SSブログ

『別れの曲』? [日々雑感]

立川-高松間:撮影;織田哲也.jpg

昼間、休憩がてらいろんなブログを巡っていたら、ある高校の卒業式風景について書かれたものがありました。
その中に、「BGMとしてショパンの 『別れの曲』 が流れていた」 という記述があり、ついつい 「ホンマかいな」 と苦笑してしまいました。

ショパン作曲 『エチュード10第3番ホ長調』 が 『別れの曲』 と呼ばれているのはわが国だけです。これは比較的有名な話です。
昭和10年に 『別れの曲』 というドイツ映画が、なぜかフランス語版で公開され、その主題歌がこの曲でした。映画の内容は若き日のショパンを描いたものです。
そのとき、主題歌が 『エチュード10第3番ホ長調』 では味気なさすぎると考えたのか、映画の邦題と同じ 『別れの曲』 とされたのがそもそもの原因となっています。
ベートーベンの 『運命』 交響曲にしても、有名な第一主題のメロディーについて問われたベートーベンが、「このように運命は扉をたたく」 と解説したのに由来して 『運命』 と呼ぶようになったのです。これもわが国独自のケースで、国際的には 『交響曲第5番ハ短調』 なわけです。
このような例はほかにもあって、つくづく日本人は言葉の持つイメージに流されやすい感性をしていると思います。言霊(ことだま)信仰にもその原因があるのでしょう。

それでもベートーベンの 『交響楽第5番』 の場合は作曲者自身の発言が関係していますし、いかにも 「運命」 を表現していると万人の認めるセンスがあります。
では、ショパンの 『エチュード10第3番ホ長調』 のほうは如何でしょう。いかにも 『別れの曲』 と呼ぶにふさわしいものなのでしょうか。
ショパン自身はこの曲について、「一生のうち二度とこんなに美しい旋律を見つけることはできないだろう」 と評していると言われています。
また弟子に練習をつけているとき、突然 「ああ、私の故国よ!」 と泣き出したいうエピソードも聞きます。

この曲の出だしと終わりはたしかに美しい旋律を奏でていると私も認めますが、途中のパートについてはどうも 「美しい」 では済まされないような不思議な感覚を覚えてしまうのです。
言ってみれば、一種の 「狂気」 なのでしょうか。
そちらが心の中の抑えようのない本音を表した部分であって、前後の穏やかなカンタービレはどこか表面を取り繕った社交的な自分の姿であるような気がしてなりません。
あるいは、あまりに美しいものと対峙したとき、その輝きに耐え切れず切り刻んで壊してしまいたい、汚さずにはいられない衝動のようなものでしょうか。
曲想が急激に変化するため、その落差につまづいてしまうような気分に陥ります。
『別れの曲』 というよりは、どこか 『内なる狂気の曲』 的な雰囲気を、私は強く感じてしまうのです。

念の為に申し上げておきますが、上に述べたことでこの 『エチュード10第3番ホ長調』 の価値が霞んで見えるとは決して思っていません。
むしろショパン自身が 「美しい旋律」 と評したものを、その狂気が引き立てているとさえ思っています。
その解釈が無知でも我儘でも無粋でも、日記の中で遊ぶくらいはいいかなというところです。
勝手な解釈自体を楽しんでいますから、ショパンの狂気に触れたという思い込みで、私はじゅうぶんこの曲に感銘を受けているわけなのです。

http://www.youtube.com/watch?v=YcBB7zs6pSA
あなたはどのように聴かれますか?

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。