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廃語の風景⑫ ― 続・ワードプロセッサ [廃語の風景]

EF210貨レ西国分寺駅通過:撮影;織田哲也.jpg

30歳で独立した頃は神田神保町に事務所がありました。
こう言えば聞こえはよいのですが、実際は某広告代理店の関連の出版社が開店休業状態となっていたところに、間借りしていたわけです。
最初のワープロはこのときに導入したのですが、その後は新しい機能を備えた機種が次々と出回るようになりました。しかもどんどん値段が安くなっていきます。
神保町から秋葉原へは、歩いてでも行ける距離です。
メイド喫茶もAKB劇場もまだなかったアキバに、私は足しげく通いました。電気街巡りは中学時代から大阪・日本橋で修業を積んでいたため、お得意のものです。
目的は、ワープロも含めて進化するOA機器に、実際に触れて回ることでした。

当時、ワープロの辞書機能を計るのに、難解な熟語が変換できるかどうかがひとつの目安になると言われていました。
電器店の店頭に新機種のワープロがあると、私もついついその機能を試してみたものです。
例えば 「ちみもうりょう」 と入力して、「魑魅魍魎」 という 「鬼へん」 の文字が4つも続くおどろおどろしい熟語に変換できるか、といった具合です。
あるいは、「五月雨(さみだれ)」 「陽炎(かげろう)」 「蜻蛉(とんぼ)」 「祝詞(のりと)」 「長閑(のどか)」 といった熟字訓が変換できるかも、興味と試験の対象となっていました。
ついでに言えば、ワープロの黎明期にいろんな機種に触れてまわったおかげで、自然と機器の扱いやキーボード操作に熟練するようにもなっていきました。

そして、意外な効果があったと思えるのは、ワープロ操作を通じて言語そのものへの興味が深まったことでした。
文書を手書きしていた時代は辞書を引くのが面倒なので、複雑な漢字での表記を避けたり、ほかの言い回しに変えたりする傾向がありましたが、キー操作ひとつで変換できるとなるとそんな手間が大きく省けるわけです。
言語のキーボード化は、一方では漢字を覚えなくなったというマイナスも生みましたが、他方で漢字や熟語、日本語への興味といったプラス面が発達したことも否定できないでしょう。
これまでに何度か起こったいわゆる 「日本語ブーム」 に、ワープロの広まりが影響を与えたということは、多くの人が認めるところです。
だから 『書院(シャープ)』 だの 『文豪(NEC)』 だのと大袈裟な名前のついた機種があったのか、と今になって思う次第です。

パソコンを使うようになって以来、(一部のDTP編集機を除いて) ワープロ専用機を使うことはなくなりました。
大型リサイクルショップ、例えば HARD OFF のいちばん奥にはジャンク品を積み上げたコーナーがあります。そこを自らの墓場と決め込んだワープロ専用機もしばしば見かけます。
個々の機器は流れの速い川に浮き沈みしたおかげで、実際に使用された年月からすればTVなどよりずっと短命だったに違いありません。
キーボードに手垢をつけたかつての主はいま、どこでどんな言語生活を送っているか、彼らは知ってみたくないのだろうかと、ひそかに思ったりしています。

http://www.youtube.com/watch?v=wpWYYwYfeMk
八王子出身の作詞・作曲者は、まだ旧姓です。

廃語の風景⑪ ― ワードプロセッサ [廃語の風景]

485系魔改造車『華』:撮影;織田哲也.jpg

いま 「ワープロ」 といえば、WORD や一太郎といったパソコン用の文書作成アプリケーションソフトを指すのが当たり前になっています。
1980年代の 「ワープロ」 は圧倒的に 「ワードプロセッサ」 を指していました。これはある年代以上の者にとっては記憶に新しいところと言えるでしょう。
日本のパソコン環境は1990年代から徐々に広まりを見せ、Windows 95 の登場によって一気に普及しましたが、それまではワープロ専用機が職場や家庭で支持を得ていました。
今では中古市場にしかその姿を見ることはなくなっています。「廃語」 の風景もいよいよ加速してきたものと、あらためて認識させられます。

私が勤務していた出版社をやめて独力でやりだしたのは1985年のことでした。そのときコピー機より前に導入したのが、キャノンから発売されていた Canoword Mini-5 というワープロでした。
http://www.chiba-muse.or.jp/SCIENCE/vm/doc/sub/0030095.html
上の画像は Mini-9 で、よりあとの機種です。私が買った Mini-5 のほうは文字の出るカーソルが1行しかなく、FDD(フロッピーディスク・ドライブ)もついていませんでした。
辞書には学習機能がなく、同じ変換を何度も繰り返さねばなりません。データを容易に保存できないので、スイッチを切ったら二度とその文書には出会えませんでした。
画像つきの文書を作るなどまったく想定の範囲外。そもそもモニタがついていないわけで、勘を頼りにエイヤッと印刷して、はじめてレイアウトが確認できるという代物でした。
この機種に、当時なんと29万8千円も支払ったのです。

それでもワープロを導入したかったには、私なりの理由があります。
実はワタクシ、たいへん字が汚いのです。
弁解がましいことを言えば、小学校低学年からずっと書道を習っていて、中学生のときにはその教室の最高段位を取るまでになっていました。
だからきれいな字を書くことができないわけではありません。今でも時間をかければバランスが良く美しい文字を書くことはじゅうぶん可能です。
ただ、せっかちでいい加減な気質が災いして、文字をきれいに書く根気が1分も続かないのです。
「字なんか読めりゃいいや」 という割り切りが我ながら見事すぎて、誰も私の字を読むことができないばかりか、時には自分でも何を書いたかわからなくなるほどでした。
だから、ずっと昔から文字をきれいに清書してくれる機械というのを求めていました。ドラえもんがいたら、きっと真っ先にねだったことでしょう。
上に書いた程度のワープロ機種でも、私にとっては夢の道具で、何が何でも手に入れたい一品だったわけです。

いま同じ金額を出せば、パソコン本体にモニタやプリンタもつけて、かなり高級なものが買えます。
けれども、そのセットを買ってきてできることは、たいてい予測がついています。新品を手に入れる喜びはあっても、そのことで夢が大きく広がるかといえば、さほどでもない気がします。
あの頃、初めてワープロを使ったワクワク感は、独立した直後という人生の節目とも相まって、忘れがたい高揚感を与えてくれました。
クライアントに出す大事な企画書で、「今ではイベントは…」 とすべきところを 「居間で排便とは…」 と変換ミスしたまま提出し笑い種になったことも、私には一生の思い出となっています。

http://www.youtube.com/watch?v=teMdjJ3w9iM
最近、このフレーズがアタマから離れません。春だからかなぁ…?

花に嵐の [日々雑感]

相模線橋本終点:撮影;織田哲也.jpg

昨日の気温のせいか、庭の梅木がほとんど満開になってしまいました。
ウチのは白が基調で、枝によってはピンクの花をつけます。お隣が紅梅なので、3色揃う季節です。
一気に開いた花は一気に散ることもあるので、ゆっくり眺めさせてもらえないのかもしれません。
春先は気候が安定せず、再び春の嵐かと思えば、ドカ雪が積もったりすることもあるので油断ならないのです。

『勧酒(かんしゅ)』 于武陵(うぶりょう)

勧君金屈巵 (さあ、この杯をぐっと飲み干すがいい)
満酌不須辞 (飲めないなんて無粋なことを言うもんじゃない)
花発多風雨 (花が咲いても嵐に散ってゆくことだってある)
人生足別離 (人生に別離はつきものではないか) ― 筆者翻案

茶の湯で言えば 「一期一会」 の理(lことわり)といったところですが、この漢詩が有名になったのは、ひとえに室生犀星(むろうさいせい)による翻訳文のせいかと思われます。
前半の2行はまともなので書きませんが、後半の2行は次のようになっています。

花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ

これを名訳と受けるか、迷訳と突き放すか、人それぞれです。
寺山修二はこの訳文のあとに、「さよならだけが人生ならば、また来る春はなんだろう」 と付け加えたとか。物議をかもしそうな話ではありますが。

今とくに 「別れ」 にこだわっているわけではありませんが、せっかく出てきたネタなので、次の一節も紹介しておこうと思います。
初めて触れたのは大学を卒業してすぐの頃だったと思います。こんな表現は絶対に自分にはできないなあ、というのが素直な感想でした。
いや、できないなあというのは才能が足りない・追いつかないという意味ではなく、自分の知っている日本語とはまったく異次元の日本語を生きている人なんだなあ、という意味でです。それゆえに印象深い一節となりました。

こんどとても好きなひとが出来たら、瞳(め)をつぶってすぐ死んでしまいましょう。
こんど、生活(くらし)が楽になりかけたら、幸福がスルリと逃げないうち死んでしまいましょう。
カンナの花の美しさは、瞬間だけの美しさだが、あゝうらやましいお身分だよ。
またのよには、こんな赤いカンナの花にでも生まれて来ましょう。

『放浪記』 林芙美子

http://www.youtube.com/watch?v=gEjScoV-2BA
半音だらけのメロディーラインです。1979(昭和54)年

春の嵐 [日々雑感]

曲線をまわって:撮影;織田哲也.jpg

今日は一日じゅう、ニュース番組のトップが、太平洋側を中心として吹き荒れた 「春の嵐」 でした。
山の斜面を下りて吹きつける強風というところから、「山」 と 「風」 をミックスした 「嵐」 という文字ができたとされますが、懐疑的な立場をとる説もあります。
「下」 と 「風」 を組み合わせた 「颪(おろし)」 も同系の漢字。「六甲颪」 はつとに有名です。
「嵐」 も 「颪」 も、「荒らし」 と音をかけているようです。

吹くからに 秋の草木の しおるれば むべ山風を 嵐といふらむ
― 『古今集』 より。作者:文屋康秀(ぶんやのやすひで:平安時代の歌人で、小野小町の恋人のひとりだったという説がある)

山から秋の風が吹きおろすようになると、秋の草木は萎れてしまう。なるほど、だから山風のことを 「嵐(荒らし)」と言うのだなあ。(筆者翻案)

この歌は秋のものなので、山風の吹く風景に荒涼感が漂っています。
春の嵐はこれと違い、新しい命の鼓動を予感させてくれるはずのものです。
けれども、真っすぐに歩くことさえ困難な突風の先に濁った大気が揺らめくのを見るとき、本来の姿からどれほど遠ざかったものであろうかと心が重くなります。
黄砂と花粉とPM2.5が吹きすさぶその嵐は、どこか死臭を含んでいる気がして不気味でなりません。
夕方から降り出した雨に、少しだけ気持ちに救いがありましたが。

