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色いろいろ⑥ ― 黒 [諸々の特集]

京王9000系・多摩境:撮影;織田哲也.jpg

1980年代初頭のモードはモノトーンが中心でした。
コム・デ・ギャルソンに代表される黒を基調としたファッションが流行し、「カラス族」 と呼ばれる若者が原宿や青山の街を闊歩していました。
そんな頃、同窓会のために大阪に帰ったとき、黒ずくめのいでたちで出席すると 「誰かの葬式か?」 と言われて、ずいぶんがっかりしたことがあります。

「黒」 は彩度・明度とも最も低い色で、「白」 の補色となっています。
自己主張が強く、実際よりも重厚感を引き立たせるので、威厳や高級感を醸し出す色です。
反面、弱さを隠して強く見せる場合にも使われ、虚構のイメージもなくはありません。
暗闇や絶望、悪、死、恐怖、孤独、沈黙といったマイナーな感情の象徴になりやすく、その意味でも白の対抗色と言えるでしょう。

ジェラール・ド・ネルヴァルの 『オーレリア、あるいは夢と現実』 を読んだのは高校3年の2学期、たしか中間テストの直前だったと思います。
この頃の私は半ば浪人生活を覚悟していて、テストの直前になると無性に余計な本を読みたくなる病に侵されておりました。
ネルヴァルの作品は 「幻想文学」 というジャンルに括(くく)られ、夢と現実との境界を行ったり来たりする作風です。
オーレリアという女性に叶わぬ恋をした男は、彼女が死ぬことで自分のものになると考えます。
現実に彼女を殺すのではなく、主人公は夢想の中で 「彼女は死んだ」 と思い込むという手段に訴えます。
しかしそこには満足感などなく、残された自分がこのあと長い時間を孤独に生き続けなければならないことに気づきます。
それもまた夢想でしかないのですが、夢想が現実を凌駕(りょうが)し、「いまや死なねばならないのは私だった。望みもなく死ぬのは私なのだ」 との言葉を残して主人公はこの世を去る、というストーリーです。
現実の作者も神秘主義から錬金術への傾倒をたどり、精神の平衡を欠いて、薄汚れたパリの片隅で首を吊って生涯を閉じています。

このネルヴァルの 『幻想詩集』 という作品に、「黒い太陽」 というモチーフがあります。
夢想の世界を 「第二の生」 と考える作者にとって、「黒い太陽」 は 「死と再生」 の象徴とされています。
高校生の頃の私には、それが 「死」 の象徴であることは理解できても、なぜ 「再生」 の象徴となり得るのか納得がいきませんでした。
せいぜい 「死こそが第二の生である」 と考える (なんと仏教的な!) ことによって、そこに 「再生」 の意味があるのだと思いつくのがやっとでした。

いま 「黒い太陽」 と聞くと、多少は違った発想ができるでしょう。
仮に、現実に天空に輝くお日様を 「白い太陽」 と呼ぶことにすると、この 「白い太陽」 の生み出すものは何といっても 「光」 です。
この世のすべてのものは 「白い太陽」 の光を受けて可視化されます。また光あるところには熱が発生し、生命も育ちます。
ところが地球上で考えるとわかりにくいのですが、例えば月では、太陽光のあたる地表温度は110℃ですが、これが月食時に地球の影が投影されるとマイナス110℃まで一気に下がると言われています。
そこは暗黒であり、死の世界と言えるでしょう。
何のことはない、「白い太陽」 はその光ゆえに、影を生み出す根源とも言えるわけです。

この影、暗黒の部分に光をあてるのが 「黒い太陽」 なのではないか。
影の部分に描かれた普段は可視化されていない文字や図柄を、ちょうどブラックライトを照射された蛍光体のように浮かび上がらせるのが、「黒い太陽」 の 「黒い光」 なのではないか。
そう考えると、「黒い太陽」 が 「再生」 の象徴であることも納得がいくのです。
闇に隠れて生きるのは何も妖怪や魔王だけではなく、現実に生きる人の心の一部、それもけっこう重要な部分がそこに息づいていると思えるからです。

このような発想を持ってしまうのも、今まで生きてきたなかで、自分の心の暗黒部分にたくさんの文字や図柄を描いてしまったからに他なりません。
醜い大人には 「白い太陽」 だけではなく、「黒い太陽」 が必要なのです。

そして 「黒」 は決して 「白」 の対抗色などではなく、「黒」 と 「白」 は永遠に向かい合わない運命を背負った一卵性双生児のようなものかもしれません。

http://www.youtube.com/watch?v=FKJPmOh74Xg

色いろいろ⑤ ― 緑 [諸々の特集]

八王子みなみ野:撮影;織田哲也.jpg

通っていた幼稚園での話。
教室の天井に万国旗が吊るされ、「好きな旗の絵を描きましょう」 という課題が出たとき、私は迷わずブラジルの国旗を選びました。
選んだ理由は、何よりもその色が綺麗に見えたからです。
緑のクレヨンがどんどん減っていくのを、今でも鮮明に思い出すことができます。
でもこれ、半世紀以上も昔のことなのですねえ…。

目が疲れたときは緑を見ると良い、とよく言われます。
視神経にとってどういった効果があるのか私は知りませんが、散歩などして自然の緑を見ると心身がリラックスするのは事実です。
緑は 「生命力」 の象徴であると同時に、「平和」 や 「慰安」 の色でもあります。「落ち着き」 を感じさせてくれる点で、緑の右に出る色はないでしょう。
ビリヤード台や麻雀卓が緑なのは、冷静に勝負ができるためと指摘する説もありますが、どうも眉唾くさい気がします。
また、「未熟さ」 も表し、英語で a green boy は 「青二才」 という意味です。
a green eye は 「嫉妬のまなざし」 を表しますが、これは瞳の色がダークブラウンの日本人には理解しにくい感覚かもしれません。私たちが 「嫉妬のまなざし」 をイメージするのは dark red や black に近いものでしょう。

「みどり」 はもちろん 「緑」 なのですが、ほかに 「翠」 「碧」 も 「みどり」 を表します。
翠は 「翡翠(ひすい)」 、碧は 「碧玉(へきぎょく)」 に使われる字で、これらはどちらも宝石の種類です。
鉱物として 「みどり」 を見ると、植物の 「緑」 とは異なり、あまり生命力を感じさせてはくれません。むしろ死をイメージさせるほうに近い色具合です。
このことと関係あるのでしょうが、映画に出てくる毒物が緑色の液体だったり、ホラーの化け物が緑色の血を流していたりすることもあります。

尾崎翠(おさき・みどり)という小説家をご存知でしょうか。
大正後期から昭和初期にかけて作品を発表した女性作家で、活躍した期間は短かったのですが、印象深い作品を残しています。
代表作 『第七官界彷徨』 は、主人公の若い女性が女中部屋に住んで家事を手伝いながら、その家の家族と交流するという筋立てです。
ところがこの家庭、とにかく奇妙な家族の奇妙な行動に溢れ返っています。
不思議な気分にまみれた主人公はその思いを、人間の第六感を超越した 「第七官界」 で詩を書き続ける、という行為に昇華させていきます。
主人公のこの行動を作者の言葉で表現するなら、「二つ以上の感覚がかさなつてよびおこす哀感」 によるものということになります。

