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廃語の風景⑮ ― 液体ドロース [廃語の風景]

京王7000系・堀ノ内:撮影;織田哲也.jpg

小学校3年生になると、体育のメニューにソフトボールが加わりました。
少年野球チームに入っていた友達は大いに張り切っていましたが、当時私は身体が小さくて弱かったため、野球道具のひとつも持っていませんでした。
学校で必要だからということで、父親をスポーツ用品店に誘い出し、グラブとボール、バットを買ってもらいました。
さすがに専用のシューズやユニフォームはねだりませんでしたが、これで一応、戦闘態勢が整ったわけです。
そのとき、スポーツ店のオヤジに勧められて一緒に買ったのが、ガラス瓶に入った保革用の油 『ドロース』 でした。

ドロース自体は現在も販売されていて、グラブの手入れにはポピュラーらしいです。現在はスチール缶に入ったクリーム状のものとなっているようで、私が買った液体状ではありません。
ともあれ、帰宅した私は早速、古い布切れにドロースをたっぷり沁み込ませ、買ってもらったばかりのグラブに塗りつけました。
ドロースは機械油ともガソリンとも違う独特の匂いがして、これが革の匂いと混ざると、いっそう際立った芳香を放ちました。
グラブを顔に押し当てて息を吸い込むと、まだキャッチボールさえしていないのに、なにか自分が野球の名選手になったかのような錯覚を起こさせてくれたものです。

最初のうちはスポーツ店のオヤジに教わったように少量ずつ使っていましたが、そのうち瓶を振ってはドバドバぶっかけて、グイグイと塗り込むようになっていきました。
グラブの革、とくにボールを受ける側の面は、みるみる黄土色からこげ茶色へと変化していきました。
あまり多量に塗るとグラブが重くなるというアドバイスはもらっていましたが、そんなことお構いなしになってしまったのは、ひとえにグラブを柔らかくしたいためと、ドロースの匂いをより強烈なものにしたいためでした。
グラブを外すと、左手にまでその匂いがついてしまいました。それがまた嬉しかったのです。一種のフェティシズムといって過言ではなかったでしょう。

一方で、道具に思い入れたがあったほど、ソフトボールの腕前は上達しません。
それはほかの友達も似たようなもので、普段から野球チームに所属している者の活躍だけが目立っていました。
本当は内野手をしたかったのですが、とうてい力が及ばないので私は外野にまわることが多く、打順はいつも末尾に近いところを占めていました。
ホームベースから遠く離れてポツンと佇(たたず)み、グラブの匂いを嗅いだりしながら、いつかはサードで4番を打ってやるとひとりごちていました。そう、あの長嶋のように。

当時、大阪でも下町のほうには、昼間から何をするともなくぶらぶらしていて、そのくせ子供にだけは愛想のいいおじさんが何人かいました。
親に尋ねると、「あれは遊び人だ」 と言い、「相手にするんじゃない、何かくれようとしても断ること」 と念を押されました。
あとになって知ったのですが、大阪はとりわけしっかり者の女衆が多く、小物屋や美容院や喫茶店などを切り盛りしていることが多々ありました。そんな女房の旦那は案外ぼーっとしていて、たまに店を手伝う以外はぶらぶらと一日過ごしているケースも稀ではなかったのです。
で、私たちが公園で下手なソフトボールに興じていると、そんな遊び人のおじさんがどこからともなく現れて、「俺がコーチしてやろう」 などと話しかけてきたものです。「あとでジュースをおごってやるから」 と。

おじさんたちは決まって、阪神タイガースの野球帽をかぶっていました。
ジュースやお菓子をおごってもらいながら、私たちはタイガースの選手がどれほど優秀で人情に溢れた人物であるかということを、講談さながらにさんざん聞かされました。
その影響力たるや、重大なものです。私自身もあっさり長嶋をやめ、阪神タイガースのファンに鞍替えしていきました。
昭和39年、東京オリンピックのあったこの年、セ・リーグの覇権は見事、阪神タイガースの手に握られたのです。
そのあと昭和60年に日本一となるまで、21年間も優勝から遠のいてしまうなどという未来は、誰にも予測のつかないものでした…。

私が子供の頃の街には、工場の油や鉄錆の匂いとか、ドブの臭気がどことなく漂っていました。
少し市街地を離れると田畑があり、人糞の臭いが鼻をつきました。
煙草やコーヒーの香りは、まだ見知らぬ大人の魅惑の世界を想像させてくれたものです。
考えてみると嗅覚が引き金となっている子供の記憶は、大人になってからのそれよりもずっと現実の重みを感じさせてくれるようです。
ドロースの匂いの向こう側に優れたプレーヤーになる夢を見ていた当時は、もしかすると今よりもその嗅覚の分だけ豊かな時代だったかもしれません。

http://www.youtube.com/watch?v=w6b9FWKZwQg
映画 『バッテリー』 主題歌
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