ ― 動くプラモ [廃語の風景]

横浜線・相原付近:撮影;織田哲也.jpg

「動くプラモ」 の対義語は 「動かないプラモ」 ということになります。
最近のプラモデルはスケールモデルと呼ばれる 「動かないプラモ」 が主流で、モータライズドモデル (動くやつ) はめっきり少数派になってしまっています。
戦車や自動車のプラモデルをマブチ・モーターで動かしてばかりいた私の子供の頃とは、様相が180度変わりました。
いつ、この逆転劇が起こったのか、私は知りません。

最後にプラモデルを自分で買ってきて作ったのは、1985年でした。
あまり先のことを考えずに出版社を退職して、仕事も少なかったので、暇つぶしにやってみたのです。
作ったのはトヨタのランドクルーザーと陸上自衛隊・74式戦車で、どちらも当然のようにモーターで動かすやつでした。
この頃はまだ、模型屋さんで売られている多くの商品が 「動くプラモ」 でした。

私の感覚ではたとえプラモでも、車は速くてスマートなものだし、戦車はキャタピラを軋ませてゆっくり走るものだし、船はスクリューを旋回させて水面を行くものです。
そんなに高くないプラモでも、駆動部分を組み立て、調整したりアブラをさしたりながら、メカを動かす楽しみを与えてくれたものです。
今、動くプラモといったらミニ4駆か、ぐっと値の張るラジコン系になってしまいます。
あとはみんな、綺麗に仕上げて飾っておくだけのものばかり。私からすると魅力は半分以下なのです。

リアリティの感じ方が、今と昔とではまるっきり違っているのかもしれません。
車を例にとると、実際の車は走るものだからプラモも走ってこそリアリティがある、というのが私の子供の頃の感覚でした。
今、スケールモデルに興味を持つ人は、実際の車のスタイルをいかに忠実に再現するかという観点で、リアリティを捉えているようです。
再現の精度という点では、今のプラモデルは昔日のものとは比較にならないくらい進化しています。
TVゲームなどのバーチャルな世界に子供の頃から慣れ親しんでいると、その反動で、よりリアルな再現性を追求したくなるためでしょうか。

小学生のとき、作ったゼロ戦に無理やり小型のモーターを取り付け、本来回転しないはずのプロペラを高速で回してみたことがありました。
それだけでは満足できなくて、今度はプロペラを裏返しにモーターの軸に取り付け、自分のほうに風がくるようにして悦に入っていました。
さすがのゼロ戦も、「扇風機」 に改造されようとは思っていなかったはずです。
そんなことをするとスケールモデルとしての価値は台無しですが、本人は 「オリジナルの工夫を加えた」 ことで得意になっていました。

私の暴挙はまだまだ続き、この 「扇風機」 の風力をさらに上げようと、電池を何本も直列につないだものです。
モーターが焼け切れることは最初から分かっていました。
分かっていながらそれをやってみたい、という衝動に勝てなかったのは、モーターが焼け切れるというリアリティを実感したかったからだと思います。
結果は予測通りでした。焦げたエナメル線の匂いがあたりに漂い、哀れなモーターは二度と動くことはありません。
夏休みの最後の夜に線香花火が消えてしまったときのような寂しさに襲われながらも、「何かを壊すことは次に何かを作るためのステップだ」 ということを、もしかしたら少年だった私は、本能的に感じていたのかもしれません。

http://www.youtube.com/watch?v=8r19N9PSsAo
子供の頃の私は、何に 「正直」 だったのだろうか…

「が…。」 のユーウツ [日々雑感]

大塚・帝京大学付近:撮影;織田哲也.jpg

昨日から今日にかけて冬のような気温で、エアコンのお世話になっています。
おまけに冷たい雨が路面を覆い、底冷え感がひとしおです。
街行く人たちも、ダウンジャケットを羽織っている姿が珍しくありません。

東京に出てきたのは1980年ですが、4月の8日ごろに結構な雪が降ったのを記憶しています。
出勤のため中野駅のホームに立っていると、すぐ近くにそびえるサンプラザが雪のせいでまったく見えなくなっていて、エライ北国に来たものだという気分になりました。
京阪神地区でも春の雪は降りますが、4月の東京でそれほどの雪というのは予測していなかったのです。

東京と大阪では大気の色が違う、という研究レポートを読んだことがあります。
明確な出典を示せなくて申し訳ないのですが、その研究によると東京の大気はブルーがかっているのに対し、大阪の大気はオレンジがかっているということです。
そのために東京の大気の中では黒や紺のスーツがクールに見え、大阪では原色の派手な服が映える、らしいのです。
真面目な研究なのかトンデモ研究なのか、私には判断がつきません。
この時期は黄砂が飛び、大気は黄色っぽく見えたりします。いま降っている雨はそれを洗い流してくれるので、ありがたいことではあります。

雨の日は嫌いではありません。
Rainy Days and Mondays always get me down. という歌詞もありますが、Mondays はともかく Rainy Days はそれなりに楽しみがあります。
大気中の汚れを洗い流してくれることはそのひとつです。夜になると、街の明かりがすっきり冴えて見えます。
私も含めて、花粉症の人は症状が緩和されてほっとするでしょう。
またまわりの空気が潤うことで、精神が落ち着く効果もあります。
心までしっぽり春の雨に濡れ、優しい気持ちになれるのです。

こんな日曜日は日がな一日、音楽を流しながら好きな本でも読んでいられればよいのですが…。

http://www.youtube.com/watch?v=nDhM8-ubTVg
名曲です。

武蔵野の香 [日々雑感]

E233夕景:撮影;織田哲也.jpg

4月16日は康成忌なのだそうです。
『伊豆の踊子』 や 『雪国』 を遺した川端康成氏が1972年のこの日、伊豆アリーナの仕事場マンションで、ガス管を咥えて自ら生命を絶ったことにちなんでいます。
三島由紀夫氏の割腹自殺が引き金となったとか、老いへの過剰な恐怖で追い詰められていたとかさまざまな憶測が飛んでいますが、私は正直あまり興味がありません。
それよりも私にとっては、この日がフォーク歌手・高田渡氏のご命日であることのほうが印象的です。

コンサート会場ではなく、氏がこよなく愛した吉祥寺の 『いせや』 で、一度だけ姿を見かけたことがあります。
井之頭公園の入り口にあるほうの店ではなく、たまたま仕事仲間に連れて行かれた本店のほうでした。
「おい、見てみろよ、高田渡だ。まだ歌ってるのかなあ」
促されて振り返った先にいた氏と、一瞬目が合いました。
顔見知りでもないのに思わず会釈をしてしまった覚えがあります。氏もとまどいながら軽く頷かれたような気がしましたが、思い過ごしかもしれません。

今でも私は 『いせや』 に行くたび、高田渡氏の曲が何曲か頭の中に流れます。
ミュージシャンとしての活動はもちろん知っていましたし、ギター片手に弾き語ることのできる曲もひとつふたつありますが、特に熱心なファンであったわけではありません。
それでも 『いせや』 で呑んでいると、お店と一度だけ見かけた氏の雰囲気とが、自然にオーバーラップしてしまいます。
ほろ酔い加減であやふやな歌を口ずさみながら、井之頭公園内をぶら歩いて、氏の足跡を追いかける気分に浸ったこともありましたっけ。

気がつくと氏の享年をすでに越えて、生きながらえています。今も、今夜も。

http://www.youtube.com/watch?v=GBrsz1417H8
以前 『生活の柄』 をアップしたことがあります。今回は 『夕暮れ』。

廃語の風景⑱ ― そろばん教室 [廃語の風景]

武蔵野線205系:撮影;織田哲也.jpg

「そろばん教室」 じたいは現在でも全国にありますが、私が小学生ころの教室数とは比べ物にならないくらい数が限られています。
そこに通う動機は、今は競技珠算を除いては脳トレが大半です。
5と10の合成分解を繰り返すそろばんを早くからトレーニングしていると、「暗算が速くなり算数の成績がアップする」 と広告を打つ教室が結構あります。
けれども、かつての親が子弟にそろばんを習わせたのは、将来社会生活を営むうえで必要な技能を子供のうちから身につけさせるといった、実利性の高い目的がありました。

小学校のクラスでは、半分近くの同級生が近所のそろばん教室に通っていたと記憶しています。とくに女子はほとんどの子が、いちどは通った経験があると思われます。
私も2年生のとき親に勧められたのですが、嫌がって書道教室のほうを選びました。好きだった N.F. ちゃんもそろばんを習いに行っていましたが、それとこれとは話が別です。
そろばんの何が嫌で習字の何が良かった、などという積極的な動機はありません。強いてあげれば、そろばん教室はすぐ近所なのに対して、書道教室のほうは路面電車で3つ目の停留所のところにあったからです。
小学2年生にとっては、それだけでもちょっとした冒険になるからです。

「そろばんができないと仕事にならない」 ― これは当時ごく当たり前の感覚であって、とくに商売が発達した大阪ではその意識は強かったでしょう。
船場(せんば)の丼池(どぶいけ)商店街で、そろばん片手に値段交渉をしている商売人たちの姿は、中学・高校の頃でもよく見かけられました。
パチパチッと計算して、ササッと金額提示、絵に描いたような商人の風景でモタモタしていたら、たちどころに 「こいつアカンで」 という答えがはじき出されたに違いありません。
反応が速くないと、そろばんをガチャガチャと振られてご破算です。そんな風潮だったから、猫も杓子もそろばん教室という雰囲気が小学生にまで影響していました。