尾崎翠は、文学少女がそのまま作家になった、稀有な例であると思います。
「ブンガクショウジョ・ミドリ」 の世界には、「生命力」 も 「慰安」 もある一方で、「未熟さ」 も 「死」 のイメージも同居しています。
そればかりか 「毒」 の要素も色濃く漂っています。
「みどり」 に代表される要素が混沌とする中に、「ブンガクショウジョ」 という奇妙な生き物特有の、どろどろしたエロスが芳香を放つ。
そう考えると頭がクラクラして、私自身が 「第七官界」 に逃げ込んでしまいたい気分になってきます。

そしてもう一度読み返したい本が、また一冊増えてしまったのです。

http://www.youtube.com/watch?v=2z2CmrVsc2E

色いろいろ④ ― 黄 [諸々の特集]

ホリデー快速・河口湖:撮影;織田哲也.jpg

太陽を描くと、日本人ではほとんどの場合赤く塗るケースが多いのですが、世界の多くの国々では黄色く塗るのが一般的だそうです。
聖徳太子が定めた冠位十二階では、黄は赤よりも下に位置付けられています。
「冠位」 という概念の発祥である中国では、黄は皇帝の象徴として最も貴い扱いを受けます。これは五行思想で、黄色が中心・中央を表すことに由来するとか。
現代では、暖色系で最も明るい黄色は 「明朗」 や 「活力」 といった印象はもとより、「知性・好奇心」 の象徴ともされています。
「目新しさ」 や 「独自性」 を想起させることも多いようです。

あまり悪いイメージのない色ですが、目立ちすぎることが災いして 「警戒」 を与えることもあります。ただしこの色効果は、注意を促す信号や標識、子供のレインコートなどに有効利用されています。
自然界でも、ハチの腹部やヘビの胴に黄色と黒の縞があるのは、「警戒」 を相手に与えながら身を守る保護色となるわけです。

ディスプレイや広告制作の担当者に言わせると、
「黄色の商品はあまり売れないが、必ず見せなければならない色」
という話です。
黄色をバックに他の色の商品を配置する、あるいは黄色の商品を中心に他の色のものを周りに展示する、そうすることで見栄えがぐっと良くなるのだそうです。
その発想からすると、黄は 「存在感のある脇役」 としての機能に優れていることになります。
主人公をたてる脇役なだけに、でしゃばり過ぎてはいけない、扱い方は慎重にといったところでしょう。

黄色の存在感ということで言えば、真っ先に思い出されるのは、1970年に公開されたイタリア映画 『ひまわり』 です。
あたり一面のひまわり畑を映したシーンはこの映画の中に何度も登場し、美しさのみならず、戦争によって引き裂かれた男と女の哀しみを見事に描き出していました。

話は少しそれますが、少し前に 『少年少女世界文学全集』 を記事にしたとき(3月28日)、いま私の手元にある 『クオレ』 をもう一度読んでみたい、と書きました。
子供の頃の私は、本といえば図鑑や空想科学ものに没頭していて、物語などほとんど興味がありませんでした。
それなのになぜ 『クオレ』 だけに興味を持ったかと言えば、それはこの小説の構造によるところが大きいのです。
基本のストーリーは、イタリアの小学校に通う主人公と友人たちの日常を描いたものです。
それ自体も面白いのですが、月に一度、担任の先生がクラスで「お話」 をしてくれるというのがポイントです。
その 「お話」 のひとつが 『母をたずねて三千里』 であったり、あるいはまた 『難破船』 であったりするわけです。
こうした 「劇中劇」 構造がこの物語最大の魅力で、文学好きではなかった私の心さえも、一気にその世界へ引っ張っていってくれたのです。
その当時、あれほどたくさん持って熱中していた図鑑も空想科学ものも漫画も、今は手元にまったく残っていません。
そのくせ 『クオレ』 だけはいまだに本棚の隅にあるのです。我ながら不思議に思えてなりません。

映画 『ひまわり』 を見る機会はここ何年もありませんが、もし今 『クオレ』 を読み返すと、地平線まで続くひまわり畑のシーンが、あの黄色で一面覆われたシーンが目の前に蘇ってくる ― そんな予感がしているのはなぜでしょうか。

http://www.youtube.com/watch?v=2O6-LLRdwmQ
マルチェロ・マストロヤンニはすでに鬼籍の人です。
ソフィア・ローレンには長生きしてほしい。

色いろいろ③ ― 青 [諸々の特集]

115系・八王子駅:撮影;織田哲也.jpg

文化の流れは川の流れに例えられます。
シルクロードの東の最下流、河口の部分に日本という国があり、あらゆる古代文化が堆積物となってそこに錨をおろしています。
正倉院の宝物 『紺瑠璃杯(こんるりのつき)』 は、ササン朝ペルシアのガラス造形を施したワイングラス様の杯で、コバルトブルーの意匠が鮮やかな一品です。
歴史の教科書でご覧になった方も多いでしょう。
私に 「美しい」 という言葉の意味を初めて感じさせてくれた工芸品が、この 『紺瑠璃杯』 であり、興味の外にあった美術というものに目を向けるきっかけを作ってくれたのでした。

「青」 は空の色、海の色、そして平和の色であり、「知性・冷静・堅実」 などの象徴です。
同時に、blue には 「気の滅入った、憂鬱な、悲観的な、血の気のひいた」 という意味もあり、音楽で言えばブルースの語源となっています。
そのために、精神を開放させたり落ち着かせたりする 「青」 がある一方で、人を不安に陥れる 「青」 もあるといった、両極の効果を併せ持つ 「神秘の色」 となるわけです。
青色が五感に働きかける作用も極端で、分かりやすい例を挙げれば、澄み切った空や海などの青い風景は見たくても、青い食べ物が目の前に出されたら食欲はさっぱり湧かないでしょう。

古代ローマの博物学者プリニウスは、鉱石ラピスラズリを 「星のきらめく天空の破片」 と表現しました。
青い色は、現実世界の存在というより、高い精神性を持った存在にこそ似合う色と言うべきであるかもしれません。

パブロ・ピカソに 『青の時代』 があったのはよく知られています。
ピカソが20代前半の頃で、青色系の絵の具をこれでもかと使った沈痛な作風が目を引きます。
(ぜひ 「ピカソ/青の時代」 で検索してみてください)
初めて美術館でこの頃の作品の前に立った時、私は何度も前のめりによろついてしまいました。
ピカソの代名詞とも言えるキュビズムが 「びっくり箱」 的な世界であるなら、青の時代は 「パンドラの箱」 的な世界と言えるでしょう。
この時代の作品の前では、あるとあらゆる絶望とほんのわずかに残された希望との深淵を、不意に覗き込まされるような錯覚に襲われてしまいます。

ピカソの 『青の時代』 はまさに、計り知れない天賦の才が、体の中で熱くどろどろとかきまわされている状態なのでしょう。
のちに花開くべき狂気の 「蛹(さなぎ)」 と対峙しているような、あまりにも不安定な精神に、この 『青の時代』 の作品は私を引きずり込んでいってしまうのです。

本来は精神を鎮静化させる作用があるはずの 「青」 なのに、どうして私はこの色にこんなにも不安と動悸を感じてしまうのか。
『紺瑠璃杯』 と 『青の時代』 のピカソは、私にとって大きなトラウマとなっています。
性根の腐った女に急所を掴まれた男のように、それらには恨みと憎しみと底知れない愛を、どこまでも引き摺って行かなければならない運命のような気がして、それこそ blue な気分に襲われてしまうのです。
まあ、顔つきは案外、そう深刻でないのかも知れないですけれど。

http://www.youtube.com/watch?v=JSuNImVHWlY
たまにはこんなブルースも…



色いろいろ② ― 白 [諸々の特集]