春嵐(しゅんらん)や 涙にかすむ アスファルト

http://www.youtube.com/watch?v=hO2dWTNiVVw
1973(昭和48)年ごろの曲です。

その日の記憶 [日々雑感]

梅花咲き始める頃:撮影;織田哲也.jpg

2年前の今日。
多摩センターにある取引先で打ち合わせを終えた私は、カリヨン館という商業ビルにいました。
まだ、くまざわ書店が5階に入っていて、雑誌などを立ち読みしたあと、6階の Can Do に立ち寄り、何を買うともなくいろんな雑貨を物色している最中でした。

最初は眩暈(めまい)だと感じたのです。立ちくらみのように体の中心がゆらゆらしていました。
あれ? と思って視線を上げた次の瞬間、揺れの第一波が来ました。
最初の感触は震度4でした。が、建物全体が唸りをあげている状態で揺れは続き、収束する気配が一向にありません。
私は天井を見上げ、頭上に危険物がないか確認しました。それから非常口の在り処を発見し、またエスカレータが動いているのも見えました。
手に何かの商品(忘れました)を持っていることに気づき、目の前の棚に戻して非常口方向に向かおうとしたとき、第二波が襲ってきました。

今度は明らかに震度5を覚悟させる揺れでした。
さすがにビルの6階は振幅が大きく、賞品が並んだ棚がきしみ、小物が落下し始めました。女性の叫び声も時折耳に入ります。
「ただいま地震が発生しています」 と、館内放送が当たり前のことを告げていました。
そんな音や声を聞いて、私は急速に不安になりました。
それまでは比較的冷静でいられたのですが、聴覚に訴えてくるものにナーバスになっていました。とりわけ、物どうしがぶつかって落ちる音というのが、恐怖感をあおりました。

フロアから非常口に出ると、そこは上から下まで続く階段だけの構造でした。
私はそこに避難し揺れが収まるのを待ちました。今までに経験したことのない地震の長さでした。
階段を下りて1階のフロアに出たとき、ガラスの扉越しに差し込む早春の光を見て、ようやく少し安堵することができました。
ビルから出たところには広いスペースがあり、たくさんの人が不安げな顔でたむろっていました。

携帯電話は通じなくなっていました。
誰かが 「東北で地震」 と話しているのが聞こえました。私はてっきり首都直下型を想像していたので、意外な感じがしました。そういえば数日前から、東北地方で中規模の地震が続いていました。
情報収集のためにTVのワンセグ放送を立ち上げると、各地の震度を示した地図ではなく、気仙沼あたりの沖海のライブ映像が流れていました。テロップとアナウンサーの緊迫した声は、津波の到達予想時刻を告げていました。

運動のためにと、買って間もない自転車で来ていたので、私は取り急ぎ自宅へ向かうことにしました。
自宅が倒壊しているとは露ほども思っていませんでしたが、誰とも連絡が取れない状態ではそうすることがいちばん良いと思われたからです。
帰りがけコンビニで水分補給しているとき、最初に電話が繋がったのは、意外にも大阪で独り暮らしをしている母親でした。

帰宅すると、本棚から少し書類が落ちていただけで、何の被害もありませんでした。
そんな身辺事情とは裏腹に、TV画面には、どんどん凄惨になってゆく光景が映し出されていました。
昼間に打ち合わせした担当者のYさんから電話をもらいました。私の身を案じてくれていたようでした。
彼女は学生時代、関西地方にいて、阪神淡路大震災に遭っていたそうです。彼女はこのあと、少し体調を崩されました。

次の日とその次の日、東京上空には青空が広がり、何事もなかったように穏やかな時間が過ぎていきました。
何の役にも立たない話ですが、申し訳なさで胸が詰まり、歩きながら涙を流してしまったことを思い出します。

時はあと少しで、3月11日14時46分を迎えるところです。

http://www.youtube.com/watch?v=Rxxs5Qyf4LM

「追悼」 ということ [日々雑感]

京王堀ノ内にて:撮影;織田哲也.jpg

「追悼」 は 「追って悼(いた)む」 と書きます。
年月を経ても諸霊への供養を忘れず、祈りを向けて差し上げることを表します。

今日3月10日は、東京大空襲(1945年)のあった日です。
都市部への大規模空襲はこれより、同12日に名古屋、13日には大阪と立て続けに実行され、矛先はその後、地方都市へも拡散していきました。
加えて明日3月11日は、言うまでもなく東日本大震災の3回忌を迎えます。
鎮魂の祈りを絶やすことのできない日々が続きます。

犠牲となられた方々の魂は、きっとあの世で子孫の安寧を願われています。
戦争犠牲者は戦のない平和な世界を、天災殉難者は安心して暮らせる故郷の復興を、何よりもお望みでしょう。
追悼は人の世の習いに諸霊を合わせることではなく、諸霊の心に私たちの心を重ね、その思いを私たちが汲み取り受け入れるところから始まるものだ思います。
受け入れることは、実はとても難しいことです。
鎮魂の機会に臨んで、「正義」 を声高に主張することのほうがよほど簡単です。それが魂の慰めになるかどうかは別の問題であることでしょう。

犠牲者の無念の声と真摯に向き合って、深く静かな祈りの中に、自分にできることの覚悟をきちんと刻んでいくことが大切ではないかと、私はいま思っています。

http://www.youtube.com/watch?v=W2N5iyQuFWI

やなご時世 [日々雑感]

下りE233日野駅:撮影;織田哲也.jpg

心無い鉄道ファンが危険を冒して撮影を強行したり、はては線路脇の杭や樹木を引っこ抜いてしまうなど、目に余る行為が報道されることがあります。
駅で列車を撮影しようとカメラを構えているとき、ふいに目の前に別のカメラマンが現れて景色を塞がれた ― そんな経験は私にだって何度もあります。
たいていは私よりかなり年下の若者なので文句は言いませんが、そうしたことで喧嘩が起こるケースもちらほらあるようです。
鉄道ファン全体が不愉快な眼差しを向けられている気がしてなりません。やなご時世です。

事は鉄道写真だけにとどまりません。
市が配信する防犯メールを見ると、どこそこの地区にカメラを持った男が出現して女子生徒の写真を撮っていた、注意しようとするとバイクで逃げ去った、などという記事が頻繁に載っています。
もちろん猥褻目的などさらさらありませんが、私なども雪の日の登校風景を撮影したことがあるので、それを悪く勘ぐろうと思えば簡単にできたはずです。
最近では学校や警察の関係者すら盗撮に手を染める事件が発生しています。カメラをブラ下げて街を歩く習慣のある自由業者など、いつ不審者扱いで通報されるか知れたものではありません。
だからカメラのカードには、常に何十枚かのデータを入れています。いつでも犯罪的撮影者でないことを証明できるようにするためです。やなご時世です。

今日の仕事のルートを確認しながら、行く先々で何か撮影できればと思っています。
あの駅で電車を撮ろうとか、あの公園に立ち寄ってみようとか、いろいろ計画はめぐります。
不愉快なことが起こらないようにという祈りを込めながら、カメラにバッテリーを充填するのです。そうそう、出かける前にデータカードがカラッポでないことも確認しておかなければなりません。
まったくやなご時世なのでございます。

http://www.youtube.com/watch?v=MBI5j-jFs1U
最近のおまわりさんはこんな対応はしませんがね。
むしろ 「善良な市民」 こそ傍若無人であったりします。

春は仕事がしにくい [日々雑感]

高松より立飛駅を望む:撮影;織田哲也.jpg

「春は仕事がしにくい。その通りです。が、なぜでしょう。我々が感ずるからです。
そして創作する者は感じても差支えないと思うような人はへっぽこだからです。……
……もしあなたが口で言うべきことをあまりに大事がったり、それに対して心臓があまり暖かく鼓動しすぎたりすれば、あなたは完全な失敗を招くと思って間違いありません。
あなたは悲壮になる。感傷的になる。
あなたの手からは、鈍重な、たどたどしくまじめな、まとめ切れない、むき出しな、匂いも味もない、退屈な陳腐なものが出来上がります。」
(トーマス・マン 『トニオ・クレーゲル』 :実吉捷郎訳)

ドイツの小説家トーマス・マンが自らの姿を投影したと言われる小説 『トニオ・クレーゲル』 にはこのような一節があります。
主人公のトニオはいわゆる文学青年なわけですが、自己と芸術としての文学との関わりにおいてさまざまな迷いを生じます。それは作者であるマン自身の心の揺らぎでもあったわけです。

心がうきうきしているとき、足は地面についていないことが多いのです。
何らかの手段をもって表現する者にとって、自分自身が舞い上がり、地面から浮いてしまった状態に陥るというのは致命傷だと思います。
そんなに浮き上がっていたいなら、ドラッグでもなんでもやればいい。あるいは自ら神の代言者を名乗り、声高に閉ざされた世界の正義を宣揚していれば、自己満足な世界を築くこともできるのでしょう。
ただし、そんな世界に逃げ込んだ者には、この世の他者に訴えかける力のあるはずがありません。

何かを表現する、それによって人にある意思を伝えるという行為は、地面を舐めながら歩伏前進(ほふくぜんしん)することに終始します。
決して大空を舞うような爽快なものではなく、砂の味を噛みしめるような苦さの連続です。
これは文学にも音楽にも美術にも共通する、表現者としての運命ではないかと思います。私の如き場末のもの書きでさえ、そのことを実感することは常なのです。

冒頭に挙げた 『トニオ・クレーゲル』 の一節は、この仕事を続けている限り私にとって、はるかな戒めの言葉となっているのです。
自分を裸にして振り返ると、その教訓は骨身に沁みる重みを与えてくれます。

http://www.youtube.com/watch?v=xPP8w0wMRgQ

廃語の風景⑩ ― ミゼット/スバル360 [廃語の風景]

長野色115系:撮影;織田哲也.jpg

いま日本では、軽自動車がよく売れています。
原油高が続きガソリン代が高騰したおかげで、性能が良くて燃費のいい軽自動車に人気が集まったせいです。
実際、上の娘が乗っているダイハツ・ムーブは660ccながら、低燃費の割にはふた昔ほど前のリッターカーと同じくらいのパフォーマンスを示し、内装もまあまあの出来になっています。
さらに軽自動車の税金は普通乗用車に比べて格段に安いのが特徴です。自動車税は都道府県が課税しますが、軽自動車税は市区町村が課税することも、その理由のひとつになっています。
最近アメリカの一部の業界が、こうした日本の税制に注目し、TPPを利用して軽自動車税を撤廃するよう求めていますが、これには日本の自動車の歴史を踏まえて反論したいところです。