時代は高度経済成長期に向かっていて、庶民にとっても子供にお金をかけられる余裕が出てきていました。
そろばんや習字はいちばん安い月謝でした。その上が学習塾やオルガン教室で、もっと上にピアノとかバイオリンがありました。
いくつかを掛け持ちする同級生もいて、怠惰な私などは半ばあきれて見ていました。

図鑑や空想科学の読み物に耽っていた私は、「今に電子計算機が使えるようになるから、そろばんなんか使わなくなる」 と信じていました。
だから4年生か5年生の算数で、「しゅ算」 の単元があったのにはウンザリしました。
2桁の数字を3つ足す、といった程度の計算でさえ圧倒的な差をつけられ、あそこまでこてんぱんにビリをひいた経験は今だかつてそのときだけです。
科学少年が空想していたように、のちに電子卓上計算機が普及していなかったら、私の屈辱は今も続いていたはずです。
心底、カシオくんやシャープさんに感謝を捧げたいものです。

ただ、思うのですが、子供が実用性のある技能を身につける訓練を経験するいうのは、とても意味のあることでしょう。
その技能に長ずるのももちろんですが、実働する社会に対して目を向けることが子供の時分からできるようになることの意義が大きいと思われます。
そろばん教室に通った小学生たちに 「今やっている訓練は将来に活かせる」 といった目標があったかどうかはわかりませんが、少なくとも大人たちと同じことをしているという意識はあったでしょう。
そろばんをはじきながら商売をしたり、家計簿をつけたりしている親の背を見る視線は、今の子供たちとは違ったものであったと思われます。
そろばんという道具を通して、現実生活の営みを直視する機会が生まれたとしても不思議ではありません。

だとすれば、かつてのそろばん教室に代わる授業が受けられるのは、今はどこなのでしょうか。
それが簡単に思いつかないところに、教育と現実との溝の深さが現れているように思えてなりません。

http://www.youtube.com/watch?v=d9ym5ZbegVw

新たな「家族」 [女王の細脚繁盛記]

巣:撮影;織田哲也.jpg

昨日のブログに、アシナガバチの幼虫がヒメスズメバチに襲われて以来、巣を作りに来てくれないという話をかきました。
今朝、庭に出ていると、2階のベランダの下に向かってアシナガが1匹飛来したのに出くわし、もしやと思って見てみると、ほんの小さな巣作りが始まっていました。
おお、じつに3年ぶりです。
上の画像で、ネジの横にラッパ様のものがぶら下がっていますが、これこそ巣全体を吊り下げるいわば大黒柱の部分なのです。
下は、新しい家族のとれたての画像です。巣の形状や色を見てみなければ特定できませんが、セグロアシナガかキアシナガのどちらかでしょう。

女王様:撮影;織田哲也.jpg

不安定な姿勢で片手撮りしたので手ブレ気味ですが、せっせと働く女王様の姿を見てあげてください。
今はまだ相手も緊張しているでしょうから、もう少したってこちらに馴れて来たら、間近に寄って撮影したいと思います。
これから秋まで、この女王の生命が尽きるまで、不幸な出来事が起こらないよう、思わず合掌してみたのです。
とにかく、ようこそ。おかえりなさい。

http://www.youtube.com/watch?v=7XHabLWa40U

アシナガバチの話 [女王の細脚繁盛記]

高尾行きE233:撮影;織田哲也.jpg

毎年この時期、ベランダの下や植え込みの中にアシナガバチが巣を作るのを見るのが楽しみでした。
ハチというと 「刺す虫」 の代表みたいに思われるかもしれませんが、こちらから刺激しない限りそのようなことはありません。
スズメバチは好戦的ですが、アシナガバチなどいたっておとなしいものです。
ただ間違って巣をつついたり、洗濯物にとまっているのを知らず体に触れたりすると、そりゃあ怒って刺しにきます。アナフィラキーショックを起こすこともあるので、アレルギー体質の人は注意したほうがよいでしょう。
それでもふつうはそういう事態は少なく、この時期は女王バチがわき見も振らず、次世代を育てる巣作りに専念しています。

アシナガバチというのは、「ハチと、その巣の絵を描きなさい」 と言われたら多くの人が思い浮かべて描くような、典型的な姿かたちをしています。
間近で観察してみると、じつに勤勉な昆虫であることがわかります。
寒気が直接あたらない場所に身を寄せて越冬した女王バチは、たった1匹で作業します。手伝ってくれる雄バチは、この時期まだいません。
庭木などを齧っては唾液と混ぜ合わせ、傘を広げたような小さい巣をせっせと作ります。
日が落ちると作りかけの巣の上にとまって体を休め、日が昇るとすぐに目覚めて続きに取りかかるのです。
1週間もすれば、直径2センチほどのドーム型をした最初の巣が完成です。下から見上げるとドームの中には、六角形をした小部屋が5~6個できています。
この中に、よく見ると直径1ミリにも満たない小さなタマゴが1つずつ産み付けられています。
女王バチは昨シーズンのうちに交尾を済ませていて、特殊な器官で精液を保存できるような体の構造になっているのです。

タマゴから孵化した幼虫は、女王バチが運んでくるエサを食べてみるみる大きくなります。
巣の小さな房いっぱいの大きさまで成長すると、房の入り口に蓋がされ、中で幼虫は蛹(さなぎ)になります。
数日たってこの蓋が内側から破られるとき、次世代のオスのアシナガバチが中から、次々と太陽の元へと出てきます。
ここまでの一連の作業を、女王バチは独力のみでこなすわけです。
観察しているほうは我がことのように嬉しいやら、愛くるしいやら。「ブラボー!」 と叫びながら冷蔵庫からビールを出し、朝っぱらから祝宴をあげてしまいます。

第一期生のオスが生まれると作業効率はアップします。
同じ作業を繰り返しながら、続けて第二期生、第三期生が誕生すると一族の数は増え、巣はどんどん大きくなります。
夏になるころには、手の平サイズにまで成長している巣もあります。
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/1891/asinagabachi/asinagabachi2.html
(参考:『我が家の庭はビオトープ』 ありがとうございます。ちなみにこのサイトではセグロアシナガバチを観察されていますが、私の家に来ていたのはフタモンアシナガバチとキイロアシナガバチでした)

ところがここ5年ほど、アシナガバチは一匹も我が家から旅立っていってくれません。
理由ははっきりしています。5年前に作られていた巣が、あのいまいましいヒメスズメバチに襲撃されたからです。
ある朝、観察に出た私の目に飛び込んできたのは、無残にもボロボロにされた巣の外形と、空洞になった房と、足元に落ちている幼虫たちの喰いちぎられた体でした。
女王バチの姿はどこにも見当たりません。
ヒメスズメバチはアシナガバチの天敵で、アシナガバチの幼虫の肉を自分たちの子供のエサに供する生態をしているのです。
それでも次の年、アシナガバチはまた巣作りをしてくれたのですが、そのときも同じようにヒメスズメバチの餌食となってしまいました。それ以来、愛するアシナガバチは近づいてきてくれません。

蜂の巣に 貸しておいたる 柱かな
蜂の巣のぶらり 仁王の手首かな (いずれも小林一茶)

今は、たまにどこかの家に巣くっているアシナガバチがやってきて、ウチの庭で巣の材料集めをしています。
スズメバチの攻撃にさらされないことを祈るのみです。

蜂の子の 母を待ちゐる 小部屋かな

http://www.youtube.com/watch?v=IvC9sbK725M
PM2.5にあらず。PPM。

廃語の風景⑰ ― 半ドン [廃語の風景]

205系兄弟:横浜線0番台・相模線500番台:撮影;織田哲也.jpg

見直しが検討されているとはいえ、現在はほとんどの学校が週5日制を採用しています。
1990年代から第2土曜日が休みとなり、2002年以降は公立小・中・高校の多くで毎週土曜日が休業日となりました。
社会一般には1980年代から週休2日制を採用する企業が増加の一途をたどり、2000年代にはそれが常識となっています。
それ以前は学校でも企業でも、通常のお休みと言えば日曜日と祝祭日のみで、土曜日は 『半ドン』 となっていました。
半ドンという言葉さえ知らない若い世代も増えています。午前中だけ仕事や授業があることで,お昼の12時過ぎには拘束から解放されるというわけです。

半ドンの 「ドン」 とは何か?
夏目漱石の 『坊っちゃん』 には、四国の中学に赴任した主人公が初めて教壇に立ったとき、生徒から大声で 「先生」 と呼ばれ、「腹の減った時に丸の内で午砲(どん)を聞いたような気がする」 という心理描写があります。
「丸の内の午砲」 とは、明治から大正にかけて庶民に正午を知らせるために皇居内で鳴らされた号砲のこと。漱石が 「午砲」 にふりがなを振っているように、東京市民は 「どん」 の名で呼んでいたそうです。
で、私はこの 「どん」 が 「半日」 とくっついて 「半ドン」 になったものとばかり思っていましたが、それはただの俗説でした。
正しくはオランダ語で 「日曜日」 を表す zondag (ドンタック) が由来で、土曜日は半分だけ日曜日というところから 「半ドン」 となったわけです。
この zondag は5月に福岡で開かれる 「博多どんたく」 の語源にもなっています。