ロクヨン立川:撮影;織田哲也.jpg

イメージとしての 「対抗色」 は、色相理論上の 「補色」 とは必ずしも一致しません。
補色関係からすると、たとえば私たちが一般的に思い浮かべる 「赤」 の補色は 「青緑」 であり、「青」 のそれは 「橙」 ということになります。
けれどもイメージの面からいえば、「赤の対抗色は何色?」 という質問に、私たち日本人は 「白」 と答えることが多いです。
これは日の丸や運動会の組分けなど、「紅白」 の伝統があるからと考えられます。
同じ質問を西洋人にすると、「赤の対抗色は黒」 という答えが多いそうです。
また 「赤の対抗色は白」 と答えた日本人に、「では白の対抗色は?」 と尋ねると、これが 「赤」 でなく 「黒」 と答える人が多かったりします。
つくづく色彩の放つイメージは、言語感覚のそれと同じくらい面白いものです。

私の高校の制服は、夏は白シャツと決められていましたが、冬は上着の下にブルーやピンクのシャツを着ていても問題ありませんでした。
それでも下着は白が圧倒的主流の時代でした。
女子生徒のぱんちーが白なら、オシャレな男子は精悍なBVDの白ブリーフと相場が決まっていました。
かのゴルゴ13など今でもその習慣です。年に1回くらいの割合で、白ブリーフ一丁でマグナムを構えているゴルゴにお目にかかります。冗談みたいなシーンですが、ここまでくるといっそ潔いと感服せざるを得ません。

白が 「善」 や 「純潔」 の象徴とされるのは、洋の東西を問わず共通した感覚のようです。
神や天使と呼ばれる者は白衣をまとっていますし、ウエディングドレスも白無垢も結婚式の定番です。医者が白衣を着ることも第一に 「清潔」 の象徴です。
また下着やシャツに白が使われるのは、それが死装束の一種であるから、という説もあります。これは武士道との関係の深い話で、いつ闘って討ち死にしてもよい覚悟を定めたものという意味に通じます。

概ね良いイメージの白ですが、果たして本当にそうなのか、私はたいへん疑問に思っています。
というのも、白は 「覆い隠す」 ことを最も得意としている色ではないかと考えるからです。

大雪が降り積もった街は、たとえ普段そこが汚れた場所であっても、積雪のおかげでそのときだけは綺麗に見えたりします。
しかし雪解け後にどれほどがっかりする風景かを考えたら、手放しで喜べない効果です。
「美白」 などと言いながら、結局は白い化粧品を塗りたくるだけのことだってあります。
純白のウエディングドレスの下に、どれほど醜い心が隠されていようとも、清楚で可憐な花嫁を演出することができるわけです。
ビジネスの現場でも、クリーニング返りのホワイトシャツに身を包んだビジネスマン同士が、ドロドロして血なまぐさい思惑を秘めながら笑顔で交渉しているシーンなど、どこにでもころがっています。
そういう意味では、「白」 はたいへん罪深い存在の色です。
覆い隠す術にかけては、「大悪党」 の部類であると言っても過言ではないでしょう。

「善」 や 「純潔」 と「大悪党」 の二面性を持つ白。
長い歴史の中に脈々と生き続ける理由がわかるような気がします。
おそらくこのあと 「黒」 の項で、再度 「白」 にはご登場いただくことになろうかと思います。

http://www.youtube.com/watch?v=zF07JLgHa_M

色いろいろ① ― 赤 [諸々の特集]

石和温泉:撮影;織田哲也.jpg

私が大人用26インチの自転車を手に入れたのは、小学校の4年生か5年生のときでした。
それまでは子供用のを、サドルの位置を目いっぱい上げて乗っていましたが、さすがにそれも危険だということで買ってくれたのです。
その自転車は、フレームが真っ赤のやつでした。
今ではそんなことも珍しくないのでしょうが、私が小学生の頃は、まだまだ赤色は女の子の色というイメージが強くて、男子の持ち物としては考えられないという風潮が主流でした。
だからその自転車に乗ることには躊躇した…、というわけでは全然なく、反対に目にも鮮やかなその赤色がとても美しく感じられ、一目で気に入ってしまったのです。
たしかに 「女色の自転車に乗っとるわ」 とからかう連中もいましたが、気にしぃの私にしては珍しく、お構いなしに嬉々として乗り回していました。

高校生になって少々色気づいてくると、男性向け雑誌のファッション記事にも目が行くようになります。
『平凡パンチ』 だか 『プレイボーイ』 だかのグラビアで、真紅のスリーピースのスーツを着たモデルの写真が載っていて、これは今でも強烈に記憶に残っています。
髪はパーマをかけた長髪、トンボメガネをかけ、スーツの生地はベルベットで、パンツは裾幅が30センチを越えようかというパンタロンになっていました。
アルフィーの高見沢さんがそんなスーツを着ているのを思い浮かべていただければ、どれほど強烈かお分かりいただけると思います。
さすがにそんな服に身を包めるわけもありません。その当時の私の蛮勇は、せいぜい真っ赤なTシャツを着る程度のものでした。

色については、今は本当に自由になったものです。
男性が真っ赤なセーターを着ていても 「おかしい」 という声はなく、女性がカラスの濡れ羽色みたいなスーツを着ていても 「かっこいい」 という声のほうが多いでしょう。
かつては服装だけでなくちょっとした持ち物にさえ、男物と女物の色は明確に区別されていました。
そう考えれば、『坊っちゃん』 に出てくる赤シャツ教頭などはたいしたもので、イヤミと受け取られようが自分の趣味を通すあたりは、さすが明治の名士と評価すべきです。
私も赤のジャケットを、今は平然と着ています。赤いボクサーブリーフだって、7日に一度は穿くローテーションです。
もっともあと数年たつと、赤いちゃんちゃんこです。あんまり着たくはありませんけれど。

赤は炎や血液の色として、危険を表す色と認識されることが多いです。
「赤点」 とか 「赤字」 などの語は、いいイメージではありません。闘争や憎しみといった、尋常でない感情を象徴することもあります。
けれども、人がオギャアと生まれて、最初に識別できる色は 「赤」 だと言われています。
赤は人間の生理的・心理的な側面に、ストレートに働きかける作用を持った色です。
実際、人が赤い色を見ると興奮作用を起こす神経が刺激され、血圧や体温が上がり、気分を高揚させる働きがあるようです。

赤には、高貴な赤と下品な赤があるのも事実です。
黒だと、上品だ下品だといった話はあまり聞きませんが、赤にはそれが明確に存在します。目に映える色だけに、評価の境目が問題とされることも多いでしょう。
そういった微妙な危うさが、また赤の魅力であったりもするわけです。

私がいま使っているモバイル用のPCは、真っ赤なボディーをしています。今日はメインの黒のデスクトップでなく、その小さくて赤いPCからアップしています。
お気に入りの赤がいつも身近にあるというのは、なんとなく気分のいいものです。

http://www.youtube.com/watch?v=p-TlsbhTBIM

きれいはきたない、きたないはきれい ― ⑤ [諸々の特集]