ダイハツ 『ミゼット(Midget)』 は1957年に生産が開始されたオート三輪で、『Always・三丁目の夕日』 にも見られるように、戦後復興する産業のシンボル的存在とも言うべき車です。
鈴木オートのような中小企業や個人商店が経営を拡大していくにあたって、欠かせない一台だったのがこの車種なのです。
一方、富士重工の 『スバル360』 は1958年に登場し、 量産型軽自動車として初めて大人4人乗りというコンセプトを実現した画期的な車です。
エンジンは空冷2ストローク2気筒356ccと、車のエンジンというよりバイクのそれと言った方がふさわしいシロモノですが、「マイカー」 という言葉を定着させた最初の車種となりました。
実際に大人が4人乗車すると、それはそれは窮屈な車内だし、走行性能も今から思えば極めて貧弱なものだったに違いありません。
しかし、自営業者の夢が前述のミゼットだったとしたら、勤め人の家族が休日に家族でドライブする夢を乗せたのがスバル360だったわけで、その意味でこの2車種は戦後の自動車史というより、世相の歴史そのものを物語る大きな役割を担ってきたと思われます。

1960年代の高度経済成長期を迎えると、やがて1000ccのニッサン 『ブルーバード』 や トヨタ 『コロナ』 などが車社会を支える柱となっていきます。
そうした車種が1500~1600ccに格上げされるようになると、『サニー』 や 『カローラ』 といった1200cc前後の大衆車が新たなファミリー層に定着し、そのようにして日本のモータリゼーションは発達し続けてきたわけです。
その時代においては、すでにミゼットやスバル360は生産されなくなっていました。
しかし日本のクルマの原点を振り返る時、この2車種を除いて語ることはできないという事実に変わりはないと考えてよいのではないでしょうか。

いま我が国のクルマ事情は、「一家に一台」 から 「一人に一台」 という考えが当たり前とも言えるでしょう。
都市部では通勤や買い物といった近場の移動に気楽に利用できる軽自動車が普及し、農村部では 『サンバー』 などの軽トラックが欠かせない存在となっています。
その姿こそ見かけなくなりましたが、『ミゼット』 と 『スバル360』 の残した文化は、きっちり現代にも受け継がれている、そのことに異論ははさめないのではないでしょうか。
「TPPにともなう軽自動車税の撤廃」? ― バカなことを言ってはいけません。それはあまりに、国情というものを無視した悪平等の産物です。
キャデラックがアメリカ車の魂を表しているというのであるならば、日本車の魂の原点は 『ミゼット』 と 『スバル360』 にこそあると言い切って過言ではないはずです。

私たちの国の庶民は小さな国土で小さな家に住み、大きな良いことも大きな悪いこともしないながら、小さな良いことと小さな悪いことを日々重ねて、小さな夢を一歩ずつ実現してきました。
小さいものへの愛情こそが、良くも悪くもこの国の潜在的な姿なのです。特段に愛国の精神など鼓舞しなくとも、小さな幸福の中にじゅうぶんこの国を誇る精神は受け継がれているわけです。
歴史の中の名車は現代の私たちに、そんな大切なことを語りかけてくれているように思えてなりません。
伝統の重みというのはいつだって、そんな身近なところから生まれ出ずるものなのです。

http://www.youtube.com/watch?v=sKHg-JQaLBQ

雛祭りに想う [日々雑感]

京王7000系準特急:撮影;織田哲也.jpg

(本来、昨日のうちにアップすべき話題ではありますが、一日中外回りをしていて手がつけられませんでした)

私には妹が1人います。それで実家でもひな人形は飾りましたが、いわゆる内裏雛というもので、三人官女や五人囃子のいる段飾りではありませんでした。
段飾りのお雛様を初めて間近で見たのは、小学校2年生から通い始めた書道教室ででした。
玄関を入って階段脇の四畳半は、普段は教室の生徒の眼には触れられない室内でした。その襖がある日開かれていて、部屋の奥に雛壇が設置されていたのです。
部屋にはそれ以外、家具に類するものは何もありませんでした。代わりに長押(なげし)の上にお年寄りの写真が何枚か、額に入れて飾られていました。
ひっそり冷ややかな室内に赤い毛氈(もうせん)の敷かれた鮮やかな段飾りは、幼い私の眼には綺麗とか豪華というより一種不気味なもののように映りました。
部屋に忍び込んでじっくり観察するようなイタズラ心は起こらず、むしろ見てはいけないものを見てしまったような恐怖に、足早に階段を上って教室に向かった記憶があります。

雛人形の起源をたどれば、古代中国で行われていた 『上巳(じょうし)の節句』 に求められます。
これは旧暦の3月3日に、水垢離(みずごり)によって心身の穢(けが)れを祓う行事で、それが日本にも伝わり 『桃花の節』 とも呼ばれるようになりました。
奈良時代から平安時代の宮中では、紙で人形を作り、それに人や家の罪・穢れを移して川や海に流す習慣が成立しました。
『源氏物語』 にも、主人公の光源氏が陰陽師(おんみょうじ)にお祓いをお願いした際、紙を切って人形(ひとかた)を作り、体中を撫でて病を人形に載せ、他界に送ったという記述があります。
この習慣は 「流し雛」 として、伝統行事として現代にまで伝えている地方もあります。

こうした行事はその後、出産とのかかわりも深めていきます。
現代とは雲泥の差のある当時の衛生環境では、子供を産むことにはことさら危険が伴い、母子ともに産後の死亡率が高かったようです。
また、妊娠・出産の周辺で性病の広まりもあり、それが原因で命を落とす女性も多かったといわれます。
無事な出産と成長への祈りが、雛人形という形を生み出していきました。
雛人形が飾り物となったのは江戸時代で、次第に立姿から座姿に変化していきました。

ところで 「穢(けが)れ」 という概念には 「おに」 という存在が見え隠れします。
「おに」 にも大きく2種類があり、ひとつは日本古来の 「穏(おん)」 に由来するもので、いまひとつは古代中国が発祥の 「鬼(き)」 です。
大雑把に言えば、「穏(おん)」 は森羅万象の精霊を表し、目に見えない異界の神霊的存在全般をさしますが、「鬼(き)」 は明らかに人の怨みに住した霊魂を表します。
中国からもたらされた 「穢れ」 やそれを 「祓う」 行事は、その後の我が国で 「穏」 と 「鬼」 の融合を生み出したケースがいくつもあるようです。
「人形(ひとがた)」 による祓いにはそうした文化的背景があるのです。

だからといって雛人形と鬼を同一視したり、ことさらに不気味がる心は違っていると思います。
それでは雛人形が可哀想です。もちろん鬼さんも憐れになってしまいます。
節分のときにも書きましたが、鬼だって好きで鬼になったわけではありません。鬼自身、自分の心にある 「鬼の性(しょう)」 といったものにずいぶんと苦しんでいるのではないかと想像します。
節分に豆の力を借りて鬼の中から 「鬼の性」 を追い出してあげたならば、鬼もきっと喜んでくれたことでしょう。
ならば雛祭りは、悲しい背景を持った雛人形を愛でてあげることで人形に込めた人々の願いに心を寄せることができ、目に見える存在と見えない存在が和合して、生命の幸福を祝う行事となるのではないでしょうか。

雛祭り 合掌(あわ)せて祈る 胸のうち

http://www.youtube.com/watch?v=BfMo9Qjwbu8

春一番 [日々雑感]

上りE257・豊田-日野間:撮影;織田哲也.jpg

3月の初日、東京には春一番が訪れました。
私の住んでいる八王子でも20メートルを超す南風が、夕方になって雨が降り出すまで吹き荒れていました。
こんな次の日には西高東低の冬型の気圧配置になりがちで、案の定、明日は真冬に逆戻りの様相です。北国や日本海側では吹雪くところも多いそうです。
今年は雪下ろしの作業中に事故でお亡くなりになる方も増えています。どうぞお気をつけください。

話は変わりますが、関西地方に青春の足跡を残した私にとって、定期的に開かれていた野外音楽イベントで忘れられないものが2つあります。
ひとつは京都・祇園祭の宵山のさらに前日に、円山公園音楽堂で開かれていた 『宵々山コンサート』。
もうひとつが、大阪・天王寺公園野外音楽堂で開かれていた 『春一番コンサート』 です。
もっとも後者は毎年5月のゴールデンウィークに開催されていましたから、気象現象の春一番とは関係ないものと思われます。
『春一番』 は1971年に、『宵々山』 はあとを追って1973年に始まっています。
1971年はちょうど私が高校に進学した年で、まさに大阪市天王寺区の高校でしたから、『春一番』 の開催場所は通学路から少しだけ脇へ逸れた場所にありました。

どちらのコンサートも有名なものですから、内容については Wikipedia などにお任せすることにします。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B5%E3%80%85%E5%B1%B1%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%88
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E4%B8%80%E7%95%AA_%28%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%88%29

野外で音楽に親しむというのは独特の味わいがあります。
室内と異なり反響音の手応えといったものは実感しにくいのですが、風と音楽の両方に吹かれている感じがなんとも開放感にあふれています。
もちろんそこにコンサートに参加している一体感も加わって、間仕切りのないあけすけの空間なのに、日常とは明らかに違う空気の流れが展開していきます。
そうした環境で音楽は、耳をすませて聴き入るものでもなければ、全身を波動に預けて没頭するものでもありません。かといって、ただそこに流れているといった意味のないものとは違います。
お酒に例えれば 「ほろ酔い」 でしょうか。音楽にほろ酔いしている感じが、私にとっては 『宵々山』 や 『春一番』 の魅力でした。

そんな経験を最近はしていないなあ、とつくづく思います。春一番の強風に吹かれることはあっても。
いま京都や大阪を訪ねてみたところで、あの日と同じ風の中には立てないわけですから。
思い出の世界に生きていければそれはそれで幸せなのかもしれませんが、あいにくそうは許してもらえません。
新しい情報がどんどん目の前を過ぎていく生活に浸かりきっていますから、「古き良き時代」 などはそのうち、自発的にどこかへ引っ越していってしまうのでしょう。

そんな気分のときは仕事もなにもうっちゃって、吉祥寺の 『いせや』 あたりで呑むのがいいかもしれません。
あ、でも、高田渡さんも、もういらっしゃらないのですよねえ。

http://www.youtube.com/watch?v=LhKwzh-KtP8

3月の季語から [日々雑感]