私はこの半ドンの土曜日が大好きでした。中・高時代は部活動も、試合の直前でない限り土曜日にはありません。
昼飯もそこそこに、よく旭屋や紀伊国屋など大型書店を訪れて面白そうな本を探し、喫茶店で水ばかりお代りしながら読んですごしました。
また大阪・日本橋の電気屋街に繰り出して、抵抗やコンデンサなどの電子部品を買い漁ったり、アマチュア無線用の通信機に触れたりもしました。
男どもとビリヤードを打ちに行ったり、女子も交えて映画やボウリングに興じたことも度々です。
そうした遊びをせず1時間かけてまっすぐ帰宅した場合でも、TVをつけると吉本新喜劇や松竹道頓堀アワーなどのお笑い番組がやっていて、飽きるということを知らずに残りの半日を過ごしていました。

週休2日制しか知らない世代は、土曜日の前半に仕事や授業があるのは半日を損したような気分かもしれませんが、そういう拘束時間があることによって、あとの半日がより際立って楽しく感じられたのではないでしょうか。
高校を卒業して花の浪人生活に入ると、そうしようと思えば自由に使える時間ばかり増えました。
大学生から社会人へと成長するにつれてすっかり夜の世界に心が囚われ、半ドンの楽しみ方などきれいさっぱり忘れてしまいました。
現在に至ってはフリーです。〆切や打ち合わせが続いたり不安定な心境に陥ったりするなど実際には不自由な境遇ではあっても、自由業者と呼ばれる身分です。
一家離散して路頭に迷う覚悟さえあれば、容易にすべてを捨てる権利が私の手にはあります。まあ、しませんけれど。
そんな状態が幸なのか不幸なのか。
少なくとも、「今日は半ドンでラッキー!」 といった高揚感を感じることはできません。

ときどき思うのですが、土曜日の午前中だけ何かアルバイト、例えばビルの清掃とか店番なんかをやってみたいものです。半ドンの午後をどう過ごそうか、もう一度わくわくできるかもしれませんから。

追伸: 「丸の内の午砲」 に使用された大砲は現在、都立小金井公園にある江戸東京たてもの園に保管されています。いちど見に行ってみようかな。

http://www.youtube.com/watch?v=tOWlVxQHOUc
1980年のリリース。私が社会人になって上京した年です。

丑三つ散歩 [日々雑感]

Viewing Cherry Blossoms:撮影;織田達也.jpg


夜の夜中に、何の目的もなく表をうろつきまわるという悪い癖がありまして、出かけるときは職質されても困らないように身分証明書を持ち歩いています。
睡眠をとる時間が不定期なのに加え、いったん眠りについても3時間で目が覚める体質であることが、そんな習慣に結びついたのでしょう。
別にトイレが近くて起きてしまうわけではなく、3時間で1つの睡眠単位というふうに固定されているのです。
疲れているときは、いったん目覚めて少し動いたり音楽を聴いたりしているうちに、2セット目の睡眠に入るといった次第です。
「体が腐るほど寝た」 などということをのたまう方もいらっしゃいますが、いちどそんな思いを経験してみたいものです。

3.11以来、エネルギー資源の節約ということもあって、いまでは夜の公園に明かりがまったく灯っていないことも多いです。
東京ではソメイヨシノはすべて、ヤマザクラもほとんど散ってしまいましたが、ベニシダレやヤエザクラはいまが満開です。
ひとり深夜の花見と洒落込んでみたりしました。
24時間営業のコンビニが開いていてお酒が買え、こんな時間に往来で飲んでいても暴れない限りお咎めなしの国は類がありません。
眠ったような花の下で日本酒をいただく。俳諧、いや徘徊中年男の密かな楽しみとしては、なかなか乙なものです。たとえそれが安いカップ酒であっても。

丑三(うしみつ)の 墨絵のごとき 八重桜
春の夜更け道 胸うずく探しもの

http://www.youtube.com/watch?v=XRlBbL0rDc8

廃語の風景⑯ ― 戦争ごっこ [廃語の風景]

豊田庫:撮影;織田哲也.jpg

今の子供たちが戦争ごっこに興じているなどという話は、ついぞ聞いたことがありません。
日本は平和を希求する国だから、そんな遊びはしなくてもいい。― そりゃまあ、そうでしょうけれど、別に私だって軍国少年であったわけではなく、戦争はいけないことだという基本理念は幼な心にもちゃんと刻まれていました。
親や祖父母など戦時を生き抜いた人たちがまわりにいたぶん、私たちの世代のほうが体験談を直接聞く機会に恵まれていましたから、「カッコイイでは済まされないことだ」 という思いはむしろ強かっただろうと思います。
それでも、子供たちにとって戦争ごっこは、とても楽しい遊びだったのです。

実は戦争ごっこの95%以上は 「秘密基地の造営」 が目的なのであって、実際に戦闘行為に及ぶ時間はほとんどありませんでした。
その戦闘行為にしても、「敵情視察」 と称して相手方の基地がどうなっているか偵察隊を出したときに、銀玉鉄砲で応酬するか、せいぜい泥玉を爆撃していく程度のことでした。
自分より年長の者が敵方にいて基地造営をリードしているときなど、自ら進んで捕虜になり、ノウハウを少しでも身につけようと 「留学」 したことすらありました。
当時の少年マンガ雑誌には 『ひみつきちを作ろう!』 といった特集がときどき組まれていました。文字通り 『秘密基地の作り方』 といった本さえ発行されていたと記憶します。
基地の造営には知識と経験が必要なもので、腕っぷしではなく戦略に長けた者が大将になります。新しいアイデアを持ち込んだ者はとくに賞賛されるのです。

秘密基地はだいたい、公園の築山で下がトンネルになっているところとか、倉庫の裏側とかに設置されました。
とにかく安全に身を隠せることと、敵の攻撃を跳ね返せるだけの堅固なバリアが第一条件だからです。
そのへんの工場に放置されている段ボール箱をたくさん見つけて持参した者は、いちやく英雄扱いです。
「バールのようなもの」 を調達してきた友人もいて、敵の侵攻を食い止めるための閂(かんぬき)になりました。それを攻撃のための武器として使ったら勝利すること間違いなしなのですが、シャレにならないことはしないお約束なのです。

基地のすぐ近くに砂場などがあると、当然そこは地雷原になります。
何人かが落とし穴の担当となり一生懸命穴掘りをしますが、「ここに地雷があるよ」 と相手にすぐわかってしまうようでは実用の効果はまったくありません。
実際に敵が穴に落ちることなど最初から目論んでいなくて、基地の造営そのものに目的があるわけですから、どれほど完成度の高いトラップを作るか、いわば職人仕事の範疇でした。
だから最後には落とし穴を作った本人が見事に落ちて見せて、自分の腕前を誇るのが常でした。

こうした遊びはもちろん男の子中心ですが、まれに同級生の女子たちも参加したいと申し出てくることがありました。いやという者は誰もいなくて、その日は仲良く共同作戦です。
ある女の子が自宅から、古くなって捨てられたカーテンを持ってきたときは、最高にゴージャスなバリアを張り巡らせることができました。
カーテンに防御された薄暗い基地の中でお菓子など食べていると、戦争ごっこにおままごとがの要素が加わって、なにやらむずがゆい気分になったりもしました。
(せっかくだから 「軍医」 になってお医者さんごっこも取り入れたらよかったという名案は、ずっとあとになって気づいたことでした)

そう、私たちが戦争ごっこに求めたものは、実際の戦争やスポーツのように攻撃して敵に打ち勝つことではなく、「秘密」 の匂いです。
友達と秘密を共有することが楽しかったのであって、戦争ごっこという形をとるのは 「我々ハ追イ詰ツメラレタ状況ニ置カレテイルノダ」 という高揚感を醸(かも)し出す格好の設定だったからです。
秘密の匂いが戦争ごっこには充満していたからこそ、普段あまり仲良くない友達でも、女の子でも、初対面の奴でも、すぐにそれを共有する 「同志」 になれたのではないでしょうか。

『男の隠れ家』 などという記事は、周期的に雑誌に掲載されます。
そんなのを見るたび、「ミンナ今デモ戦争ゴッコノ続キガシタインダナ。秘密基地ヲ造リタクテタマラナインダナ」 と思ってしまいます。
アウトドアでバーベキューをやるといきなり張り切りだすお父さんがいたりしますが、それも同じ手合いでしょう。
男が隠れ家を作りたいのは、そこで悪さをするためでは決してなく、何かと戦っていることに疲れ、身を顰(ひそ)めて生きていたいという願望の小さな発露に他ならないのです。

http://www.youtube.com/watch?v=sylbVjAw-0Y
「誰の胸にもある幼い頃のメモリー So Happy Day」

掛け値なく番宣 [日々雑感]