鉄塔頂部:撮影;織田哲也.jpg

少し難しい話になるかもしれませんが、今まで取り上げてきた 「矛盾する概念が実は同じものでできている」 という状況は、弁証法的な構図としてとらえてよいものかどうか考えてみたいと思います。

ヘーゲルの弁証法というのは、まず一つの命題(テーゼ)があり、それを否定する命題(アンチテーゼ)が提示され、両者を統合(アウフヘーベン)することによって、より高度な段階の肯定を生み出す、といった構造を持ちます。
「生と死」 の問題で考えると、「生きる」 という概念と、それを否定する 「死ぬ」 という概念とを統合することで、より高度な 「生」 を得られるといった考え方になります。
「好き嫌い」 の場合は、「好き」 という感情と 「嫌い」 という感情とを統合することで、「好き」 という感情をより強く引き立たせるわけです。
あくまでも概略的な説明ではありますが、いずれにせよ、このような構図になっているということで納得できる話なのでしょうか。

この弁証法的な構図の背景には一神教の発想が色濃くあるように、私には思えてなりません。
たとえば 「生と死」 の問題を弁証法的にとらえるならば、「生」 と 「死」 を対立した命題(テーゼとアンチテーゼ)と考える段階ですでに、生命を生み出した神の側につく立場か否定する立場かといった選択と重なる部分が出てくるからです。
誤解されると困るのですが、私は一神教の教義そのものを否定しようというわけではありません。
「生と死」 の本質的関係を、へ-ゲル弁証法的な構図の中で解釈することが、果たして適切かどうかに疑問を投げかけているだけです。

ここまで私は、「きれいときたない」 「好きと嫌い」 「生きることと死ぬこと」 を引合いにして、それぞれ一見対立する概念が、実は同じものでできているのではないかと述べてきました。
同じものでできているという前提で考えるならば、そもそもそれをテーゼとアンチテーゼに分別することなどできないのではないですか。
2つの相反するものを統合(アウフヘーベン)するという構図は、もとより成り立たない話なのではないでしょうか。
そうではなく、人の世にあるさまざまな事物や概念や感情・思想などは、弁証法的な運動法則で動いているものではなく、もっと混沌とした不定形な生き物の中で、存在が濃くなったり薄くなったりしながら、ゆるやかに結びついているように思えてならないのです。
そう考えれば、自分という存在のとらえどころのなさや、生死の境の曖昧さ、好き嫌いの連続した移り変わりなど、理屈でなく素直に納得してしまえる気が私にはするのです。
皆さんはいかがお考えになるでしょうか。

一連の話題はここまでにしておこうと思いますが、最後にひとこと。「きれいはきたない、きたないはきれい」 についてあることに気づきました。
きゃりーぱみゅぱみゅのスタイルが、まさにその世界の産物でははないでしょうか。
彼女のコスチュームやステージには、可愛いものとグロテスクなものを意識して同居させています。どちらかを抜いたり、極端に偏ったりしたら、その魅力は半減してしまうでしょう。
「可愛いとグロテスクは同じもの」 という忍術で人を妖かせる稀有な才能ではないかと、TVなどで彼女を見かけるたびに感心しています。

http://www.youtube.com/watch?v=B9jaOBwsYdk

きれいはきたない、きたないはきれい ― ④ [諸々の特集]

万願寺橋:撮影;織田哲也.jpg

「生」 と 「死」 の問題を真正面から取り組んでいくと、とてもこんなブログで済む話ではなくなります。だからそんな趣向の論をここで展開しようとはいっさい思いません。
そのうえで、これは理屈ではなく私の実感としてお話するのですが、「生」 と 「死」 は生命という濃度の高いところと低いところという気がしています。
決してある時点を境に、それまでは生きていて、そこを越えると死んでしまうといったデジタルなものではない感じがするのです。感じがする、というのは、今までに死んだ経験がないからあくまで予測でしかないからです。
自分の肉体や精神の活動の中で、日々何かが新しく生産されている一方で、日々少しずつ死んでゆく部分がある。その生命の蠢(うごめ)きを、年齢を重ねるにつれて次第にはっきりと実感できるようになってきたのです。

「生きながらにして死んでいるような日」 というのが、私にはごくまれにあります。
何をすることからも何を考えることからも逃避して、引き籠るかあるいは一日中行方不明になっているかといった、空白の時間です。
そんな日があるのだから、もしかしたら 「死にながらにして生きているような日」 というものも存在するのかもしれないと思うのです。もちろんあの世に行ってからの話ですけれど。
その前提に立てば、「生と死は同じものでできている」 ということも肯定的にとらえられるというわけです。

もちろん私は早く死にたいと望んでいるわけではありません。
けれども、自分の内部に生と死が両方存在しているということを、私はとても嬉しく感じているのです。
生死が向かい合っていたり、隣り合わせに並んでいたりするからこそ、生きている実感が深くなるように思えます。
死は生を輝かせ、生は死を輝かせる。そのことをなんとなく受け入れられるようになっただけでも、ここまで年を取った甲斐があったというものです。

http://www.youtube.com/watch?v=u8eZUBYUZFk

きれいはきたない、きたないはきれい ― ③ [諸々の特集]

匿名の箱:撮影;織田哲也.jpg

もう少し、「好き」 と 「嫌い」 について書きます。
このブログはほぼ3か月続けていますが、その中で私は自分の好きなことや嫌いなことについて記しています。
12月30日の 『リアル(Real)』 や1月22日の 『ケータイが嫌い』 がその典型と言えそうです。
そこで、「好きは嫌い、嫌いは好き。好きと嫌いは同じものでできている」 という視点からこれらの記事をとらえると、どのような解釈になるかを考えてみたいと思います。

『リアル(Real)』 の中で私はリアルが好きだと明言したうえで、次のように書いています。
「夢の向こうにリアルを求めるのではなく、リアルの向こうに夢が広がるのを見ていたいのです」
もちろん本心からそう思っていますし、嘘を書いた覚えはありません。
ただし、なぜリアルが好きか、なぜリアルの向こうに夢が広がるのを見ていたいかという根っこの部分に、夢への絶望があることを私は自分事として知っています。
無垢な子供のように手放しで見果てぬ夢を追いかけて生きていたい、そんな願望の裏返しであることも認めなければならないでしょう。
リアルとドリームは同じものでできている ― そのように言えるかもしれません。どちらにも願望と絶望が同じ程度に含まれている感じがします。
それはまた、「願望は絶望、絶望は願望」 というパラドックスの存在を認めることにもつながるわけです。

『ケータイが嫌い』 では、私は次のように書き綴っています。
「ケータイが嫌いな最大の理由は、『誰でもない自分』 でいさせてくれないことです。……何が悲しくて常時 『誰かである自分』 『どこかに繋がっている自分』 でいなければならないのか……」
こちらのほうはもっと分かりやすい話です。
すなわち 「誰かである自分」 「どこかに繋がっている自分」 という存在が確立しているからこそ、一方で 「ケータイが嫌い」 と主張できるのです。
存在の安心感が、「誰でもない自分」 でいたいという願望を生み出していると言い換えてもよいでしょう。
携帯電話を持ちながら誰からもかかってこないならば、私はきっと 「ケータイが嫌い」 とは言いません。
匿名への願望は明らかに、実名の自分の心から発生しているわけです。

こんな話を突き詰めていくと、「生きることは死ぬこと、死ぬことは生きること。生と死は同じものでできている」 という究極に到達してしまいます。
このパラドックスをいかがお考えでしょうか。
はたしてナンセンスなのか、メビウスの輪のような曲面を有するものなのかを。