新桂川橋梁を渡るスーパーあずさ:撮影;織田哲也.jpg

3月の行事といえば、まず 「雛祭り」 が筆頭にあげられます。
雛にまつわる季語には、「桃の節句」 「雛市」 「流し雛」 「白酒」 「菱餅」 などもあります。

雛祭る 都はづれや 桃の月 (与謝蕪村)
掌(てのひら)に 飾つて見るや 雛の市 (小林一茶)

春の 「お彼岸」 の月でもあり、「万燈日」 「お水取り」 「御松明(たいまつ)」 「遍路」 といった仏教に関わる季語のあるのも特徴的です。
また草木では、「蒲公英(たんぽぽ)」 「土筆(つくし)」 「蕨(わらび)」 「菫(すみれ)」 「薇(ぜんまい)」 「春蘭」 「黄水仙」 など。スミレやゼンマイは漢字でこのように書くのですね。

山路きて 何やらゆかし すみれ草 (松尾芭蕉)
蒲公英や 釣鐘一つ 寺の跡 (正岡子規)

ゆるやかに暖かくなっていく季節を表して、「春めく」 「春時雨」 「春雷」 「春疾風(はやて)」 「春嵐」 「水ぬるむ」 など、「春」 という字を冠したものが目立ちます。
「霞(かすみ)」 や 「陽炎(かげろう)」 も、この時期ならではの季語となっています。
「春炬燵(こたつ)」 「春火鉢」 は、寒の名残りを伝える季語です。
そういえば新暦の3月は旧暦では2月にあたります。
2月は 「如月(きさらぎ)」 と呼ばれますが、これは「衣更着(きぬさらぎ)」 に由来する言葉で、春とはいえまだまだ寒さ厳しい日もあり、さらに上着を1枚羽織るといった意味を表しています。

この國を 出ることもなく 春炬燵 (品田まさを)

「山笑ふ」 という季語もあります。
古代中国では 「笑」 は 「咲」 と同義であり、山に花がちらほら咲き始める姿をとらえた言葉です。
ちなみに夏は 「山滴(したた)る」、秋は 「山装う」、そして冬は 「山眠る」 と表します。なんとも日本語の豊かな感情表現に唸ってしまうばかりです。

故郷や どちらを見ても 山笑ふ (正岡子規)

うきうきしがちな心を静めて、季節の移り変わる様をおだやかに見守ってゆきたいものです。

水ぬるむ 岸に微笑む 野の仏
春時雨 路地に土の香 立つ夕べ

http://www.youtube.com/watch?v=sSmnN4VwRS0
春は新たな旅立ちの時

廃語の風景⑨ ― ハーフサイズカメラ [廃語の風景]

多摩都市モノレール高松駅付近:撮影;織田哲也.jpg

普通の半分の大きさをしたカメラ? そうではありません。
何がハーフサイズかというと、1枚の写真で使用するフィルムのサイズが半分なのです。
もう少し説明を加えると、一般的であった35mmフィルムでは写真1枚のネガ面積が36mm×24mmであったのに対し、それを縦に半分に割って18mm×24mmで使用する機能のカメラなのです。
1960年代を中心に流行りました。当時の主流だった36枚撮りフィルムを使うと、ハーフサイズカメラでは72枚撮影することができたわけです。
欠点は、フルサイズに比べると解像度が半分に落ちてしまうこと、そして普通に横長の写真を撮るときはカメラを90度回したポジションで扱わなければならなかったことがあげられます。

当時はカメラもフィルムも非常に高価な時代でした。
また、フルサイズのカメラは図体が大きくて重いものが多く、操作するにもある程度の熟練が必要で、女性向きの機械ではなかったのです。
ところが1961年、歴史的なハーフサイズカメラが登場します。『オリンパスペンEE』 と呼ばれる機種で、機能を限定して 「シャッターを押せば写る」 のが売り物のコンパクト・カメラです。
それ以前にも極端に簡単なオモチャのようなカメラはありましたが、このオリンパスペンEEは操作の割に性能は本格的で、そのシリーズは多様化してその後多くの世帯で使われることとなります。
http://www.olympus.co.jp/jp/corc/history/camera/pen.cfm
丁度、高度経済成長期を迎え、若いカップル(当時はアベックと呼んだ)が新婚旅行などを楽しめる時代となっていました。
東京発九州行きのブルートレインは吉日ともなれば新婚カップルで満席となり、特に宮崎県は 「フェニックス・ハネムーン」 の聖地として憧れの的となりました。
そんな新妻が下げるハンドバッグの中に、このスマートなオリンパスペンEEが入っていることも多かったという話です。

私事になりますが、小学校4年生のとき(1965年・昭和40年)、クリスマスのプレゼントに 『フジカハーフ』 というハーフサイズカメラを買ってもらいました。
その前年くらいから、私は親父のあとをついて鉄道写真修行を始めていました。
親父がかつて使っていた安物の二眼レフカメラなので、使い勝手がすこぶる悪く、自分用のカメラが欲しいとねだったからです。
親父にしてみれば自分の趣味を息子もするようになってきたので、それじゃあ考えてやろうということになったのでしょう。
多少は値切って買ったのでしょうが、カタログ定価は9800円でした。調べてみると、大卒初任給が24000円前後の時代です。今の感覚で言えば、7~8万ほどの価値ではないかと思われます。
http://ha1.seikyou.ne.jp/home/takac/halfsize/fujica.html
私が写真に馴染んだのは、ひとえにこのカメラのおかげでした。
1本のフィルムで72枚も撮れたわけですから、あとで暗室の中でそれを1枚1枚印画紙に焼き付けるのはたいへんな作業でしたが、嬉々としてやっていた記憶があります。

考えてみると高度経済成長期というのは、「小さいもの」 プロダクツの全盛期でした。
日本製トランジスタラジオが国内でも普及し始め、海外への輸出が大きく伸びたのも1960年あたりからでした。それ以来、精密機器の小型軽量化は日本のお家芸と呼ばれるようになります。
ハーフサイズカメラもまた、そんな時代に一世を風靡した格好になりました。
時は移り、デジカメ全盛期の今ではフイルムカメラを見かけること自体少なく、ましてやハーフサイズカメラなど博物館にでも行かなければお目にかかれないくらいの存在です。
そもそも携帯電話にすら、そこそこ映るカメラ機能がくっついています。

私が買ってもらったフジカハーフはもう正常には作動しませんが、今でも手元に残してあります。
親から買ってもらったものなどほとんど手放し、むしろ親に逆らう形で半生を生きてきた私です。
それでもこれだけを大事にとってあるのは、いまものを書いて表現する仕事についていることの原点が、この手の平サイズのカメラにあるように思えるからです。
手に取ると、小型のくせに意外とずっしりくることには、何か意味があるのかもしれません。

http://www.youtube.com/watch?v=_nx9rrNUI50

季節の便りは鼻炎とともに③ [日々雑感]

片倉駅205系:撮影;織田哲也.jpg

花粉症を含めたアレルギー性鼻炎を、まあ自分が生まれ持った運命だと思って受け入れてやると、気分は楽になります。
少なくとも憂鬱な気分のままでただただ耐えているよりは、はるかに健康的です。
春の花粉症はだいたい今頃から始まって、スギ花粉の時期に少し重くなり、ヒノキ花粉の時期にピークを迎えます。
毎日鼻をかみ続けているとうっ血するのか、5月のゴールデンウィーク前後のある時、ドバッと鼻血が出て、それで1つのシーズンが終焉を迎えるというわけです。

美しき 名を病みており 花粉症 (井上禄子)

もし今、アレルギー性鼻炎が自分の体からまったくなくなってしまったらどんな気分になるだろうと、ふと考えてみました。
爽快感はあるかもしれませんが、祭りのあとのような寂しさに襲われてしまうと思います。
花鳥風月に鈍感な私にとって、この体質は、季節の移り変わりをいやおうなく覚えさせてくれる、いわば自然からのメッセージみたいなものです。
もちろん環境の悪化を示す警告でもあるわけですが、それにしたって自分に届いたメッセージであることに変わりはありません。
アレルギーを受け入れるということは、それを抱きながら生きていくことを意味します。
と同時に、一種の電話回線を引き入れるようなもので、アレルギーを通じて外界との交信ができるようにもなるのだ、と考えてみたりします。

2月も今日で終わります。
春の訪れが近いことは、私の鼻が教えてくれています。気象庁などよりずっと正確に。

寒明けの 便り舞い込む 杉花粉

http://www.youtube.com/watch?v=CT89tnan5zY
この時代はよく洋画を見に行きました。

季節の便りは鼻炎とともに② [日々雑感]

ロクヨン単機(立川駅):撮影;織田哲也.jpg

花粉症を含めたアレルギー性鼻炎に何の対策もしていない、ということを前回書きました。
マスクくらいつけたら、ともよく言われますが、面倒くさくてやりません。マスクはインフルエンザ大流行の時に使用するものだと決めています。

そもそもアレルギーは異物に対する免疫反応で、生きていくうえでとても重要な生理的機能です。
中にはアナフィラキシーショックを起こすケースもあって、そういう体質の方は大変でしょうが、私の持っている鼻炎などたいした話ではありません。
鼻水やくしゃみが止まらないくらい気にしないでおこうと思っています。病気のように感じて医者通いをしたり薬局を転々としたりする気にはなれません。
むしろ、きちんと免疫作用が働いてくれている証拠ですから、それが多少暴走気味でも感謝したいくらいです。

いつの頃からかは明確にわかっていませんが、自分の体に起こることはすべて受け入れようとい気持ちになりました。
自分の容姿を含めた身体的特徴や体質などについて他者と比べる気持ちが強いと、それが優越感や劣等感の元となってしまうことがあります。
そんな自意識からは解放されたほうが楽なことに気づき、自分の体にあるものや起こること、老化や死であっても納得して受け入れてしまえればいいと考えています。
まあ、不満や不安を感じないわけではありませんが、そんなふうに割り切れるようになりたいと望む気持ちに嘘はありません。

それに、食生活を変えると体質も変わるものです。
私が30代の頃は肉の大食いと酒のがぶ飲みに明け暮れるような生活をしていました。
40を過ぎた頃から、肉の比率を下げて魚や野菜を増やし、酒の飲み方にも多少は気を遣うようになると、徐々にではありますがアレルギー性鼻炎も軽くなったのです。
例えば夜になると鼻がつまり、呼吸困難で眠れないこともしばしばでしたが、食生活改善以降は鼻水は止まらなくてもつまることはなくなり、ずいぶん楽に生活できるようになりました。
40前後には生涯最高体重86kgを記録しましたが、10kgのダイエットにも成功し、現在では74kgあたりをキープしています。(ちなみに身長は178cmです)
アレルギー体質にお悩みの方は、医者通いも結構ですが、ぜひ食生活の面で工夫してみてください。医学界では常識的な話のようです。

http://www.youtube.com/watch?v=4QtJ9PK61EU
1か2、2か3、3か4

季節の便りは鼻炎とともに① [日々雑感]