多摩センター終点:撮影;織田哲也.jpg

仕事柄、世間一般の人々とは違ったタイムテーブルで生活を送ることが当たり前になっています。
以前にも書いたように、だからこそ食事だけは世間並みの時間に3食摂るよう心がけています。健康のためにも。
もっとも7時に朝食というところまではいいのですが、そこに晩酌が伴って、8時には酔っ払っておネンネとなったりもするわけで、あんまり健康に良いとは言えません。
そんな流れでテレビを視る時間帯も、普通の社会人とは違ったものになりがちです。
NHKが夜明け前に放映しているSLの記録映像や環境映像とかは超低視聴率だと思いますが、私にとっては午前8時のニュースよりも親しみがあるわけです。

TVじたいあまり視る機会がないわけですが、そんな私がいま唯一ハマっている番組は、TOKYO-MXテレビで平日の夕方5時からやっている 『5時に夢中』 なのです。
極端な東京ローカルな番組なのですが、この4月から関西の一部にもネットされ始めました。
今はタレントのふかわりょうがMCを務め、毎日違ったレギュラーメンバーがトークを交える内容となっています。
ちなみにレギュラーを列記してみると、次のようなラインアップです。

月曜:若林史江(投資家)、マツコデラックス(お姉タレント)
火曜:北斗晶(元プロレスラー・鬼嫁)、岡本夏生(元レースクイーン)
水曜:中村うさぎ(作家)、美保純(女優)
木曜:中瀬ゆかり(『新潮45』編集長)、岩井志麻子(作家)
金曜:中尾ミエ(歌手)、上杉隆(ジャーナリスト)

トークの内容がとにかくエグいのです。
放送禁止コードすれすれの表現が飛び交い、こんな番組が夕食前の健全なお茶の間に流れていいものだろうかと、メディアの住人としては心配になるほどです。
実際、一時期出演していた漫画家の西原理恵子女傑は調子に乗って、いや違った、確信犯として関東4文字言葉を口にしたことで、さすがに降板させられた経緯さえあります。
表現はエグいものの、交わされる本音トークは知的であり刺激的であり、叙情あり人間味あり、その意味では作為的な感じはまったくありません。
ゲリラ番組もいいとこです。それが最大の魅力という番組です。

こいつは面白いですよ。機会があったら視てください。
柄にもなく、ただファンだからという理由で手放しの宣伝です。
仕事がらみだとこんなことぜぇーーーーーーーったいにしないのですが、一銭にもならなくてもやっちゃうのが私的なブログだからです。まあ、ぜひ。

http://www.youtube.com/watch?v=JgUBhrzAdQo

廃語の風景⑮ ― 液体ドロース [廃語の風景]

京王7000系・堀ノ内:撮影;織田哲也.jpg

小学校3年生になると、体育のメニューにソフトボールが加わりました。
少年野球チームに入っていた友達は大いに張り切っていましたが、当時私は身体が小さくて弱かったため、野球道具のひとつも持っていませんでした。
学校で必要だからということで、父親をスポーツ用品店に誘い出し、グラブとボール、バットを買ってもらいました。
さすがに専用のシューズやユニフォームはねだりませんでしたが、これで一応、戦闘態勢が整ったわけです。
そのとき、スポーツ店のオヤジに勧められて一緒に買ったのが、ガラス瓶に入った保革用の油 『ドロース』 でした。

ドロース自体は現在も販売されていて、グラブの手入れにはポピュラーらしいです。現在はスチール缶に入ったクリーム状のものとなっているようで、私が買った液体状ではありません。
ともあれ、帰宅した私は早速、古い布切れにドロースをたっぷり沁み込ませ、買ってもらったばかりのグラブに塗りつけました。
ドロースは機械油ともガソリンとも違う独特の匂いがして、これが革の匂いと混ざると、いっそう際立った芳香を放ちました。
グラブを顔に押し当てて息を吸い込むと、まだキャッチボールさえしていないのに、なにか自分が野球の名選手になったかのような錯覚を起こさせてくれたものです。

最初のうちはスポーツ店のオヤジに教わったように少量ずつ使っていましたが、そのうち瓶を振ってはドバドバぶっかけて、グイグイと塗り込むようになっていきました。
グラブの革、とくにボールを受ける側の面は、みるみる黄土色からこげ茶色へと変化していきました。
あまり多量に塗るとグラブが重くなるというアドバイスはもらっていましたが、そんなことお構いなしになってしまったのは、ひとえにグラブを柔らかくしたいためと、ドロースの匂いをより強烈なものにしたいためでした。
グラブを外すと、左手にまでその匂いがついてしまいました。それがまた嬉しかったのです。一種のフェティシズムといって過言ではなかったでしょう。

一方で、道具に思い入れたがあったほど、ソフトボールの腕前は上達しません。
それはほかの友達も似たようなもので、普段から野球チームに所属している者の活躍だけが目立っていました。
本当は内野手をしたかったのですが、とうてい力が及ばないので私は外野にまわることが多く、打順はいつも末尾に近いところを占めていました。
ホームベースから遠く離れてポツンと佇(たたず)み、グラブの匂いを嗅いだりしながら、いつかはサードで4番を打ってやるとひとりごちていました。そう、あの長嶋のように。

当時、大阪でも下町のほうには、昼間から何をするともなくぶらぶらしていて、そのくせ子供にだけは愛想のいいおじさんが何人かいました。
親に尋ねると、「あれは遊び人だ」 と言い、「相手にするんじゃない、何かくれようとしても断ること」 と念を押されました。
あとになって知ったのですが、大阪はとりわけしっかり者の女衆が多く、小物屋や美容院や喫茶店などを切り盛りしていることが多々ありました。そんな女房の旦那は案外ぼーっとしていて、たまに店を手伝う以外はぶらぶらと一日過ごしているケースも稀ではなかったのです。
で、私たちが公園で下手なソフトボールに興じていると、そんな遊び人のおじさんがどこからともなく現れて、「俺がコーチしてやろう」 などと話しかけてきたものです。「あとでジュースをおごってやるから」 と。

おじさんたちは決まって、阪神タイガースの野球帽をかぶっていました。
ジュースやお菓子をおごってもらいながら、私たちはタイガースの選手がどれほど優秀で人情に溢れた人物であるかということを、講談さながらにさんざん聞かされました。
その影響力たるや、重大なものです。私自身もあっさり長嶋をやめ、阪神タイガースのファンに鞍替えしていきました。
昭和39年、東京オリンピックのあったこの年、セ・リーグの覇権は見事、阪神タイガースの手に握られたのです。
そのあと昭和60年に日本一となるまで、21年間も優勝から遠のいてしまうなどという未来は、誰にも予測のつかないものでした…。

私が子供の頃の街には、工場の油や鉄錆の匂いとか、ドブの臭気がどことなく漂っていました。
少し市街地を離れると田畑があり、人糞の臭いが鼻をつきました。
煙草やコーヒーの香りは、まだ見知らぬ大人の魅惑の世界を想像させてくれたものです。
考えてみると嗅覚が引き金となっている子供の記憶は、大人になってからのそれよりもずっと現実の重みを感じさせてくれるようです。
ドロースの匂いの向こう側に優れたプレーヤーになる夢を見ていた当時は、もしかすると今よりもその嗅覚の分だけ豊かな時代だったかもしれません。

http://www.youtube.com/watch?v=w6b9FWKZwQg
映画 『バッテリー』 主題歌

4月の季語から [日々雑感]

E257『かいじ』と待機中の115:撮影・織田哲也.jpg

4月は 『卯月(うづき)』 と言い、「卯の花の咲く月」 がその由来です。
「卯の花」 はウツギの花を指し、白く可憐な花を咲かせることから、月光のようとか雪のようとか古くから詠われてきました。

卯の花や 盆に奉捨(ほうしゃ)を のせて出る (夏目漱石)

「奉捨」 は 「報謝」 とも記され、修行中の僧や巡礼の人たちに金銭や米などを施すこと。卯の花の咲く庭先で奉捨をしている光景を詠んだ句です。
4月8日はお釈迦様の誕生日、寺院では 「仏生会(ぶっしょうえ)」 が催され、誕生仏に 「甘茶」 をかけて寿(ことほ)ぎます。「遍路」 もこの月の季語のひとつです。
また、キリスト教においても 「復活祭(イースター)」 のお祝いがあり、それが歳時記にも載っているあたり面白いことです。

「春」 を冠した季語は、「春暁(しゅんぎょう)」 「春の雲」 「春雨」 「春日傘」 「春眠」 など目白押しで、いかにも 「春爛漫(らんまん)」 といった様相です。

もえさしる 草何々ぞ 春の雨 (加賀千代女)
草の家(や)の 柱半ばに 春日かな (芥川龍之介)

「桜前線」 「花吹雪」 「花時」 「花曇り」 「花冷え」 といった、「桜」 に関わる季語の多いのも当然でしょう。
桜以外にも、「梨の花」 「林檎の花」 「杏の花」 「沈丁花」 「二人静」 といった花々が、春の句を彩(いろど)ります。

故郷(ふるさと)の 目に見えてただ 桜散る (正岡子規)
花冷えの ともし灯ひとつ ともりけり (日野草城)

「永き日」 「風光る」 「遠霞(とおがすみ)」 などは、この時期ならではの季語です。
長い閑と書いて 「長閑(のどか)」 という字面には、心惹かれるものがあります。
面白いところでは、「石鹸玉(しゃぼんだま)」。光の丸い球が風に乗って遠くまで飛んでゆくのは、いかにも春らしい遊びの風景と言えそうです。
「風車」 や 「風船」 がこの月の季語になっているのも、わかる気がします。