(この項、続く)

http://www.youtube.com/watch?v=BHa7awWAJJ4
1960年代の香り満載、コニー・フランシス。
少しは今日らしくしないと。

きれいはきたない、きたないはきれい ― ② [諸々の特集]

某所②:撮影;織田哲也.jpg

今日がバレンタインデーだからというわけではありませんが、「好き」 と 「嫌い」 について考えてみます。
「好きは好き、嫌いは嫌い、この際はっきりさせましょう」 といった台詞がある一方で、
「嫌いきらいも好きのうち」 などという調子のよい文句も昔から伝えられています。
あえて 「この際はっきりさせ」 なければならないということは、好きと嫌いの境目が曖昧であることを証明しているようなものですね。

たとえば愛する人がほかの誰かに浮気をする。
そのことがあなたの知るところとなって、あなたは彼もしくは彼女を激しく憎みます。
なぜ憎むかといえば、それはあなたが彼もしくは彼女を愛しているからです。まさに「愛憎こもごも」 という両極の感情があなたの中に存在することになります。
こうした心理は 「アンビバレンス」 と呼ばれ、両面感情とか両面価値といった訳をあてることもあります。

ひとたび好きになった物事や人を嫌いになるためには、相応のきっかけや理由が必要です。
反対に、今まで嫌いだった物事や人を好きになるためにも、相応のきっかけや理由が必要です。
いろんな要素が混じって好きから嫌いへ、嫌いから好きへと感情の移行があるのと同時に、双方の価値が同じ心の中に同居するアンビバレンスな様相を考え合わせると、好きと嫌いを1本の数直線上に並べて位置づけることは到底できないことがわかります。
好き・嫌いの心理を強いて表現するなら、同じ物質でありながら、+イオン化されたものと-イオン化されたものが、混沌と入り混じった水溶液といった感じではないでしょうか。

「好き」 という感情を持つとき、人は不用意であることが多いです。
ところが 「嫌い」 という感情を持つときは、大きなエネルギーを必要とするはずです。
「愛」 よりも 「憎」 の感情のほうがパワーを持つのはそのためと言えるでしょう。
これは、愛に盲目になっているうちはまだよいが、憎に盲目となってしまっては大きな不幸を呼んでしまうことがあるということを意味します。実際にそんな事件はいくつも起こっています。

「好きは嫌い、嫌いは好き。好きと嫌いは同じものでできている」
このことを心の隅に置いておくことで、大きな不幸を回避できる可能性がほんの少し高まる気もするのですが、いかがでしょう。

なお 「好きと嫌いは同じものでできている」 という言葉は、25年も前に漫画家の西原理恵子さんがメジャー・デビュー作 『ちくろ幼稚園』 で書いていたと記憶します。
どうして彼女は、こんな大切なことを20代の若さで知るようになったのか、驚嘆ものです。
いや、私だって薄々は気づいていましたけれどね。
このようにはっきりと言い切ってしまわれると 「それホントなの?」 とつい疑いたくなるわけで、正面から認める勇気をこれまでなかなか持てなかったのが実態です。

http://www.youtube.com/watch?v=bN7il6rlLyY

きれいはきたない、きたないはきれい ― ① [諸々の特集]

某所①.jpg

「きれいはきたない、きたないはきれい」 ― 私はマザーグースの一節として認識していました。
それも事実ではありますが、シェイクスピアの戯曲 『マクベス』 の中の有名な台詞だということはあとで知りました。
この言葉は、哲学的に解するならば幾通りもの解釈があり、私もそれなりに聞き覚えがあります。
ここで難解な存在論を展開するつもりは毛頭ありません。ただ、案外身近なところにこの言葉の指すものが宿っていると思うわけで、そのことを少し認めていきます。

こういう例で考えてみましょう。あなたが純白のユニフォームやシューズを身に着けて、何かの試合に臨んだとします。
白熱した試合で我を忘れてプレーし、ゲームセットを迎えます。チームは勝利を収めましたが、純白のユニフォームは汗や土で汚れてしまいました。
「いやあ、真っ黒になってしまったよ」 と、あなたは思います。
けれども客観的に見ると、白いままの面積は依然多くて、汚れた部分はせいぜい20%ほどです。
それでもあなたは 「真っ黒によごれてしまった」 という表現をし、チームメイトも 「まったくそうだ」 と同調したりします。

その逆の例も考えられます。あなたは試合で泥まみれになった靴を洗っています。
たわしでゴシゴシこすっても、泥はなかなか落ちてくれません。表面的には落とせても、靴には明らかに泥の色が染み込んでいます。
それでもあなたはある程度の汚れが落ちれば、「よし、きれいになったぞ」 と思います。
もとの純白にはほど遠い色になり果てた場合でも、そう考えてじゅうぶん納得できるのです。

この例を、人の心の問題として組み立て直してみます。
いつも清廉潔白な思想や行いを心がけている人が、つい出来心で悪事を犯してしまった、あるいは他人を貶めてしまった。
きれいだった心が汚れてしまった、あるいは自ら汚してしまった。そんなふうに解釈して、その人は頭を抱え絶望しまうのではないでしょうか。
一方、普段から悪事を重ね身も心も汚しつつ反省もなかった人が、あるときふと罪悪感に目覚めて、悪の世界から足を洗う決心をした。
積み上げてきた穢れはなかなか浄化されないものの、その覚悟と行いによっては、時間をかけて心身を清めていくこともできるとその人は希望に燃え立つかもしれません。
ここに、「きれいはきたない、きたないはきれい」 という、一見矛盾しているような論理を現実の問題としてとらえることができるのではないでしょうか。

ややこしい話ですが、こうしたパラドックスを成立させる条件はひとつある、と私は考えます。
それは、「『きれい』 と 『きたない』 は同じものでできている」 という根本的な見方です。

(この項、続く)

http://www.youtube.com/watch?v=B201O63uqhk

ギャンブルの話② [諸々の特集]

シルエット:撮影;織田哲也.jpg

こう見えても(いや、見えてないことも多いでしょうが)、ある時期、麻雀で小遣い稼ぎをしていたことがありました。
戦績はなかなか上等で、負けることはあってもお金に困ることはなかったのです。
そんな頃、麻雀に詳しい人なら必ずその名を知っているプロ雀士の人に、勝負の哲学を教えてもらったことがあります。もちろんさわりだけでしょうが、私にとっては目から鱗のお話が多々ありました。

そんな話の1つに、「勝負に汲々とするな」 というのがあります。
心に余裕を持っていないと、勝てる勝負も勝てなくなってしまうというものです。
麻雀で最初に配られる牌のことを配牌と呼びますが、私などは配牌がどんなに悪くても最後には必ず勝ってやろうというつもりで勝負に挑んでいました。
けれどもそれはプロ雀士に言わせれば、素人がギャンブルで失敗する根本なのだそうです。
たとえプロであっても、この配牌では勝負できないと思ったら、勝負に出ないのが常道との話です。
まずは勝てる手かどうか判断して、勝てない手ならさっさと諦める。その局は、負けないことに徹することが必要だと教えてもらいました。
簡単なことのように思えますが、勝つことが最上と思い込んでいる頭では、これができないのです。