武蔵野を行く:撮影;織田哲也.jpg

東京に住み始めて5~6年経った頃に鼻炎を患ったのがきっかけで、かれこれ30年近くもこの体質とお付き合いしています。ベテランもいいとこです。
鼻水が止まらないので風邪だと思い込み、医者に行くとアレルギー性鼻炎と診断されました。
「花粉症」 という言葉が広く知られるようになったのは、それから3年ほどあとのことだったと記憶します。
あれよと言う間にこの症状は全国的な広がりを見せ、厚生労働省の調査によれば今では全国民の30%が花粉症患者と見られています。都市部では40%を超えるという、民間企業のデータもあります。

私の場合、最初は春先のスギ花粉が飛散する時期に限られていましたが、その後徐々に範囲が広がり、秋のブタクサや部屋のほこり、寒暖差にまで反応するようになりました。
また後年、スギ花粉への反応は薄くなり、代わってヒノキ花粉に対する反応が強くなりました。これは自分でも不思議な現象です。
とくに冬から早春への時期と、秋が深くなっていく時期に、透明の鼻水が出だすようになり、季節の変化をくしゃみとともに知るわけです。

鼻水はティッシュの大量使用だけですみますが、くしゃみは他人に聞かれてしまいます。とくに私のくしゃみはうるさいと家族から言われます。
多摩ニュータウンの高層階に住んでいたとき、建物の下には幼稚園がありました。
毎朝、私がくしゃみを立て続けに発すると、幼稚園の生徒が声を合わせて 「いーち、にぃー、さーん…」 と数えていました。
そこと別の地区の団地にいたときは、親しいご近所の奥さんが、私が出かけるときも、深夜に帰宅するときも、くしゃみの声で察していたということです。
窓の外で私のくしゃみが聞こえると、「あら、〇〇さんのご主人、いまご帰宅よ」 「もうそんな時間か。じゃあ、そろそろ寝よう」 などと話し合っていたのでしょうか。

鼻炎に関して医者通いをしたのは、最初の3年だけでした。
アレルギー症状を緩和する内服薬と点鼻薬を処方してもらいましたが、使っていると年々症状がひどくなるような気がして、医者に行くのをやめるようになったのです。
この判断が正しかったのか否かはわかりませんが、それから25年ほども私は特別な対策をとらず、無防備で過ごしてきました。
正直言って、こんな症状のためにあれこれ気をまわしたりお金を遣ったりするのが、あまりに馬鹿馬鹿しくなったからです。

http://www.youtube.com/watch?v=YShp24RgxME

モノトーンの風景 [日々雑感]

タキの向こうにDE10:撮影;織田哲也.jpg

私が高校に進学したのは1971年の4月でした。
まさにその頃、「モーレツからビューティフルへ」 というキャッチコピーのTVコマーシャルが、変革の時代の象徴のように流れていました。
人生でいちばん多感な時期でしたから、このころにインスパイアされた感性は私の中で今も日常的に、何かを語りかけている感じがしています。

丸善ガソリンの 「オー・ モーレツ」 は60年代のCFとしてはあまりにも有名です。
丸善の100ダッシュというガソリンを入れた車がハイウェイを、それこそ猛烈なスピードで走り去っていく。
つむじ風が巻き起こり、それが立て看板の中のモデルのスカートを裾を捲りあげて、中が丸見えになる。
そこでモデルが前を押さえながら、「オー・モーレツ」 と、怪しげな声を発するというわけで、マリリン・モンローの 『七年目の浮気』 の1シーンを思わせる内容でした。
CF自体は You Tube にもアップされていますから、 今でも容易に見ることができます。

では、この当時のお父さんたちがモデル(小川ローザ)の白いぱんちーを見て興奮し、明日もモーレツに働く気力を養ったかというと、今になって分析するとまったく違う話です。
そもそもこのCFは高度経済成長期の最後の最後に現れたもので、すでにその頃にはGNP神話は崩れ始めていて、公害問題に代表される社会矛盾が顕著なものとなりつつありました。
「モーレツ社員」 などという言葉は、すなわち 「人間性の喪失」 を連想させるようになっていました。
「オー・モーレツ」 が60年代のCMの代表のように言われることは多いのですが、実際には高度成長の時代を茶化す効果をふりまき、その意味で印象に残るものだったと言えるでしょう。

そんな世相の中に颯爽と現れたのが、富士ゼロックスの 「モーレツからビューティフルへ」 というキャッチコピーでした。
TVCMの内容は、ヒッピーの青年(加藤和彦)が Beautiful と書かれたフリップを手に、のんびりと街中を歩くといったシーンでした。
ここで言う 「ビューティフル」 は美しいとかきれいだという意味では決してありません。
自分らしく自然に生きるという、人生の 「美学」 を指して遣われた言葉です。モーレツ時代に脇へ追いやられていた人間性の回復や個性の肯定といったものをコンセプトとしていたわけです。
このコンセプトは後に 「ふるさと志向」 や 「ゆっくりずむ」 などへと繋がっていきました。
さらには副産物として、いわゆる 「四畳半フォーク」 といった音楽性へと展開していったことも、当時の実体験として深く心に残っています。

なぜこんなことを今になって言うかといえば、近頃の世相、とりわけデジタル社会の脆(もろ)さに、えも言われぬ不安が募るようになってきたからです。
たとえば電車に乗れば、周りではみんなスマホの画面をいじっています。
スマホの向こうにはもちろんワールドワイドに広がる空間があるわけですが、それはあくまで可能性の話。
多くの人がパネルの向こう側に心を寄せているのは、とても狭く閉塞された、「四畳半」 的な世界なのではないでしょうか。
たとえばツイートはもともと 「つぶやき」 という意味ですが、実態は 「ためいき」 として機能しているのではないかと感じてしまいます。
とても息苦しくなるので、私はツイッターからは逃げるように足を洗いました。
私自身がネット社会の優位者であると言う気はさらさらありません。用途を絞っているという意味では、むしろ劣位に属するほうでしょう。
「モーレツ」 も 「ビューティフル」 も、身の丈にあっていないと自分の首を絞めてしまいます。
ちょうど環境破壊が高じて地球が砂漠化していくのと同じように、ネット環境への過度の依存が自分を枯らせてしまうことを、私は身近に恐ろしく感じるようになってきたのです。

華やかな街を歩きながら、突然目の前がモノトーンの風景と化す。
そんな錯覚に襲われて交差点の真ん中で立ち止まってしまうことが、最近ではしばしばあったりするのです。

http://www.youtube.com/watch?v=js3L87Me1ms

漱石の日(らしい) [日々雑感]

多摩都市モノレール松が谷付近:撮影;織田哲也.jpg

今日は 「漱石の日」 だ、と毎年メールをくれる同業者がいます。
調べてみると、当時の文部省が夏目漱石に文学博士の称号を送ろうとしたところ、漱石本人は 「肩書は必要なし」 と言って断った日なのだそうです。
漱石に関しては一通りのものは読んでいますが、マニアと呼ばれるほどではありません。それでも 『こころ』 などには深い感銘を受けた記憶があります。
この博士号の一件にしても、さすが 『坊っちゃん』 の作者だとあらためて快哉を叫びたくなります。

― 山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
知に働けば角が立つ。情に掉(さお)させば流される。意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。―

有名な 『草枕』 の冒頭部分です。
この 『草枕』 は、小説という形を借りて漱石の芸術論が展開されていると言われています。
その意味で、この冒頭部分に続く一節が、私には印象深いところです。

― 住みにくさが高じると、安いところへ引っ越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画(え)ができる。……
……越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、くつろげて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心を豊かにするがゆえに尊い。―

何かを書いたり描いたりする精神は常に不安定さを求め、 心の落ち着け先を次々と探しながらも、そこが安住の地であるはずがないことを知っています。
つまり自分を、止むに止まれず書いたり描いたりする境遇に落とし込んでいく習性 ― それが表現者としての運命だとわかって甘んじてその運命を受け入れ、人の世のために役立つ道を簡潔に、そして見事に表しきった名文です。
私ごときがこれ以上述べることは、何もありません。

JR御茶ノ水駅または都営地下鉄神保町駅からほんの5分、神田小川町の一角に御茶ノ水小学校があります。
ここはもともと錦華小学校と呼ばれ、幼い日の漱石が通った学校として知られています。
明治大学の裏手で、山の上ホテル(Hill-Top Hotel)から坂を下がったあたりのこの一帯には、多くの文人や芸術家の足跡がいっぱい残っています。
その御茶ノ水小学校のすぐ隣に、BRUSSELS(ブラッセルズ)というビアバーがあります。気が向いたら寄ってみてください。
若いクリエイターたちが夜な夜な、浮世の、もしかするとはかないだけかもしれない話に、白や黒や赤い花を咲かせていたりします。

http://www.youtube.com/watch?v=2kc5_8iXD5U

on the pension [日々雑感]

↓なかなか会えない珍しい車輌です。
事業用検測車輌:撮影;織田哲也.jpg

He lives on the pension.
この英語をどう訳しますか?
「彼はペンションに住んでいる」 と訳されたなら、あなたの英語力は私と同程度、たいしたことはありません。
仕事で扱った文書の中に上記の英文が含まれていました。私も 「ペンションに住んでいる」 と解釈して先に読み進めていくと、どうも話の辻褄が合わなくなってしまったのです。
そこで上の英文に戻ったとき、ふと 「なぜ前置詞が on なのだろう?」 という疑問がわきました。
「ペンションに」 と場所を表す前置詞なら at か in が適切ではないだろうか。
そこで辞書を引いた結果、英語で pension は 「年金」 のことだと初めて知ったのです。
「彼は年金で生活している」 ― これが正しい訳文でした。
「洋風の民宿」 といった意味のペンションは、もともとドイツやオーストリアで使われていた呼称だということも調べてわかりました。
英語では a small hotel とか bed and breakfast と表すのが適切なのだそうです。

英語に関しては、恥をかいたり意図が正確に伝わらなかったりすることが結構ありました。
日本の高校入試のシステムを英語で紹介するとき、「生徒はみな筆記試験を受けなければならない」 といった内容を表すため、私は深い考えもなく次のような英文を使いました。
Every student has to take a paper test.
これを聞いた相手の外国人は、It's in case of a technical high school, isn't it? 「それは工業高校の場合だよね」 と返してきました。
この理由は先ほどの私の英語が、「生徒はみな紙の検査を行わなけらばならない」 という意味を表していたからです。
「ペーパーテスト」 というのは和製英語で、「紙の質の検査」 といった意味だったのです。「筆記試験」 は a written test または a written examination が正しい言い方です。
Every student has to take a written examination. ― このように言わなければいけなかったというわけです。