春なれや 名もなき山の 薄霞(うすがすみ) (松尾芭蕉)
石鹸玉の 息ゆらゆらと 円(まど)かさよ (島村元)

旧暦の4月は新暦の5月にあたるため、歳時記の世界ではもう晩春となっています。「春惜しむ」 などと言いますが、まだまだこの季節に酔い足りない気分です。
春は仕事がしにくい。まったくそう思います。
少しの時間を見つけて、カメラと文庫本とお酒を引っ提げ、各駅停車のぶらり旅と洒落こみたいものです。

満顔の お国なまりや 花の下
頂(いただき)を目指して 朝の風光る

そうそう、エイプリル・フールも 「万愚節」 という季語で、しっかり歳時記に参列していました。

http://www.youtube.com/watch?v=bkTmnzLsHsg
春の虹 夢を残して 消えにけり

エイプリル・フール [日々雑感]

DE10@八王子駅:撮影;織田哲也.jpg

ついこの前、年が明けたかと思ったら、早や4月1日です。
新年度ということで、新・社会人や進学・進級した学生たちが、今日から街にあふれます。

昔は中学生になれば英語を習い始めるものでしたが、今は小学生の時から英語教育が始まっています。そのことの良し悪しはなお議論されるところですが。
ところで皆さんは英語で自己紹介するとき、自分の姓名を相手にどのように伝えますか?
例えば 「佐藤あきら」 さんだったら、I am Akira Sato. と言うか、I am Sato Akira. と言うかという問題です。
かつては前者、すなわち Akira Sato とするのが常識のようになっていましたが、今では中学校英語教科書のほとんどで、後者の Sato Akira 表記が採用されています。

御存知の通り、日本では 〈姓→名〉 の順で名乗るのに対し、欧米では 〈名→姓〉 の順に名乗ります。
英語を話す場合は英語圏の習慣に合わせて 〈名→姓〉 としよう、というのが過去の態度でしたが、今では自国の習慣を優先して 〈姓→名〉 と表すように変化してきたわけです。
日本人が 〈姓→名〉 の順に名乗るという習慣自体、欧米の人たちに広く知れ渡るようになってきたという事情も関係しているのでしょう。
いずれにしてもいい傾向だと、私自身は思っています。

そもそも、いつごろから 「欧米人に対しては 〈名→姓〉 の順で名乗る」 という習慣がついたのでしょうか。

私はその答えを、「幕末から明治維新の頃」 と考えていました。
予期せぬ黒船の到来により、あたふたと開国したわが国にとって、欧米の習慣に従うことが当然のように思われたのではないか、という理由からです。
しかし調べてみるとどうもそうではなく、実は江戸時代の初期から、欧米人には 〈名→姓〉 の順で名乗っていたようです。
もちろん江戸幕府は鎖国政策をとっていましたが、欧米ではただ一国、出島でオランダ人との交易が続けられていました。
その当時の出島の交易記録は、現在もちゃんと残っています。

それによると、例えば 「越後屋嘉平(えちごや・かへい)」 だったら、Echigo-ya Kahei ではなく 〈名→姓〉 の順で Kahei Echigo-ya と記されています。
鎖国時代にはほとんどの人々がそんな事情を知らなかったなか、出島においてだけは欧米の習慣が当たり前にまかり通っていたことを表しています。
まさに日本の中に唯一存在したヨーロッパ、というわけです。歴史の面白さをあらためて感じさせてくれるエピソードと言えるでしょう。

この結果、出島で 「姓」 ではなく 「名」 を先に言ったことから、この地域を 「ながさき」 と呼ぶようにもなったのです。

なお今回の記事は 『Unaccountable history of Social studies in Oxford (vol.800)』、通称 『USO-800』 誌を参考にしたとかしないとか。

http://www.youtube.com/watch?v=ts9vPn9fyek

寂寥(せきりょう) [日々雑感]

下りE233:撮影;織田哲也.jpg

つい先日28日、岐阜県各務原市にある公園墓地 「瞑想の森」 で、桜の木20本が切られるという出来事が起こりました。
被害に遭ったのは、3分咲きのソメイヨシノ18本とアラカシ2本で、いずれもノコギリのような刃物で根元付近から切られ、一部を残して持ち去られたようです。
高さ3メートルほどもある木を持ちかえって鑑賞するつもりなら、それほど大量に切り倒す必要はないはずです。庭木に利用しようとしても、切った木をそのまま地面に植えたって枯らしてしまうだけです。
こういう目的のはっきりしない犯罪を見聞きすると、心が無駄に干からびていく気分にとらわれます。

誰も得をしない、自分さえも損失を被(こうむ)ることが分かっているのに押しとどめることのできない破壊の誘惑、そんな衝動は誰の中にもあるものでしょう。
けれども、行儀よくまじめなんてクソくらえと思い、夜の校舎の窓ガラスを壊してまわることと、生命ある桜並木を無残に切り倒して進むこととは同列には考えられません。
前者は若いエネルギーの暴発と好意的にとらえる余地もありますが、後者の事件からは 「死臭」 のようなぞっとする不快感さえ漂ってきます。

市によると、被害額は50万円程度だそうです。
桜木20本の被害を法に基づいて計算すれば、まあそんな数字になるのでしょう。市民が心の中から失ったものの損失額を算出する方程式はないわけですから。
今日は肌寒い一日となりそうですが、「花冷え」 とはこんな貧しい気分を指す言葉では決してありません。

廃語の風景⑭ ― 『少年少女世界名作文学全集』 [廃語の風景]

横浜線橋本駅:撮影;織田哲也.jpg

このような全集があった、というより 「あり得た」 時代に、私の少年時代は重なります。
『小学〇年生』 のような学年誌には毎月のように広告が出ていたのを記憶していますし、後年にはTVのCMでも流されていました。
育ちの良さそうなお坊ちゃまやお嬢ちゃまが、洋室のソファーに腰かけてご本を読んでいらっしゃる。それを見守るのが、優しいお母様であったりする風景です。
「世ノ中ニハ、あめりかノ家庭ミタイナ部屋デ生活シテイル子供タチモイルノダ?」 と、CMを見ながら口をポカンと開けて思ったものでした。

この手の全集はいくつかの出版社から発行されていましたが、一例として小学館版 『少年少女世界名作文学全集』 (第一期・1960年) の中身をリストアップしてみます。

1.『ロビンソン・クルーソー』  デフォー原作 本多顕彰訳
2.『ガリバー旅行記』  スウィフト原作 中野好夫訳
3.『宝島』  スチーブンソン原作 西村孝次訳
4.『ジャングル・ブック』  キップリング原作 阿部知二訳
5.『アンクル・トムの小屋』  ストウ夫人原作 大久保康雄訳
6.『王子とこじき』  M・トウェイン原作 谷崎精二訳
7.『若草物語』  オルコット原作 村岡花子訳
8.『トム・ソーヤーの冒険』  M・トウェイン原作 吉田甲子太郎訳
9.『小公子』  バーネット原作 川端康成訳
10.『小公女』  バーネット原作 白川渥訳
11.『グリム童話』  グリム兄弟原作 浜田広介訳
12.『アルプスの少女』  ヨハンナ・スピリ原作 高橋健二訳
13.『みつばちマーヤの冒険』  ボンゼルス原作 高橋義孝訳
14.『巌窟王』  デュマ原作 西条八十訳
15.『ああ無情』  ユゴー原作 河盛好蔵訳
16.『家なき子』  エクトル・マロ原作 山内義雄訳
17.『十五少年漂流記』  ジュール・ベルヌ原作 石川湧訳
18.『アルセーヌ・ルパン』  ルブラン原作 保篠竜緒訳
19.『アンデルセン童話』  アンデルセン原作 平林広人訳
20.『ピノッキオ』  コッローディ原作 柏熊達生訳
21.『クオレ』  アミーチス原作 富沢有為男訳
22.『アラビアン・ナイト』  佐藤正彰訳
23.『西遊記』  呉承恩原作 佐藤春夫訳
24.『古事記物語』  室生犀星文
25.『義経物語』  富田常雄文
26.『太閤記』  尾崎士郎文
27.『世界童話選』  秋田雨雀編
28.『日本童話選』  小川未明編

このあと第二期分として 『あしながおじさん』 や 『海底二万マイル』 などの28巻も続きますが、そこは割愛します。さて皆さんは、上記の中でどれほどの物語を読まれたことがあるでしょうか。
私が小学生時分に読んだのは、ほんのわずかしかありません。
人一倍本好きな少年でしたが、お気に入りは 『〇〇の図鑑』 というヤツでした。
こちらのほうは 『植物』 『動物』 『科学』 『天文』 『地理』 『歴史』 など全巻を揃えてもらい、飽きることなくページをめくる毎日を過ごしていました。
けれども文学方面には、ほとんど興味をそそられることがありませんでした。

たまたまある女の子から 「お誕生日会」 に招待してもらうと、その子の家には 『少年少女世界名作文学全集』 が全巻そろっていました。
小さな仏壇ほどもある専用の本棚にズラリと並んだ全集を実際に目にしたのは、この時が初めてでした。
そもそも私の子供時代、「お誕生日会」 にクラスの半数以上も招待すること自体、よほどお子さんに手間暇お金をかけている家庭なわけです。
普段から図鑑やマンガ本に耽っていた私もこれには驚き、たぶん不思議なものを見るような目をして、その中の1冊2冊を手に取っていたことだろうと想像します。