プロは徹底した現実主義であるからこそ、プロたり得るわけです。
「素人はすぐに腹をくくる」 とも言われました。
すべての局面で勝つことだけに集中してしまうと、引くことのできないところに自分で自分を追い込んでしまいがちです。
勝てる確率が低いのに 「よし勝負だ!」 と強気一辺倒で腹をくくる。まるで麻雀漫画のように。それをギャンブルの神髄と信じ込んでいるのが、まったく勘違いということです。
素人は勝負に傲慢で、プロほど謙虚なのだということを知らされました。
そういうことがあってから、私は急速にギャンブルから疎遠になりました。
雀荘で勝負に汲々としている人たちから距離を置かなければならないと実感したからです。

人生でギャンブルをする場面は何度かくるでしょう。
そうした場面でこそ、傲慢でなく謙虚でいなければならないと私は思います。
「謙虚なギャンブラー」 などと言えば、意味が通じないか、あるいはセコイ賭けしかできないようなチキンと思われるかもしれません。
けれどもというか、だからこそというべきか、安っぽいギャンブルの誘惑には今は乗りたくないと思っています。
腹をくくるときは、それだけの価値があるかどうかじっくり考え、さんざんチキンハートを巡らしたあとで独り穏やかにくくりたいものだと考えているのです。

http://www.youtube.com/watch?v=TXOMPwBxILg
何人もこの曲をカバーしていますが、今日はなぜかこの人の声を聴きたくなりました。

キャンブルの話① [諸々の特集]

豊田駅E233上下線:撮影;織田哲也.jpg

「ギャンブルの話」 というテーマですが、最初に申し上げておきます。
ワタクシは基本的に、ギャンブルをいたしません。
よく 「飲む・打つ・買う」 が男の甲斐性だと言われます。私は 「飲む」 は人一倍たしなみますが、 「打つ」 に関しては今はまったく興味がありません。
ちなみに 「買う」 については、私は女性をお金で買ったことはありませんとお答えいたします。隠し事はしても嘘はつかないのがこのブログのお約束です。

唯一ギャンブルをするとすれば、取引先や同業者から麻雀に誘われた場合、それに応じることくらいです。それも1年に1度あるかないかで、勝っても負けてもたいした話ではありません。
パチンコに至ってはもう何年も前、興味半分にCRエヴァンゲリオンの初期型を打ったのが最後です。

なぜギャンブルをやらないかといえば、第一には総じて弱いからです。弱いと当然お金を失います。
麻雀だけはそれなりに自信も実績もありますが、それ以外は本当にさっぱりです。
お金を遣わないことに執着しているのではなく、たとえ浪費をするにしても運まかせのことに遣いたくない。パチンコに何万もつぎ込むくらいなら、ドンペリニオンのシャワーを浴びたほうがはるかに良いと考えるからです。

そしてギャンブルをしない理由の第二にあげられるのが、必要以上に 「勝ち負け」 に拘った生き方をしたくないということです。

仕事でも対人関係でも何にでもあてはまりますが、常に勝ちと負け以外の価値観が存在しないという発想する人がいます。
自分は人より抜きん出ていたい、相手より上位にいなければ我慢できない、鼻息荒く肩をいからせて道の真ん中を行かなければ満足できない人たちです。
皆さんの身のまわりではいかがですか。私はそんな人を少なくとも10人は知っています。
ギャンブルにのめり込むと、知らず知らずそんな人たちの仲間に入ってしまいそうな心持ちになる、そのことが嫌であり、自分にとってマイナスの結果しか生まないことを教えてもらったからです。

http://www.youtube.com/watch?v=duOs7c0byXI

江戸・上方いろは歌留多④ [諸々の特集]

シルエット:撮影;織田哲也.jpg

(左側:江戸 / 右側:上方)

〔あ〕 頭かくして尻かくさず / 足下から鳥が立つ
〔さ〕 三遍回って煙草にしよう / 竿の先に鈴
〔き〕 聞いて極楽見て地獄 / 義理と褌(ふんどし)は欠かされぬ
〔ゆ〕 油断大敵 / 幽霊の浜風
〔め〕 目の上のたん瘤 / 盲の垣覗き
〔み〕 身から出た錆 / 身は身で踊る裸ん坊
〔し〕 知らぬが仏 / 吝(しわ)ん坊の柿の種
〔ゑ〕 縁は異なもの味なもの / 縁の下の舞い
〔ひ〕 貧乏暇なし / 瓢箪から駒
〔も〕 門前の小僧習わぬ経を読む / 餅は餅屋
〔せ〕 背に腹は代えられぬ / 栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し
〔す〕 粋(すい)は身を食う / 雀百まで踊り忘れず
〔京〕 京の夢大阪の夢 / 京に田舎あり

「三遍回って煙草にしよう」 「三遍回ってワン」 とは何の関係もありません。回るとは夜回りをすること。休憩は十分に仕事を果たしてからにしようという戒めです。耳が痛い。
「義理と褌は欠かされぬ」 そりゃそうですが、何も義理とふんどしを同列に扱わなくてもなあ。あ、そうか。どちらも金を包むのだ。
「幽霊の浜風」 幽霊も強い塩気を嫌うということ。見た人いるの? 「青菜に塩」 と同意。
「吝ん坊の柿の種」 ケチな人はつまらないものでも捨てられないということ。

「身は身で踊る裸ん坊」 どんな境遇でもそれなりの生き方はできるものだ、ということを表します。
この 「裸」 はもちろん衣服を着ていない状態ではなく、財力も権力もなくて自分の身一つ、無一物という意味。「裸一貫」 などという言い方もあります。
また 「裸で物は落とさず」 =財産を持っていなければ損をすることもない、といった諺もあります。
長い人生、裸で無一文の状態になってしまうことだってあるでしょう。でも、それはゼロの状態に戻っただけの話。明日は明日の風が吹くと希望を持つことが大切なのです。
下手にお金や名声に固執すると、それこそ 「吝ん坊の柿の種」 になって、楽しいはずの人生を狭っ苦しいものにしてしまうことになりかねません。
また裸の状態でいることを恐れるあまり、何とか手元にお金が欲しい。そんな焦りが災いし、借金に借金を重ねて縊れてしまっては大きなマイナスをあの世に積んでしまいます。
「身は身で踊る裸ん坊」 滑稽な言い回しですが、含むところは意外に大きい気がします。

http://www.youtube.com/watch?v=yAoznLKG8XE
この映画のキャサリン・ロスは可愛かったです。

江戸・上方いろは歌留多③ [諸々の特集]

春待つ畑②:撮影;織田哲也.jpg

(左側:江戸 / 右側:上方)

〔う〕 嘘から出た真 / 氏より育ち
〔ゐ〕 芋の煮えたの御存知ないか / 鰯(いわし)の頭も信心から
〔の〕 喉元過ぎれば熱さ忘れる / 鑿(のみ)といえば槌(つち)
〔お〕 鬼に金棒 / 負うた子に教えられて浅瀬を渡る
〔く〕 臭い物には蓋をする / 臭い物には蠅がたかる
〔や〕 安物買いの銭失い / 暗夜(やみよ)に鉄砲
〔ま〕 負けるが勝ち / 撒かぬ種は生えぬ
〔け〕 芸は身を助ける / 下駄に焼味噌
〔ふ〕 文はやりたし書く手は持たぬ / 武士は食わねど高楊枝
〔こ〕 子は三界の首っかせ / これに懲りよ道才坊
〔え〕 得手に帆を上げ / 縁の下の力持ち
〔て〕 亭主の好きな赤烏帽子(えぼし) / 寺から里へ