これ以外にも、3月14日は the White Day だと主張して、怪訝な顔をされたこともあります。そんな習慣は日本にしかないものだからです。
新幹線のグリーン車に案内するとき the Green Car と表していたら、「緑色の車両などどこにもないではないか」 とツッコミを入れられたりもしました。上級の車両を表す場合は、the first class のほうがストレートに通じます。

英語は私にとって仕事に必要な言語のひとつですが、決して得意とは言えません。
若い頃にもっと勉強しておけば……と今さら言っても後の祭りです。
ちなみに 「後の祭り」 は a later festival などではありませんからね。
It's too late for regrets now. 「今さら後悔しても後の祭りだ」 ― このように言います。今日は勉強になりました。

http://www.youtube.com/watch?v=ZpfDt7tF_44
「五拍子」 「五分間の休憩をとろう」 という二重の意味なのですよ、皆さん。

廃語の風景⑧ ― ながら族 '70 [廃語の風景]

立川某所:撮影;織田哲也.jpg

「ながら族」 という言葉すら、今の若い人は 「え、なにそれ?」 と言うかもしれません。
これには1970年代に大流行したラジオの深夜放送が深く関係しています。その深夜放送を聴き 「ながら」 受験勉強に精を出した世代を称する言葉です。
いわゆる団塊の世代の先輩たちは、大学の募集人員に対して、受験者数が圧倒的に多かった時代に生きていました。
その当時の言葉として 「四当五落」 というのがあります。これは、睡眠時間が四時間の者は合格するが五時間も寝ている奴は受験に失敗するという意味で、いかに熾烈な受験戦争が展開されていたかを物語っています。
現代では受験する若者の人口が減少したり、高等教育機関が多様化したり、その募集人員が増えたりして、環境が整えば誰でも高等教育を受けられるようになりましたが、ひと昔前はそう簡単にいく話ではなかったわけです。

団塊の世代でブームとなり、私の世代で多様化したのが、まさにラジオの深夜放送でした。
人が寝静まってから受験勉強はいよいよ佳境に入る。そのとき、圧縮された空気をほんの少しほぐしてくれる存在が、まさにラジオだったのです。
そんな 「ながら勉強」 が功を奏した人もいれば、そのせいで勉強に熱が入らなかったという人もいます。いや、そちらの人のほうが確実に多かったはずです。
そもそも 「ながら族」 とは日本医科大学の木田文夫教授が、何か他事をしながらでないと物事に集中できない精神疾患の人をさして表した言葉ですから、はなから文化の範疇に入る話ではあり得ないのです。

ではなぜ1970年代の深夜放送が多くの若者を惹きつけたかというと、それには大きく2つの理由があると私は考えています。
ひとつは、それまで扱われなかった深夜という時間帯に新しい若者文化を開放しようとしたことの功績です。
いまひとつは、商業ベースに乗れなかったフォークソングやニューロックのミュージシャンをDJに起用したことで、新しい音楽シーンを展開することができたからです。
深夜放送に没頭しすぎたために受験に失敗した若者も当時はたくさんいたことでしょう。
それでも恨み言が聞かれないのは、たとえ結果が出なくても、そのときに流れていたラジオの声や音楽に、若い感性が間違いなく同調していたからではないかと思えます。

私は団塊の世代よりも5年ばかりあとの生まれですから、ラジオの深夜放送に聴き入ることはむしろ、大人の世界への早熟なスタートという意味合いのほうが強かったと思われます。
同世代にとって 「ながら勉強」 は大学受験を特定したものではなく、中学生・高校生が少しずつ成長していくための日常的な過程や営みとなりつつありました。
私が高校時代に思い入れのあったのは、大阪のMBSが1:30から5.00まで放送していた 『チャチャヤング』 という番組です。
パーソナリーティーはミュージシャン(メジャーになる前の谷村新司など)以外にも、放送作家や大学教授、SF作家(眉村卓さん)などがラインアップされていて、まさに多様化の花が開いた時代でした。
………

多様化の次は俗物化が起こり、その次にはマンネリ化が起こる。これは大衆文化の逃れられない運命なのでしょうか。
1983年にフジテレビで 『オールナイトフジ』 が放映される頃にはラジオの深夜放送はめっきり影をひそめ、1994年には城達也さんの 『ジェットストリーム』 がひっそりと幕を閉じました。
「ながら族」 という言葉がいつごろ消えたのか、私には判別できません。
ひとつ現象としてわかっていることは、いつのまにか 「~族」 の時代は姿を消し、いつのまにか 「~系」 の時代に移行していたということだけです。
ある世代を十把一絡げにして 「~族」 と表現するような風潮には、私は賛同できません。
かといって、そう言ってしまえばなんとなく理屈が通るような 「~系」 という逃げ方は、断じて創造的であると思えません。

私にとって心の置き所を探すという作業は1970年代の深夜放送ラジオの時代に始まりましたが、いやまさか、今にまで継続されているとは思いもしませんでしたよ。

http://www.youtube.com/watch?v=S45sZVbKm-g

恥ずかしい訂正広告 [日々雑感]

下り『かいじ』八王子駅出発:撮影;織田哲也.jpg

昨夜アップした記事 『廃語の風景⑦ ― 喫茶店のマッチ』 にミスがありました。
× 「眉をしかめて」 → ○ 「眉をひそめて」
お詫びして訂正いたします。(元記事は既に修正済み)

このミスは私にとってあまりに恥ずかしい事態です。
なぜなら若いスタッフや同業者に対して 「こんな表現ミスはするな」 と指導するときに、典型的な悪例として 「眉をしかめる」 を引き合いに出すことがしばしばだからです。
今朝になって読み返したときに発見し、思わずのけぞってしまいました。
もちろん、しかめるのは顔であって、眉はひそめるもの。しかも 「顔をしかめる」 と 「眉をひそめる」 は似て非なるものであります。

中国の 『荘子』 には 「顰(ひそみ)に倣(なら)う」 という故事が出てきます。
春秋時代、越(えつ)の国に西施(せいし:西の村に住む施姓の人)と呼ばれた、中国古代四大美人の一人とされる絶世の美女が住んでいました。
この西施には持病があり、発作を起こして胸を痛め、苦痛で顰(ひそみ=眉間)にしわを寄せることもたびたびです。しかしその姿を見た人たちからは、なんとはかなげな女性の美しさであろうかと、評判はどんどん広まっていきました。
その噂を聴きつけた東施(とうし:東の村に住む施姓の人)は、「私も眉間にしわを寄せたら評判が立つに違いない」 と西施の真似をするようになりました。
ところがこの東施は普段から残念な顔をしていたために、眉をひそめたことによってますます醜くなり、人々はその姿を見ると逃げ去ったとされています。
「顰に倣う」 は 「西施の顰に倣う東施」 という話がもとになっています。

この故事にある 「顰(ひそみ)」 から、「眉をひそめる」 という表現が生まれました。
ここまで判っていながら犯した今回のミスは痛恨きわまりないものです。なぜ書き終えた直後に一度でも読み直さなかったのだろうか。
今夜の夢に顔をしかめた東施が何人も出てきて、どこまでも追いかけられそうな予感さえしています。

http://www.youtube.com/watch?v=qthCca8B4d4

廃語の風景⑦ ― 喫茶店のマッチ [廃語の風景]

日野駅の湾曲ホーム:撮影;織田哲也.jpg

知り合いの印刷会社はかつて、喫茶店のマッチの製造を得意としていました。
印刷だけでなく、紙の断裁や箱の組み立てなど結構手間のかかる作業で、30年ほど前までは売上全体に占める割合もかなり高かったという話です。
それが現在では注文が激減し、入ったとしても単純な構造の折り畳み式紙マッチがほとんどだそうです。
1970年代半ばにいわゆる100円ライターが普及したことによって、マッチの使用頻度や製造個数は急速に低下していったようです。

1970年代半ばというと私が一浪して大学に進学した頃と重なります。
喫茶店に入り浸って水ばかりお代りしながら何時間も、友人とダベったり、独りで本を読んでいたりという習慣があったのもそんな時代でした。
少しおしゃれな喫茶店のテーブルの上には、灰皿の脇にその店が独自に作ったマッチが置かれていました。
デザイン的に優れたものも多く、一時期は毎日違った喫茶店を訪れて、そうしたマッチを集めて回っていました。机の引き出しには、常時100個を下らない数のコレクションがあったと思います。
しかし100円ライターの普及の速度は驚異的に速く、気がつけば喫茶店のマッチは街から姿を消していきました。
時を同じくして、私のコレクション熱も冷めてしまいました。集めたくなるような凝ったデザインのものが次第に少なくなっていったことも原因のひとつだったでしょう。

いや、それ以上に、私自身が喫茶店に入り浸る機会を減らしてしまったことがあげられます。
また街なかにはファーストフードの店やファミレスが勢力を伸ばし、昔ふうの雰囲気のある喫茶店が凌駕されていったのも大きな理由と言えるでしょう。
一部の地域を除いて喫茶店文化などと呼ばれた風景は消え、安さや手軽さがいちばんに求められるカフェには、手の込んだマッチなど必要のないものとなってしまったのです。
神田神保町に行けば、「さぼうる」 「ミロンガ」 「ラドリオ」 など歴史と風情を有した喫茶店は今でも営業していますが、私はそうしたお店よりもファミレスを利用することが多いです。
理由は簡単で、ファミレスのテーブルは面積が広いので、飲食をしながらノートPCを操作したり、取材した資料を広げたりすることが容易だからです。
私自身の心の中では、喫茶店文化を味わおうという気分は過去のものとなってしまいました。

奇しくも2月18日は 『嫌煙運動の日』 です。1978年のこの日、「嫌煙権確立をめざす人々の会」 が結成されたそうです。
今や喫茶店内は分煙化が進み、もとから喫煙席の設置されていないお店も増えました。
私は本数はめっきり少なくなりましたが、喫煙の習慣が多少残ってます。それでも禁煙席を利用することのほうが圧倒的に多いのは、いろいろな人の吐き出した煙のなかに真昼間からいることを嫌うからです。
1980年代に市場を席巻したデオドラント文化の影響を受けて、私もそんなふうに変化しました。
喫茶店のマッチの思い出は、猥雑な空気が支配する環境に入り浸っていることを自ら求めた、あの若い日々の記憶に重なっています。
そうした記憶の片隅には、煙草の先に火を点けようと喫茶店でマッチを燃やしたときの燐の匂いが漂っています。
それを素直に懐かしいと感じる反面、思い出したくない記憶がその匂いの周辺に潜んでいるような気がして、なぜか眉をひそめてしまったりもするのです。

http://www.youtube.com/watch?v=rl5dFVySigY
1973年のリリースとはとても思えないセンスの良い曲です。

多忙な時ほど無意味なことをしてしまうということ [日々雑感]