いま私の手元には、『クオレ』 のみがあります。上記の全集の中から、その本だけを買ってもらったのです。
1965年の版で、定価は200円。B6版・320ページで、とても丁寧で上質な製本となっています。
1965年ごろのお金の価値については、公務員初任給で21.600円というデータがあります。
全集28巻を揃えると5600円,56巻だと11200円というのは、かなり高価なものだったと言えるでしょう。

私は文学全集の向こうに夢を見ることはなかったのですが、これを揃えてもらっていた子供たちがどんな夢を抱いていたか、今さらながら知りたい気がするのです。
それは今、ものを書く・本を作るという仕事をしているからという理由のほかに、もうひとつ。
子供の頃の自分が、もし図鑑ではなく文学全集を読む喜びを何かのきっかけで覚えたとしたら、その後の人生がどんなふうに変わったか、という個人的な興味があるからです。

今や古典的な文学全集など CASIO・エクスワードのROMの中に全部収められていることは、通販番組のやたらカン高い声の社長さんによって知らされています。
仏壇みたいな本棚を用意しなくても、気軽にページを繰ることができるようになりました。操作じたいは子供にも何の苦もなく扱えるものとなっています。
だからといって、少年少女が文学に目覚めるようになったという話は聞きません。
かつての文学全集が醸(かも)し出していた格調、言葉をかえればその敷居の高さこそが、文学世界への憧憬(しょうけい・どうけい)を誘発したのかもしれません。
久しぶりに、1冊だけ本棚の隅に身を潜めている 『クオレ』 を取り出し、童心に帰って 「しょうねん・しょうじょ・ぶんがく」 たらいうものを味わってみたい気がします。

http://www.youtube.com/watch?v=zDTUZF54RBU

今じゃなくても… [日々雑感]

京王9000系・多摩境:撮影;織田哲也.jpg

「まだ花見をしていない」 と言うと早速、知人から 「いつやるの? 今でしょ!」 とメールが届きました。
大きなお世話なのはともかく、最近こんな言い回しをする人が増えました。いい齢こいた大人のくせに、まったく鬱陶しいったらありません。

『万葉集』 の時代には梅を愛でることのほうが多かったようですが、『古今和歌集』 の頃になると、その対象が桜に移りかわっていったようです。どちらの花を詠んだ歌が多いかで、その変化を見ることができます。
象徴的な桜といえば、わが国古来よりヤマザクラであったわけですが、今では圧倒的にソメイヨシノに人気が集中しています。
葉よりも早くいっせいに開花し、また散り際の鮮やかなことが、その大きな理由です。
「死ぬことと見付けたり(『葉隠』)」 と言われた武士道に通じるからかと思っていましたが、どうもそうではなく、特に戦後の小中学校でソメイヨシノが好んで植樹されたことに起因するという話です。
春の風に舞い散る花びらが、卒業から入学といった人生の転機を祝福していると、大人から子供まで自然に感じられるというのでしょう。

吉田兼好師は 『徒然草』 第百三十七段冒頭で、次のように述べています。

「花は盛りに、月は隅(くま)なきをのみ見るものかは。
雨に対(むか)ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。
咲きぬべきほどの梢(こずえ)、散りしをれたる庭などこそ見どころ多けれ。…
…花の散り、月の傾くを慕ふ習いはさることなれど、殊(こと)にかたくななる人ぞ、『この枝かの枝散りにけり。今は見どころなし』など言ふめる。」

(桜は満開のときだけ、月は満月だけを見て楽しむべきなのだろうか。
雨空を見上げながら隠れている月を恋しく思ったり、簾(すだれ)を垂らした部屋にこもって春が通り過ぎるのを想像して過ごしても、いっそう味わい深いものである。
今にもほころびそうな蕾(つぼみ)の梢や、花びらが散りばめられた庭など特に見る価値があろう。…
…桜が散ったり、月が沈むのを見て名残惜しく思う伝統はその通りだが、美的感覚のない人にかぎって、「この枝もあの枝も散ってしまった。今では見ても仕方がない」と決めつけてしまう)

その上で、風流を心得ない人の花見の様子を、苦々しく書き付けています。

「片田舎の人こそ、色濃くよろづはもて興ずれ。
花のもとにはねぢ寄り立ち寄り、あからめもせず目守(まぼ)りて、酒飲み連歌して、果ては、大きなる枝、心なく折り取りぬ。
泉には手足さし浸して、雪には降り立ちて跡つけなど、よろづのもの、よそながら見ることなし。」

(風流を心得ない人にかぎって、あからさまに興味を向けて遠慮のないものだ。
桜の木にしつこく体を寄せたり、ねちっこい視線で舐めまわすように見たり、酒を飲んだり連歌をして騒ぎ、果ては、大きな枝を、ためらうことなく折ってしまう。
こういう者たちはえてして、湧き水を見れば手足を突っ込み、雪が降ると地面に足跡をつけたがるなど、どんなものに対しても触れたがるばかりで、あるがままの姿を見て楽しむことができないのだ)

では、花鳥風月、雪月花、どのように鑑賞して楽しむのがよいと言うのでしょうか。

「すべて月・花をば、さのみ目にて見るものかは。
春は家を立ち去らでも、月の夜は閨(ねや)の内ながらも思へるこそ、いと頼もしうをかしけれ。
よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまもなほざりなり。」

(そもそも月や桜は、人の目で見て楽しむだけのものだろうjか。
春は家から出かけなくても、秋の名月の夜は寝室にこもったままでも想像にまかせて楽しむほうが、たいへん安らかな気分で情緒を味わうことができる。
風流を愛する人は、愛でる心をことさら露わにせず、興味を示す態度もあっさりしているものだ) ― 筆者翻案

あるがままの姿を自然に受け入れることが、風流の基本といったところでしょうか。
『徒然草』 にはこうした、思わず我が身を振り返りたくなるような珠玉の言葉がたくさん詰まっているのです。
ね、だから 「今でしょ!」 などと、下手な流行語を遣っている場合ではないのです。
そんな暇があったら、兼好師の爪の垢でもフライングゲットしていらっしゃい。

http://www.youtube.com/watch?v=1BM4h0pgL54
桜をテーマにした中ではいちばん好きな曲です。

春宵一刻(しゅんしょういっこく) [日々雑感]

E233-EF64:撮影;織田哲也.jpg

久しぶりに千鳥ヶ淵の桜並木などを伺うと、普段は無国籍ふうに振る舞ってはいても、「ああ、俺は日本人なのだな」 とあらためて思い知らされるものです。
夜桜見物などといった風流に、今年はまだ恵まれていないにもかかわらず、です。
現実的には春爛漫の気分だけでも味わいたいためか、記憶の中にある桜の風景を脳内シミュレーションして、せめてもの慰みにしています。
言ってみれば 「エアお花見」 状態です。これで酔えるとは自分でも不思議です。
毎年、井之頭公園を一巡りし、『いせや』 で独り反芻するのが恒例となっていますが、今年はいつ行けるものでしょうか。

『春夜』 (蘇軾)

春宵一刻直千金 (春宵一刻直千金)
花有清香月有陰 (花に清香有り月に陰有り)
歌管樓台聲細細 (歌管樓台(ろうたい)聲細細)
鞦韆院落夜沈沈 (鞦韆(しゅうせん)院落(いんらく)夜沈沈)

有名な第一句以外は、読み下し文でも意味が取りづらいところです。
ところが非凡の才というべきか、この七言絶句を見事に読みほぐした先達がいます。
二人の訳文を並べてみましょう。

『春の夜』 (土岐善麿・訳)
ひととき惜しき春の宵や
月に陰あり香るは花
たかどのかすかにもる歌笛
ふらここたれて夜はふけたり

『鞦韆(ぶらんこ)ヒッソリ夜ノ庭』 (松下緑・訳)
コガネニ喩(たと)ウ春ノ宵
花ノ香(か)匂ウオボロ月
宴(うたげ)ノ笛ノ音(ね)モトオク
鞦韆(ぶらんこ)ヒッソリ夜ノ庭

この漢詩の詠(うた)うところは、単に 「春の宵はいいものだ」 というわけではありません。
詠み込まれている 「花」 「花の清香」 「照らす月」 「笛の音」 などは、その一瞬一瞬がなんともなまめかしく、生命の輝きに満ちている。
それに比べれば人の世のあくせくした営みにどれほどの価値があるだろうかと、夜の庭の誰も乗らないブランコを見やりながら作者は想いを綴ったのでしょう。
松下緑訳を借りるならば、第一句の 「コガネニ喩(たと)ウ春ノ宵」 という煌(きら)びやかさと、第四句の 「鞦韆(ぶらんこ)ヒッソリ夜ノ庭」 という静けさを、2編の映像に仕立て見比べているような味わいがあります。
と同時に、緩やかで自然な時の流れに溶け込んでいく錯覚を、この詩には感じてしまいます。

http://www.youtube.com/watch?v=SSR6ZzjDZ94
BOSTON

『別れの曲』? [日々雑感]