「芋の煮えたの御存知ないか」 芋の煮え時もわからない世間知らずめ。
「鑿といえば槌」 親方が 「鑿を持ってこい」 と言ったら、一緒に 「槌」 を持っていくぐらいの才覚を示せという意味。んなこと言われてもねえ。
「下駄に焼味噌」 下駄と焼味噌を焼く板とは 「似て非なるもの」 ということ。
「これに懲りよ道才坊」 一度懲りたら二度と失敗を繰り返すなという意味。 ところで道才坊ってだれ? 驚くなかれ意味は全くないそうです。
「亭主の好きな赤烏帽子」 赤い烏帽子をかぶるとは何と奇抜な。でも亭主(=権力者)様のすることは何でも通ってしまうのです。
「寺から里へ」 寺のほうから檀家に贈り物をするのは不思議。つまり物事があべこべであることのたとえ。

「武士は食わねど高楊枝」 武士は生活に困窮して空腹でも高楊枝をくわえて見栄を張る。
歌舞伎 『伽羅先代萩』 の中で武士の子が、「腹が減ってもひもじゅうない」 と忠義を説くシーンがあります。子供にそんな台詞を吐かせたらアカンやろ。
この札が江戸のではなく上方の歌留多に含まれているところが、皮肉っぽくてよろしい。

http://www.youtube.com/watch?v=e-izjhgVm0Q
この映画、もう少し評価されてもいいのに。

江戸・上方いろは歌留多② [諸々の特集]

下り115豊田を走る:撮影;織田哲也.jpg

(左側:江戸 / 右側:上方)

〔わ〕 破れ鍋に綴じ蓋 / 笑う門には福来たる
〔か〕 癩(かったい)の瘡(かさ)うらみ / 蛙の面に水
〔よ〕 葦(よし)の髄から天井のぞく / 夜目遠目笠の内
〔た〕 旅は道連れ世は情け / 立て板に水
〔れ〕 良薬は口に苦し / 連木で腹を切る
〔そ〕 惣領の甚六 / 袖擦り合うも多生の縁
〔つ〕 月夜に釜を抜かれる / 月夜に釜を抜かれる
〔ね〕 念には念を入れよ / 猫に小判
〔な〕 泣きっ面に蜂 / 済(な)すときの閻魔顔
〔ら〕 楽あれば苦あり / 来年のことを言えば鬼が笑う
〔む〕 無理が通れば道理が引っ込む / 昔操った杵柄

「癩の瘡うらみ」 は、らい病(ハンセン氏病)患者が梅毒患者を恨むということ。自分より少しましな不幸者でも恨んでしまうといった意味で、これが歌留多という正月の遊びとは思えない内容です。
「連木で腹を切る」 の連木とはすりこぎのことで、すりこぎで切腹などしようがない、つまり実現不可能なことという意味。
惣領とは長男のこと。「惣領の甚六」 は、長男は頼りなくて役に立たないという意。私も長男です、悪かったですよ。
「月夜に釜を抜かれる」 とは、月夜の明るい晩でも釜を盗まれるという、油断を戒めた諺。
「済すときの閻魔顔」。お金を借りる時はこびへつらっていても、借金を返すときは閻魔のように不愉快な顔をするというたとえ。ま、人とはそういうものです。

「袖擦り合うも多生の縁」 を 「多少の縁」 とするのは間違い。
仏教の世界観には六道輪廻(りくどうりんね)というものがあって、魂は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六つの世界を行ったり来たりするものと説かれています。
この世で袖を擦り合っただけの人でも、いずれかの前世、六道のどこかで知り合った縁があるものだというのが、この文句の真意です。
だから縁(えにし)というものを大切にしてください。ほんの少し知り合っただけの友達でも、本来はとても深い魂のつながりがあるかもしれないのですから。
自戒を込めて。

http://www.youtube.com/watch?v=oU7JWTtJaL4

江戸・上方いろは歌留多① [諸々の特集]

春待つ畑:撮影;織田哲也.jpg

いろは歌留多にも東西があります。ほとんどの場合、違った文句が当てられていてたいへん興味深かったので、今回から4回に分けて紹介してみたいと思います。

(左側:江戸 / 右側:上方)

〔い〕 犬も歩けば棒にあたる / 一寸先は闇
〔ろ〕 論より証拠 / 論語読みの論語知らず
〔は〕 花より団子 / 針の穴から天井のぞく
〔に〕 憎まれっ子世にはばかる / 二階から目薬
〔ほ〕 骨折り損のくたびれ儲け / 仏の顔も三度
〔へ〕 屁をひって尻窄(すぼ)め / 下手の長談義
〔と〕 年寄りの冷や水 / 豆腐に鎹(かすがい)
〔ち〕 塵も積もれば山となる / 地獄の沙汰も金次第
〔り〕 律義者の子沢山 / 綸言(りんげん)汗のごとし
〔ぬ〕 盗人(ぬすっと)の昼寝 / 糠(ぬか)に釘
〔る〕 瑠璃も玻璃も照らせば光る / 類をもって集まる
〔を〕 老いては子に従え / 鬼も十八

「綸言汗のごとし」 は、一度出た汗が再び体内に戻らないように、君主の言は一度口から出たら取り消すことができないという意味。重い。
「鬼も十八」 は、鬼のようにみにくい娘も年頃にはそれ相応に美しく見えることのたとえで、あとに 「番茶も出花」 と続けて言います。セクハラという概念がなかったころの遺産。
「律儀者の子沢山」 笑えます。こんな札で遊びながら、子供に何を教えようというのか。

中学か高校で少しは学んだ 『論語』 ですが、多くは 「子曰く(しのたまわく)」 で始まります。「孔子先生がおっしゃるには」 という意味。
内容がわからなくてもとにかく読んで覚えてしまえ、といった教育が昔はなされていたようで、「論語読みの論語知らず」 は知識だけあって内容の伴わない人たちを皮肉った言葉です。
英語では、A learned man who cannot make good use of his knowledge. とか He reads Analects without understanding it. などと表されています。
A learned fool という言い方もあるようで、辞書では 「知識人ばか」 の訳がついています。
『徒然草』 にも同類の人はたくさん登場していて、兼好法師の格好の餌食となっています。

http://www.youtube.com/watch?v=kTQJ2QiK4QU

正義のシ者② [諸々の特集]

ホリデー快速河口湖:撮影;織田哲也.jpg

悪人と交われば悪に染まることもあり得るので、できれば避けたいのは当然でしょう。
では正義漢と交わればいつも正しい人でいられるかといえば、これにはおおいに疑問があります。
悪いとわかって悪事を働くとき、人は一方でそのことにためらいを感じたり、しでかす行為に限界のあることが多いように思えます。
例えばちょっとしたイタズラをする場合でも、ここまでやったら手を引くというポイントをあらかじめ決めておいたり、予想以上の迷惑を誰かにかけてしまったときは素直に非を認めて謝ったりします。そんな経験はないでしょうか。
ところが心に断固とした正義をもって何かを主張するとき、行為者にはためらいがありません。
躊躇なく他者を排斥して自己を主張し、ときには強引な手段や暴力にまで発展することがあります。
なにせ「正義は我にある」わけですから、それに逆らう状況や反対の主張をする人はすべて「正義ではない」ということになるからです。
私は「正義」という拳をことさら振り回す人を、悪人と同じ程度に避けたいのです。
「正義」の名のもとに残虐な行為を重ねてきた、それが人の歴史の一面でもあります。
正しいことをしながら悪いこともする、また悪いことをしながら正しいこともする、それが人間という存在であると知るところから、隣人への愛が生まれるのではないでしょうか。
「善人」と「悪人」を比べるとその差はほんのわずかしかないように思えますが、
「正義」と「愛」を比べると、後者の数は圧倒的に少ないのです。

http://www.youtube.com/watch?v=5tOFv5uP6e8

正義のシ者① [諸々の特集]