武蔵野線・西国分寺駅:撮影;織田哲也.jpg

齢をとるにつれて身についてくる体力というものもありまして、私の場合、徹夜することが若い頃ほど苦にならなくなったというのがそれにあたります。
筋肉が落ちて基礎代謝量の減少したことが関係していると思います。とはいえさすがに2日連続、仮眠だけで過ごすのは厳しくて、ここのところ完全に顎が上がった状態でした。

ところで、昔から私には、多忙な時に限って全く関係のない無駄な行動をあえてとってしまう癖があります。
高校生のとき、明日から期末テストという前日になって無性に小説が読みたくなるという病を慢性的に患い、それこそ徹夜で文庫本を何冊も読破したことが幾度となくあります。
その癖は50歳代後半になった今も矯正できず、〆切を守るのがギリギリという段階に来ているにもかかわらず、わけのわからない衝動に意識が囚われてしまうのです。
普段は訪れないサイトをまわってみたり、ネット対戦型の麻雀を打ったり、カメラの手入れを始めたり、深夜に街を徘徊したりと、気がつけば数時間が経っていることもしばしばです。
それではあまりに無策なので、今回は雑念を追い払うために心静めて座禅を組み、仕事への集中力を取り戻そうとやってみました。
そのままの姿勢で2時間も眠ってしまい、やっぱり自分を追い込む羽目に陥っただけでした。

要するに無駄なことほど楽しいのです。
今やるべきことが目の前にあるときは、誰でも自然にその課題に向かって意識を集中させます。
その集中力をもって余計なことに取り組むわけですから、それが楽しくないはずがありません。
本気のサボリが人生において甘い蜜の味であることを実感すると、今度もまた次もと、果てしない享楽のループに身を任せてしまいたくなってしまうのです。
期末テストの前日に徹夜で読んだ本の内容ほど、鮮烈な感動を与えてくれたものはありません。
「仕事をすることとサボることは同じものでできている」 ― どちらも懸命に生きている証しという点で、このことははっきり言えると確信しています。

追伸:
あのう、これは〆切が守れないための言い訳ではありません。
そもそも私は〆切を破りません。信じてください、ご担当者の皆様方。

http://www.youtube.com/watch?v=oKph3hm0_7k

きれいはきたない、きたないはきれい ― ⑤ [諸々の特集]

鉄塔頂部:撮影;織田哲也.jpg

少し難しい話になるかもしれませんが、今まで取り上げてきた 「矛盾する概念が実は同じものでできている」 という状況は、弁証法的な構図としてとらえてよいものかどうか考えてみたいと思います。

ヘーゲルの弁証法というのは、まず一つの命題(テーゼ)があり、それを否定する命題(アンチテーゼ)が提示され、両者を統合(アウフヘーベン)することによって、より高度な段階の肯定を生み出す、といった構造を持ちます。
「生と死」 の問題で考えると、「生きる」 という概念と、それを否定する 「死ぬ」 という概念とを統合することで、より高度な 「生」 を得られるといった考え方になります。
「好き嫌い」 の場合は、「好き」 という感情と 「嫌い」 という感情とを統合することで、「好き」 という感情をより強く引き立たせるわけです。
あくまでも概略的な説明ではありますが、いずれにせよ、このような構図になっているということで納得できる話なのでしょうか。

この弁証法的な構図の背景には一神教の発想が色濃くあるように、私には思えてなりません。
たとえば 「生と死」 の問題を弁証法的にとらえるならば、「生」 と 「死」 を対立した命題(テーゼとアンチテーゼ)と考える段階ですでに、生命を生み出した神の側につく立場か否定する立場かといった選択と重なる部分が出てくるからです。
誤解されると困るのですが、私は一神教の教義そのものを否定しようというわけではありません。
「生と死」 の本質的関係を、へ-ゲル弁証法的な構図の中で解釈することが、果たして適切かどうかに疑問を投げかけているだけです。

ここまで私は、「きれいときたない」 「好きと嫌い」 「生きることと死ぬこと」 を引合いにして、それぞれ一見対立する概念が、実は同じものでできているのではないかと述べてきました。
同じものでできているという前提で考えるならば、そもそもそれをテーゼとアンチテーゼに分別することなどできないのではないですか。
2つの相反するものを統合(アウフヘーベン)するという構図は、もとより成り立たない話なのではないでしょうか。
そうではなく、人の世にあるさまざまな事物や概念や感情・思想などは、弁証法的な運動法則で動いているものではなく、もっと混沌とした不定形な生き物の中で、存在が濃くなったり薄くなったりしながら、ゆるやかに結びついているように思えてならないのです。
そう考えれば、自分という存在のとらえどころのなさや、生死の境の曖昧さ、好き嫌いの連続した移り変わりなど、理屈でなく素直に納得してしまえる気が私にはするのです。
皆さんはいかがお考えになるでしょうか。

一連の話題はここまでにしておこうと思いますが、最後にひとこと。「きれいはきたない、きたないはきれい」 についてあることに気づきました。
きゃりーぱみゅぱみゅのスタイルが、まさにその世界の産物でははないでしょうか。
彼女のコスチュームやステージには、可愛いものとグロテスクなものを意識して同居させています。どちらかを抜いたり、極端に偏ったりしたら、その魅力は半減してしまうでしょう。
「可愛いとグロテスクは同じもの」 という忍術で人を妖かせる稀有な才能ではないかと、TVなどで彼女を見かけるたびに感心しています。

http://www.youtube.com/watch?v=B9jaOBwsYdk

きれいはきたない、きたないはきれい ― ④ [諸々の特集]

万願寺橋:撮影;織田哲也.jpg

「生」 と 「死」 の問題を真正面から取り組んでいくと、とてもこんなブログで済む話ではなくなります。だからそんな趣向の論をここで展開しようとはいっさい思いません。
そのうえで、これは理屈ではなく私の実感としてお話するのですが、「生」 と 「死」 は生命という濃度の高いところと低いところという気がしています。
決してある時点を境に、それまでは生きていて、そこを越えると死んでしまうといったデジタルなものではない感じがするのです。感じがする、というのは、今までに死んだ経験がないからあくまで予測でしかないからです。
自分の肉体や精神の活動の中で、日々何かが新しく生産されている一方で、日々少しずつ死んでゆく部分がある。その生命の蠢(うごめ)きを、年齢を重ねるにつれて次第にはっきりと実感できるようになってきたのです。

「生きながらにして死んでいるような日」 というのが、私にはごくまれにあります。
何をすることからも何を考えることからも逃避して、引き籠るかあるいは一日中行方不明になっているかといった、空白の時間です。
そんな日があるのだから、もしかしたら 「死にながらにして生きているような日」 というものも存在するのかもしれないと思うのです。もちろんあの世に行ってからの話ですけれど。
その前提に立てば、「生と死は同じものでできている」 ということも肯定的にとらえられるというわけです。

もちろん私は早く死にたいと望んでいるわけではありません。
けれども、自分の内部に生と死が両方存在しているということを、私はとても嬉しく感じているのです。
生死が向かい合っていたり、隣り合わせに並んでいたりするからこそ、生きている実感が深くなるように思えます。
死は生を輝かせ、生は死を輝かせる。そのことをなんとなく受け入れられるようになっただけでも、ここまで年を取った甲斐があったというものです。

http://www.youtube.com/watch?v=u8eZUBYUZFk

きれいはきたない、きたないはきれい ― ③ [諸々の特集]

匿名の箱:撮影;織田哲也.jpg

もう少し、「好き」 と 「嫌い」 について書きます。
このブログはほぼ3か月続けていますが、その中で私は自分の好きなことや嫌いなことについて記しています。
12月30日の 『リアル(Real)』 や1月22日の 『ケータイが嫌い』 がその典型と言えそうです。
そこで、「好きは嫌い、嫌いは好き。好きと嫌いは同じものでできている」 という視点からこれらの記事をとらえると、どのような解釈になるかを考えてみたいと思います。

『リアル(Real)』 の中で私はリアルが好きだと明言したうえで、次のように書いています。
「夢の向こうにリアルを求めるのではなく、リアルの向こうに夢が広がるのを見ていたいのです」
もちろん本心からそう思っていますし、嘘を書いた覚えはありません。
ただし、なぜリアルが好きか、なぜリアルの向こうに夢が広がるのを見ていたいかという根っこの部分に、夢への絶望があることを私は自分事として知っています。
無垢な子供のように手放しで見果てぬ夢を追いかけて生きていたい、そんな願望の裏返しであることも認めなければならないでしょう。
リアルとドリームは同じものでできている ― そのように言えるかもしれません。どちらにも願望と絶望が同じ程度に含まれている感じがします。
それはまた、「願望は絶望、絶望は願望」 というパラドックスの存在を認めることにもつながるわけです。

『ケータイが嫌い』 では、私は次のように書き綴っています。
「ケータイが嫌いな最大の理由は、『誰でもない自分』 でいさせてくれないことです。……何が悲しくて常時 『誰かである自分』 『どこかに繋がっている自分』 でいなければならないのか……」
こちらのほうはもっと分かりやすい話です。
すなわち 「誰かである自分」 「どこかに繋がっている自分」 という存在が確立しているからこそ、一方で 「ケータイが嫌い」 と主張できるのです。
存在の安心感が、「誰でもない自分」 でいたいという願望を生み出していると言い換えてもよいでしょう。
携帯電話を持ちながら誰からもかかってこないならば、私はきっと 「ケータイが嫌い」 とは言いません。
匿名への願望は明らかに、実名の自分の心から発生しているわけです。

こんな話を突き詰めていくと、「生きることは死ぬこと、死ぬことは生きること。生と死は同じものでできている」 という究極に到達してしまいます。
このパラドックスをいかがお考えでしょうか。
はたしてナンセンスなのか、メビウスの輪のような曲面を有するものなのかを。

(この項、続く)

http://www.youtube.com/watch?v=BHa7awWAJJ4
1960年代の香り満載、コニー・フランシス。
少しは今日らしくしないと。

きれいはきたない、きたないはきれい ― ② [諸々の特集]