立川-高松間:撮影;織田哲也.jpg

昼間、休憩がてらいろんなブログを巡っていたら、ある高校の卒業式風景について書かれたものがありました。
その中に、「BGMとしてショパンの 『別れの曲』 が流れていた」 という記述があり、ついつい 「ホンマかいな」 と苦笑してしまいました。

ショパン作曲 『エチュード10第3番ホ長調』 が 『別れの曲』 と呼ばれているのはわが国だけです。これは比較的有名な話です。
昭和10年に 『別れの曲』 というドイツ映画が、なぜかフランス語版で公開され、その主題歌がこの曲でした。映画の内容は若き日のショパンを描いたものです。
そのとき、主題歌が 『エチュード10第3番ホ長調』 では味気なさすぎると考えたのか、映画の邦題と同じ 『別れの曲』 とされたのがそもそもの原因となっています。
ベートーベンの 『運命』 交響曲にしても、有名な第一主題のメロディーについて問われたベートーベンが、「このように運命は扉をたたく」 と解説したのに由来して 『運命』 と呼ぶようになったのです。これもわが国独自のケースで、国際的には 『交響曲第5番ハ短調』 なわけです。
このような例はほかにもあって、つくづく日本人は言葉の持つイメージに流されやすい感性をしていると思います。言霊(ことだま)信仰にもその原因があるのでしょう。

それでもベートーベンの 『交響楽第5番』 の場合は作曲者自身の発言が関係していますし、いかにも 「運命」 を表現していると万人の認めるセンスがあります。
では、ショパンの 『エチュード10第3番ホ長調』 のほうは如何でしょう。いかにも 『別れの曲』 と呼ぶにふさわしいものなのでしょうか。
ショパン自身はこの曲について、「一生のうち二度とこんなに美しい旋律を見つけることはできないだろう」 と評していると言われています。
また弟子に練習をつけているとき、突然 「ああ、私の故国よ!」 と泣き出したいうエピソードも聞きます。

この曲の出だしと終わりはたしかに美しい旋律を奏でていると私も認めますが、途中のパートについてはどうも 「美しい」 では済まされないような不思議な感覚を覚えてしまうのです。
言ってみれば、一種の 「狂気」 なのでしょうか。
そちらが心の中の抑えようのない本音を表した部分であって、前後の穏やかなカンタービレはどこか表面を取り繕った社交的な自分の姿であるような気がしてなりません。
あるいは、あまりに美しいものと対峙したとき、その輝きに耐え切れず切り刻んで壊してしまいたい、汚さずにはいられない衝動のようなものでしょうか。
曲想が急激に変化するため、その落差につまづいてしまうような気分に陥ります。
『別れの曲』 というよりは、どこか 『内なる狂気の曲』 的な雰囲気を、私は強く感じてしまうのです。

念の為に申し上げておきますが、上に述べたことでこの 『エチュード10第3番ホ長調』 の価値が霞んで見えるとは決して思っていません。
むしろショパン自身が 「美しい旋律」 と評したものを、その狂気が引き立てているとさえ思っています。
その解釈が無知でも我儘でも無粋でも、日記の中で遊ぶくらいはいいかなというところです。
勝手な解釈自体を楽しんでいますから、ショパンの狂気に触れたという思い込みで、私はじゅうぶんこの曲に感銘を受けているわけなのです。

http://www.youtube.com/watch?v=YcBB7zs6pSA
あなたはどのように聴かれますか?

鉄道とおっぱい [日々雑感]

165系長野色・鳥沢:撮影;織田哲也.jpg

高校生になった頃から、カメラをかかえて鉄道の旅をすることが趣味のひとつになり、独りででかけたり友人と連れ合うことが多くなりました。
私の高校時代は、1971年から1974年です。昭和で言えば、46年から49年に相当します。
そんな頃に少しばかり田舎に行くと、赤ちゃんを抱えたお母さんが車内でたわわなおっぱいを人目も憚らずに出し、赤ちゃんに授乳している光景に出くわすことも稀ではありませんでした。
まあ、高校生ですから視線をそらすふりをしながらチラチラ見たりもしていたのですが、そんな風景は日常茶飯事にあったことなのでしょう。

この国の歴史を考えてみると、女性が胸元を隠す文化はそもそも希薄であったと思われます。
松平定信が寛政の改革の中で 「混浴禁止令」 を出していることを思えば、それまでは大衆浴場の混浴も当たり前にあったということがわかります。
日本の女性の羞恥は腰回りにあったわけで、混浴であった当時も、入浴時には腰巻を巻いていたことが浮世絵などからもうかがえます。
男は褌(ふんどし)を、女は腰巻をつけて、同じ湯を使っていた文化があったわけです。

いや、なぜ今こんなことを突然に書いているかといえば、最近は電車の中で赤ちゃん連れの母子の姿を見かけなくなったなとふと思ったからなのです。
赤ちゃんを連れたお母さんは、今はたいてい車で移動します。
電車の車内がパブリックな空間なのに対して、自家用車の内部はプライベートな空間です。
乳児を育てる空間が社会とは一線を画せるようになったから、今では電車の中でおっぱいをあげることもなければ、そこでおむつを取り替えることもしなくなったということです。
それは環境の整備という点では社会的繁栄の賜物でもあるわけでしょうし、母子にとっても都合のいいことなのかもしれません。
ただ新しい生命である赤ちゃんと、それをなりふり構わず育てているお母さんの姿を、パブリックに見かけなくなっていることは本当にいいことなのだろうかと、疑問が残るのです。

いま電車の中はSNSが支配する電波の世界になり、生活臭がまるで感じられない空間となっています。
けれども、そんな空間ばかりが居心地のいいものだとは限らないのです。
人は生きていく上で緊張ばかりもしていられないので、どうしてもスキというものができてきます。
かつて電車の中で曝け出されていたおっぱいなどは、そのスキの典型みたいなものでしょう。
逆に言えば、そんな場所でスキを見せてしまっても構わないほどに、お母さんたちは赤ちゃんを育てるリアルと正直に向かい合っていたと言えるのではないでしょうか。

鉄路の旅には夢があるとよく言われます。
しかし、夢とリアルとは、同じものでできていると私は思っています。
リアルを感じられない夢は偽物です。高校生の頃に見かけた、赤ちゃんが無心に吸い付くおっぱいに、電車の中でまた会えたら嬉しいと私は密かに思っているのです。

(言っとくけど、おっぱいが見たいっていう話じゃないからね。そりゃまあ、見たいけどさ)

http://www.youtube.com/watch?v=16sO17p4jbE

孤独の決裁 (WBCを観戦して) [日々雑感]

横浜線相原駅:撮影;織田哲也.jpg

昨日行われた WBC(World Baseball Classic) 準決勝で、日本はプエルトリコに敗れ、栄えある3連覇を逃しました。
プエルトリコは非常に鍛えられたチームであり、打ち崩せなかったことは残念ですがこれも勝負ですから仕方ありません。むしろ今回はこれでじゅうぶん上出来だと思います。
そんな中、最後の試合をTVで観戦して、考えさせられることがあったのです。

問題のシーンは8回裏、日本の攻撃時に起こりました。
それまでほぼ完璧に押さえられてきた日本が、鳥谷(以下、選手名に敬称略)が3塁打で出塁。これを井端が巧打で返して3対1とします。さらに内川がヒットで続き、1アウト1,2塁、打席には4番・阿部という絶好の同点機を迎えました。
ここでピッチャーの投球の間に、内川が2塁へ全力で盗塁を試みます。
ところが2塁上にはランナー井端がおり、行き場を失った内川は無念のアウトとなりました。2アウトを取られた日本の意気は一気に下がり、追加点をあげることができなかったのです。
後になってベンチからのサインは、「ダブルスチールに行けるようなら行け」 というものだったと公表されました。1塁2塁のランナーが同時に2塁3塁を狙って盗塁を試みてもよい、という指示です。
「行ける」 と思った内川は走り、「行けない」 と思った井端はとどまった。そのことがこのミスプレーを呼んでしまった直接の原因でした。

実はこのシーンから10日前、WBC・2次リーグの台湾戦でも、同じ作戦がとられていました。
日本は台湾に3対2と1点のリードを許し、9回2アウトまで迫られていました。
ここで鳥谷がフォアボールを選び出塁します。この鳥谷に対し、ベンチは 「行ける(盗塁できる)ようなら行け」 という指示を出したのです。
この指示、出された選手はキツいでしょう。もし盗塁を決行して失敗したなら、その試合はそこでご臨終。逆に決行しないで敗戦となった場合は、走らなかったことを責められるかもしれません。積極策をとっても消極策をとっても、あとのないところに追い込まれてしまいます。
その状況から考えると、「行けるようなら行け」 は実質的に 「行け!」 という指示に他ならなかったのではないかと思われます。
そこで鳥谷は肚をくくり、失敗すれば一生責め続けられるかもしれない大博打に打って出て、見事に盗塁を成功させました。
続く井端がしぶとくヒット、日本は土壇場で同点で並び、その後の逆転勝利に結びつけたわけです。