横浜線(みなみの大橋より):撮影;織田哲也.jpg

若い頃は何に対しても攻撃的だった私ですが、年齢を重ねるにつれ、自分が引くことで無益な争いを避けられるならその道を選択しようという身の処し方を、いくぶんなりとも使えるようになりました。
ただ常に仏のような心でいられるはずもなく、腹の立つときは修羅のごとき姿を露呈してしまいます。
2人の人が言い争っているとき、どちらか一方の意見がどこをとっても正しくて、他方の意見があからさまに誤ったものであることはまずありません。
そんな場合はそもそも言い争いにならない、正しいことは正しく誤りは誤りだという認識は、多くの人に共有されやすいものだからです。
争いが起きるのは「正しいか誤りか」ではなく、「どちらも正しい」からというのが原因です。
一方の主張する正しさと、他方の主張する正しさがぶつかり合う。
お互いが自分の正義を武器に相手を飲み込もうとするのが争いなのです。
相手の正義に飲み込まれたくないために、ますます声高に自分の正義の主張をエスカレートさせていくわけです。
そんな争いの数だけ、生きている実感を積み重ね(罪重ね)てゆくタイプの人もいるのです。

http://www.youtube.com/watch?v=oYCdKG5xg68

『徒然草』のこと③ [諸々の特集]

ビューやまなし:撮影;織田哲也.jpg

『徒然草』第百九十段
― 妻(め)といふものこそ、男の持つまじきものなれ。「いつも独り住みにて」など聞くこそ、心憎けれ。
(妻というものは、男の持つまじきものである。「今も独身なのですが」などと聞くと、相手の人格が高潔に思われる)

〈途中要約〉
… 「こんな女を嫁にもらいました」などと聞くと、本当にがっかりさせられる。所詮、たいしたことのない女を素晴らしいと思い込んで結婚しただけに違いないのだ。
ましてや、家内をきちんと切り盛りする女はさらにくだらない。子供ができて溺愛する姿など、全くうんざりだ。
どんな女でも朝に夕に顔を突き合わせていれば嫌な面が見えてきて、そのような状態は女にとっても中途半端だろうに。…

― よそながら、時々通ひ住まむこそ、年月経ても絶えぬ仲らひともならめ。あからさまに来て、泊まりゐなどせむは、珍しかりぬべし。
(離れて暮らしながら、男が女のもとへ時々通ってきて泊まるような関係であれば、何年経っても変わらず仲むつまじくいられだろう。突然来訪して、「今夜は泊るよ」などとささやいた日には、きっと刺激的な一夜になるに違いない) (筆者翻案・要約)

オイオイ、そんなこと書いちゃっていいの? あんた一応出家したお坊さんなんだろ?
ツッコミを入れたくなるほど、モダンでニヒルな感覚に驚かされます。
男の一方的な言い分と言ってしまえばそれまでですが、これほどの啖呵を切れる人物が後醍醐天皇の時代に生きていたことを、器の小さい私などはある意味誇りにさえ思ってしまうのです。

さて、『徒然草』に関してはここまでにしておきます。とっつきやすそうな部分の紹介まで。
門外漢がエラそうに講釈を垂れるべき舞台ではなし、興味のある向きは専門のサイトがたくさんありますので、そちらでお楽しみください。
なお最近、角川ソフィア文庫から『ビギナーズ・クラシックス』と称する古典文学の文庫シリーズが出版されていることを知りました。
『徒然草』も当然シリーズに含まれており、全編にわたってユーモア溢れる現代語訳がなされています。秋の夜長のお供にいかがでしょうか。

http://www.youtube.com/watch?v=UD9hWcTaIv8

『徒然草』のこと② [諸々の特集]

八高線が浅川を渡るその時:撮影;織田哲也.jpg

高校時代の古典の授業で『徒然草』が扱われたのは、第百九段「高名の木のぼり」でした。

― 木登り名人と呼ばれる男が、人に指図して木に登らせ枝切りをさせている。
高く危険なところで作業をしている間は何を言うこともなかったが、作業者が軒の高さくらいまで降りてきたとき、はじめて「注意して降りよ」と声をかけた。
それを見ていた兼好が「この程度の高さならば飛び降りることも可能だろうに、どうしてそんなことを言うのかね」と問うと、
名人「危険なときは本人も気をつけているから注意しなくても大丈夫。なんでもないところの気の緩みから失敗をしちまうんですよ」と答えた。
これに意を得た兼好、「身分の低い男だが言うことは聖人の戒めに似たり」と、ポンと膝を打ったのである。(筆者要約)

『徒然草』の中で兼好は、貴族や宗教人をこっぴどくこき降ろす筆を随所に走らせていますが、
その一方で俗世に健気に生きる庶民に温かな眼差しを向けています。
高校時代に読んだとき、「なるほど、この話は現代人にも通じる教訓だ。時代を超えて偉いことを言うなあ」などと感心しましたが、
次の授業までに全文暗唱してくるよう指示され、閉口してしまったものです。

http://www.youtube.com/watch?v=Wt4vGl4VbWc

『徒然草』のこと① [諸々の特集]

大和田方面より望む浅川橋梁:撮影;織田哲也.jpg

― つれづれなるままに、日暮らし硯に向かひて、心にうつりゆく由なしごとを、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそもの狂ほしけれ。
(今日は暇にまかせ独りくつろいで、一日中机に向かって、心に浮かぶ気まぐれなことを、思うがままあてもなく書き付けてみると、なにか超俗的な世界に引き込まれていくような気になってくる。:筆者翻案)

八王子みなみ野駅近くのくまざわ書店でふと手にした一冊の本、それが『徒然草』でした。
世俗の論理にまみれた情報ばかり相手にしている私には日本の古典に親しむ趣味はなかったのですが、その時はなぜかその本が「おいでおいで」をしているような気がして、車中の読み物としてためしに買ってみたわけです。
著者の吉田(卜部)兼好は今から700年ほど前の教養人で、若くして宮中の役人(今でいう中央官僚)となりますがその後出家。
出家の理由は数々あれど、つまるところ兼好自身の出世に沿わない性格に帰すると言われています。
しかし京都で隠者として生きたと一言で片づけるわけにはいかない、どっこいこの隠者、ただの世捨て人でないことは随筆『徒然草』を読むとわかってくるのです。
世間から一歩引いた、しかし真正面から無常を見つめていく不安定な立ち位置を巧妙にキープして、時には皮肉たっぷりに人の世のくだらなさを観察し記しています。
されども彼が本心では人のいのちのはかなさに深く愛おしさを感じていることが、『徒然草』を手に取る読者に心地よい安らぎを与えてくれるのも一面の真理と思えるのです。

http://www.youtube.com/watch?v=EjV4nHYoj48&feature=fvwrel
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