某所②:撮影;織田哲也.jpg

今日がバレンタインデーだからというわけではありませんが、「好き」 と 「嫌い」 について考えてみます。
「好きは好き、嫌いは嫌い、この際はっきりさせましょう」 といった台詞がある一方で、
「嫌いきらいも好きのうち」 などという調子のよい文句も昔から伝えられています。
あえて 「この際はっきりさせ」 なければならないということは、好きと嫌いの境目が曖昧であることを証明しているようなものですね。

たとえば愛する人がほかの誰かに浮気をする。
そのことがあなたの知るところとなって、あなたは彼もしくは彼女を激しく憎みます。
なぜ憎むかといえば、それはあなたが彼もしくは彼女を愛しているからです。まさに「愛憎こもごも」 という両極の感情があなたの中に存在することになります。
こうした心理は 「アンビバレンス」 と呼ばれ、両面感情とか両面価値といった訳をあてることもあります。

ひとたび好きになった物事や人を嫌いになるためには、相応のきっかけや理由が必要です。
反対に、今まで嫌いだった物事や人を好きになるためにも、相応のきっかけや理由が必要です。
いろんな要素が混じって好きから嫌いへ、嫌いから好きへと感情の移行があるのと同時に、双方の価値が同じ心の中に同居するアンビバレンスな様相を考え合わせると、好きと嫌いを1本の数直線上に並べて位置づけることは到底できないことがわかります。
好き・嫌いの心理を強いて表現するなら、同じ物質でありながら、+イオン化されたものと-イオン化されたものが、混沌と入り混じった水溶液といった感じではないでしょうか。

「好き」 という感情を持つとき、人は不用意であることが多いです。
ところが 「嫌い」 という感情を持つときは、大きなエネルギーを必要とするはずです。
「愛」 よりも 「憎」 の感情のほうがパワーを持つのはそのためと言えるでしょう。
これは、愛に盲目になっているうちはまだよいが、憎に盲目となってしまっては大きな不幸を呼んでしまうことがあるということを意味します。実際にそんな事件はいくつも起こっています。

「好きは嫌い、嫌いは好き。好きと嫌いは同じものでできている」
このことを心の隅に置いておくことで、大きな不幸を回避できる可能性がほんの少し高まる気もするのですが、いかがでしょう。

なお 「好きと嫌いは同じものでできている」 という言葉は、25年も前に漫画家の西原理恵子さんがメジャー・デビュー作 『ちくろ幼稚園』 で書いていたと記憶します。
どうして彼女は、こんな大切なことを20代の若さで知るようになったのか、驚嘆ものです。
いや、私だって薄々は気づいていましたけれどね。
このようにはっきりと言い切ってしまわれると 「それホントなの?」 とつい疑いたくなるわけで、正面から認める勇気をこれまでなかなか持てなかったのが実態です。

http://www.youtube.com/watch?v=bN7il6rlLyY

きれいはきたない、きたないはきれい ― ① [諸々の特集]

某所①.jpg

「きれいはきたない、きたないはきれい」 ― 私はマザーグースの一節として認識していました。
それも事実ではありますが、シェイクスピアの戯曲 『マクベス』 の中の有名な台詞だということはあとで知りました。
この言葉は、哲学的に解するならば幾通りもの解釈があり、私もそれなりに聞き覚えがあります。
ここで難解な存在論を展開するつもりは毛頭ありません。ただ、案外身近なところにこの言葉の指すものが宿っていると思うわけで、そのことを少し認めていきます。

こういう例で考えてみましょう。あなたが純白のユニフォームやシューズを身に着けて、何かの試合に臨んだとします。
白熱した試合で我を忘れてプレーし、ゲームセットを迎えます。チームは勝利を収めましたが、純白のユニフォームは汗や土で汚れてしまいました。
「いやあ、真っ黒になってしまったよ」 と、あなたは思います。
けれども客観的に見ると、白いままの面積は依然多くて、汚れた部分はせいぜい20%ほどです。
それでもあなたは 「真っ黒によごれてしまった」 という表現をし、チームメイトも 「まったくそうだ」 と同調したりします。

その逆の例も考えられます。あなたは試合で泥まみれになった靴を洗っています。
たわしでゴシゴシこすっても、泥はなかなか落ちてくれません。表面的には落とせても、靴には明らかに泥の色が染み込んでいます。
それでもあなたはある程度の汚れが落ちれば、「よし、きれいになったぞ」 と思います。
もとの純白にはほど遠い色になり果てた場合でも、そう考えてじゅうぶん納得できるのです。

この例を、人の心の問題として組み立て直してみます。
いつも清廉潔白な思想や行いを心がけている人が、つい出来心で悪事を犯してしまった、あるいは他人を貶めてしまった。
きれいだった心が汚れてしまった、あるいは自ら汚してしまった。そんなふうに解釈して、その人は頭を抱え絶望しまうのではないでしょうか。
一方、普段から悪事を重ね身も心も汚しつつ反省もなかった人が、あるときふと罪悪感に目覚めて、悪の世界から足を洗う決心をした。
積み上げてきた穢れはなかなか浄化されないものの、その覚悟と行いによっては、時間をかけて心身を清めていくこともできるとその人は希望に燃え立つかもしれません。
ここに、「きれいはきたない、きたないはきれい」 という、一見矛盾しているような論理を現実の問題としてとらえることができるのではないでしょうか。

ややこしい話ですが、こうしたパラドックスを成立させる条件はひとつある、と私は考えます。
それは、「『きれい』 と 『きたない』 は同じものでできている」 という根本的な見方です。

(この項、続く)

http://www.youtube.com/watch?v=B201O63uqhk

風呂に入る [日々雑感]

16号バイパス踏切:撮影;織田哲也.jpg

ここのところ本当に忙しくて、なかなかアップできませんでした。
何か思いつけば1記事書くくらいたいした時間はかからないのですが、そのちょっとした思いつきを得る余裕がなかったのです。
体調もそんなに良いとは言えず、ストレスで血圧も上がり気味だったようです。

仕事に気を取られると、ついつい日常生活にかける時間や手間を省いてしまいがちです。
お手軽な外食が多くなり、しかも短時間で少品目高カロリーの飯をかきこみ、睡眠時間が短くなるのに反比例して酒の量は増え、摂取する酸素量より吐き出す二酸化炭素のほうが多くなってしまいます。
なかでも私にとってはいちばん悪いんじゃないかと思えるのが、風呂に入らなくなることです。
誤解なきよう、不潔にはしません。髪や身体は毎日洗うのです、シャワーで。バスタブにお湯を溜めてのんびりつかることをしなくなるのが、ストレス・コントロールに悪い影響を及ぼしてしまうのです。

日本は古来より、禊(みそぎ)によって穢(けが)れを祓(はら)うといった神道思想があり、仏教伝来後も沐浴の行が入浴の習慣と結びついて今日に至ります。
早い話、風呂に入る・湯につかるというのは、米を炊いて魚をおかずに食べるのと同じように、日本人の根本的な生き方に沁みついた習慣だと言えるのです。
『徒然草』 第五十五段には、
「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる (家を作るときは、夏の暮らしを中心に考えなさい。冬はどんな場所にも住むことができる)」
と書かれています。
高温多湿の日本の夏をいかに過ごすかが問題であって、冬の寒さはなんとかしのげるということを表します。
このことの背景にあるのは、夏は行水で汗を流し、冬はたまに湯(もしくは蒸気)をつかって体を温めるといった生活が昔からあったということなのです。

たとえユニットバスでも、お湯を溜めて入るのとそうでないのとでは大きな差があると思います。
寒い冬の日はとりわけでしょう。お湯につかれば理屈ではなく肌で理解できる話です。

http://www.youtube.com/watch?v=mPpdwdOFkRI
たまにはドビュッシー、香でも焚きつめて。

夢の回廊⑯ ― 続々・友達 [夢の回廊]

冬空の下を快走(豊田―八王子):撮影;織田哲也.jpg

仲間は喜びを何倍にもし、悲しみを何分の一にする ― などという常套句は、それこそ教科書からマンガに至るまで多くのメディアに登場します。
喜びのほうは仲間と共有しやすい感情なので、概ねそのように言えるでしょう。けれども悲しみとなるとどうでしょうか。仲間がいるからといって、そんな簡単に何分の一になるわけにはいかないと思います。

自分の絶望が誰かの絶望になるなど、そもそも有り得る話なのでしょうか。
誰か他人の絶望が自分の絶望になったためしは、かつて一度もありませんでした。
だから 「俺はお前の最大の理解者だ」 といった面(ツラ)で近づいてくる人を私は信用しませんし、私自身も不用意に 「お前の気持ちはよくわかる」 などといった発言をしないように心掛けています。
無責任な同情ほど、あとになって人を傷つけるものはないと思うからです。

ただ、自分の絶望と隣にいる誰かさんの絶望は決して交わらないにしても、両者がそれぞれの絶望を心の中で追及していくといった精神活動を通じて、互いに共有する感情が芽生えることはあると思います。
たとえば、目の前にいる人が大切な人との別れに心を痛めているとします。
その悲しみは私のものにはなりませんが、私の気持ちをかつて大切な人との別れに際して心痛めた場面に立ち返らせることで、互いの心を触れ合わせることが可能になるのではないでしょうか。
そんなときに、「あなたの絶望はそのようで、私の絶望はこのようである」 などと互いの心の在り様を言葉で伝えることが有益であるとは考えられません。
互いの絶望が決して交わらないことを前提とするならば、言葉が交わされることによって逆に、互いの孤独を確認し合う結果を招くこともあるでしょう。
表面的にではなく、より深いところで心を重ね合わせようとするとき、饒舌である必要はどこにもないのです。

前回の記事の最後に、次の言葉を引用しました。
「しばらく二人で黙っているといい。 その沈黙に耐えられる関係かどうか」 (S.A.キュルケゴール)
絶望に打ちひしがれている友人を前にして、ごく自然に傍に寄り添っている。沈黙の中でそれぞれの絶望とひっそり向き合いながら。
たとえ傍にいられない距離が両者の間にあっても、時空を超えて同じように寄り添う気持ちを共有することができるように。
そんな関係でいられる友が、はたして何人いることでしょうか。いや、そもそもそんな友に恵まれているのかどうかも判然としませんし、自分自身が誰かのためにそうなれる自信も実は持てないでいます。
だから尚更のこと、そんな友との在り方に強い憧れを抱いてしまうわけです。

それにしても 「秘すれば花」 という生きざまは、単に芸能の美学ではなく、対人関係の中にも確かに息づいているのだとしみじみ感じさせられます。

http://www.youtube.com/watch?v=1VsnaGPIJ8U

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