話を準決勝プエルトリコ戦に戻すと、件の場面で出された 「行けるようなら行け」 という作戦は、言葉の上では同じでも台湾戦のときとはまったく質が異なります。
台湾戦での1塁ランナー鳥谷は、良くも悪くも自分の決心によって動けるわけです。ところが準決勝のあの場面では、井端・内川の両ランナーが呼吸を合わせないと、ダブルスチールを成功させることはできません。
いくら優秀な選手を集めたとはいえ、その微妙な呼吸をつかめるほどチームとしては熟成されていないはずです。ましてや打席にはキャプテンの阿部。余計な小細工をせず4番のバットに賭けるという作戦だって、当たりまえにとられるケースです。
ダブルスチールに行かせるなら、躊躇せずに 「次のボールで行け」 と指示すべきだったでしょう。失敗し1人がアウトになったとしても、それは積極的に攻めた結果となります。

内川:「あれはやってはいけないプレー。言い訳はできない。飛び出した自分が悪い。…いろんな人から3連覇をぜひって言ってもらってましたし。今回だけじゃなくて、2大会連覇してくれた選手の方々もいらっしゃいましたし、そういうものを全部、自分が止めたような気がして…申し訳ないです…」

こんなふうに選手に言わせるのは、いくらプロとはいえ酷な話です。
泣くな、内川。きみは WBC を通じて優れた活躍を見せてくれたではないですか。日本の野球ファンの眼は曇ってはいないので、胸を張って帰ってきていただきたいです。
いろいろな見方はあるでしょうが、私は首脳陣こそが真っ先に、曖昧な作戦が裏目に出たことを認めなければならないと思います。
指示を出す者は一身に責を負い、言い繕うことをしてはいけない。
深い孤独と心中する覚悟を、一人の選手に背負わせてはならないはずです。

http://www.youtube.com/watch?v=rGPkOhCtSpg

廃語の風景⑬ ― 仰げば尊し [廃語の風景]

E233系西八・八王子間:撮影;織田哲也.jpg

あるランキング・サイトによると、卒業式ソングの上位には、森山直太郎の 『さくら』 や、ミスチルの 『終わりなき旅』、ゆずの 『栄光の架け橋』 などが上位を占めています。
定番といわれる松任谷由美 『卒業写真』 や海援隊 『贈る言葉』 といったあたりも頑張っています。
EXILE 『道』 や、いきものがかり 『YELL』 といった曲も、この季節の風物詩としてランク入りしているようです。
私の時代の卒業式に定番の歌といえば、なんといっても 『仰げば尊し』 なのですが、同じサイトのランキングでは85位という位置に甘んじているようです。

2008年に 『少年サンデー』 誌での連載を終えた 『金色のガッシュ』 最終回近くに、この 『仰げば尊し』 の全歌詞が、主人公の心理を物語る重要な要素として登場しました。
作者の雷句誠氏はのちにご自身のブログで、「読者から、あの 『仰げば尊し』 とはどんな歌ですか、という質問がたくさんきて驚いた」 と書いておられたのが印象的です。
まずは、その歌詞をご覧ください。

『仰げば尊し』 (文部省唱歌)

一、
仰げば尊し、わが師の恩
教えの庭にも、はや幾年(いくとせ)
おもえばいと疾(と)し、この年月(としつき)
今こそわかれめ、いざさらば

二、
互いにむつみし、日ごろの恩
わかるる後にも、やよわするな
身をたて名をあげ、やよはげめよ
今こそわかれめ、いざさらば

三、
朝夕なれにし、まなびの窓
ほたるのともし火、つむ白雪
わするるまぞなき、ゆく年月(としつき)
今こそわかれめ、いざさらば

実はこの歌には、いろいろな問題があるにはあったのです。
第一に、「わが師の恩」 などというものを文部省唱歌として押し付けるのはいかがか、という論点がありました。旧時代の教育ではともかく、新しい民主主義教育には相応しくない、という話です。
また、「身をたて名をあげ」 という部分にも、立身出世至上主義の雰囲気が感じられ、一庶民としての幸福に水を差すのかといった主張も聞いたことがあります。
全体に文語調であることも問題のひとつでした。たしかに 「今こそわかれめ」 という部分に 「係り結びの法則」 が効いているくらいですから、口語の常識とはニュアンスの違う歌詞であることは間違いありません。

だけど私は思うのですが、この歌詞って、そんなに時代とズレているものなのでしょうか。

たとえばの話ですが、卒業式の一場面を思い浮かべてください。
教師は教師で 「俺が面倒見てやらなければ、お前たちはロクな人間になっていなかったぞ」 といった自負があり、生徒は生徒で 「オメーラはウザかったが、今日からはせいせいするぜ」 という最後のツッパリがあったとします。
それらは互いに交わっていないかといえばそうでもなく、人生の節目の卒業式という舞台を共有することで、案外最後の時間を楽しんでいるのかもしれません。
実際に 「超問題児」 とされてきた生徒から、「卒業式が終わって最初に握手しにいったのが、俺のことをいちばん叱った教師だった」 という発言を聞いたことがあります。
それを想うと、いい加減ウソだと分かっていながら、意識の断層面に最後の一輪の花を飾るとしたら、私はこの 『仰げば尊し』 がぴったりくるのではないかと、今も考えているのです。

いや正直に申すなら、今この齢になってはじめて、件の歌詞の意義がわかったような気がします。意義というより、妙な存在感とでも言った方が適当かもしれません。
違う世代との断層を実感することろから、単なるわがままでない自己の形成がはじまる。
それを象徴する歌が卒業式から消えていくのは、淋しいと言うより、何をかいわんやと怒りにも似た気持ちになってしまうのです。いい齢したおじさんの独り言としてはね。

http://www.youtube.com/watch?v=qOw-tVhJjw8
今日は珍しく、ブログの内容と100%リンクした歌です。どうぞ。

引き籠る週末 [日々雑感]

都営新宿線10-300系・多摩センター:撮影;織田哲也.jpg

仕事がら、不自然な時間の遣い方に歯止めが効かないというか、幾日も連続で夜なべをしたり、尋常でない時間に仮眠をとる生活が続くと、さすがにそのペースにどっぷり漬かっていてはいけないなあと反省心も起こるというものです。
若いうちは体力任せで乗り切ってきましたが、ストレスで血圧が激変する体質を患ったことで、生活のある重要な部分は世間一般の人様並みに保っておかなければならない気持ちに切実に襲われました。
だから睡眠がそうなれないのならば、せめて食事だけは適正な時間に3食摂ることを心がけています。
朝食は6時から7時、お昼は12時前後、夜はお酒を飲むことも多いので早めの時間に軽くすませる。
このペースを守ることで健康管理につながり、体内時計を補正することがなんとかできているようです。まあ、今のところはという話ですけれど。

ところが食事のリズムを世間並みに保つ努力をしていることで、狂ってしまいがちな睡眠のリズムとの間に乖離(かいり)が生じることもあります。
月曜から金曜まではなんとかその矛盾を誤魔化していますが、週末になると一気に倦怠感がつのってくることも度々です。まさに今日はそんな一日でした。

今朝、目覚めたのは午前2時半ごろでした。
しばらくぼうっとしていましたが、ひとたび起動した神経を押さえ込むこともできず、TVのスイッチを入れてみました。NHKでやっていた番組は、かつての蒸気機関車(SL)の姿をとらえたモノクロの記録映像でした。
実はこの手の番組は、たいへん好きなのです。
耳障りのするナレーションもなく、まるで環境音楽を聴いているかのように、流れゆく映像に何の気負いもなく視覚を委ねていける安心感があるからです。
NHKが深夜から明け方にかけて放映している映像は、ほかにも北アルプスの峰々や野生動物の生態を延々と映し出したものがあり、それらはいつも時の流れを忘れるような安らぎを与えてくれるのです。

夜明け前のTVを見つめながら、今日は一日、自室に引き籠る決心を早々につけました。
何もしないというのではありません。やるべき仕事はあるのです。
けれども切羽詰まった気分でするのではなく、穏やかな時間の中で取り組んで、時には音楽を聴いたり、ブログを書いたり、昼寝したりしながら過ごしたのです。
9:30からの 『ぶらり途中下車の旅』 や、12:15からの 『暮らしの中の法律相談』 など、いかにも土曜日的な平和な番組も、久しぶりに堪能することができました。
そういう意味では嬉しい週末の一日だったと言えるでしょう。

とはいえ、本当は家から一歩も出たくなかったというネガティヴな側面も否定できません。
健康のために買ったロードバイクにも乗りたくなかったし、鉄道写真を撮る気にもなれなかったし、美味いものを食べに出る気も起らなかったし、誰とも会いたくなかったのです。
煙草も残り2本しかありませんでしたが、買いに出るのが億劫なので、朝からまだ1本しか吸っていません。このブログを書き終えたら残りの1本を吸うつもりですが、それももしかしたら面倒になってやめてしまうかもしれません。
じゃあ寝ていればいいじゃないかと言われそうですが、こんな中でも仕事やブログを書くことだけは朝からしていました。
何故それだけできたのかははっきりしませんが、何やら自分が、壊れた機械仕掛けのオモチャの兵隊みたいな気分になっているのも事実です。そんな気分を変えようという積極的な理由はありません。

買い置きのお酒を、シーチキン・マヨネーズでいただいています。
お酒については、「呑みたい」 時と 「酔いたい」 時があるわけですが、さて今夜はどちらなのか、それすらも結論を出したくない、脱力感満載の週末なのでございます。

http://www.youtube.com/watch?v=gkSxxsAutqw
一日って、本当に白いのでしょうか?

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