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廃語の風景㉖ ― 蚊帳と蠅帳 [廃語の風景]

E257@豊田:撮影;織田哲也.jpg

前回、蚊の記事を書いて、ついでに蠅も登場したことから、今回の廃語は 「蚊帳(かや)」 と 「蠅帳(はいちょう)」 にしました。

ウチには30歳と27歳の娘がいますが、どちらも蚊帳の中で寝たことはないと言います。
私が子供の頃には、どの家庭でも寝室には蚊帳を吊っていました。
ちょうど長押(なげし: あ、これも廃語?)のところに金属製のフックをかけて、室内全体を麻または化繊の網で覆い、家族はその底で川の字に布団を並べて、暑い夏の夜を過ごしていました。
蚊帳は文字通り、室内に蚊が侵入するのを防ぐための道具です。
同時に風通しをよくして、少しでも室温を下げるための暮らしの知恵でもあったのです。

蚊帳は、実は日本特有の知恵というわけではなく、古代よりエジプトや中国で重宝されていました。
現在でも世界中で使われ、とくにマラリヤやデング熱など蚊が媒介する病気が多く発生する国に対しては、WHO(世界保健機構)がその効果を宣伝し、使用を推奨しているほどです。
それだけでなくわが国は毎年、ODAを通じて、ナイジェリアやタンザニアなどの国に蚊帳を提供しています。
つまり今でも蚊帳は、国内生産されているわけです。
ところが国内で蚊帳を使っているなど、実態はどうか知りませんが、私はまったくそんな例を見かけなくなりました。

私の実家で蚊帳を使わなくなったのは、おぼろげな記憶で申し訳ないのですが、ルームクーラーが取り付けられるようになった頃からではないかと思います。
ルームクーラーはエアコンの前時代的なものです。人為的に部屋を冷却するため、当然、部屋を閉め切って密閉状態にすることが前提です。
あちこちを開け放して風を通し、一部屋だけ蚊帳を吊っているという生活様式とは、180度違ったコンセプトです。
ルームクーラーはアルミサッシ窓枠の普及とも関係が深いでしょう。
アルミサッシは窓を開けても蚊の侵入を防ぐ網戸を備えており、ガラス窓を閉めれば空気の流れを完璧にシャットアウトする構造になっているからです。

蚊帳は蚊の侵入を防ぐのが最大の目的ですから、出入りするときは素早く、しかも小さくなる必要がありました。
ところが蚊帳は、部屋の中に設置された秘密基地のようなワクワク感を子供に与えたので、どうしてもはしゃぎまわってしまいます。
子供は何度も出入りを繰り返し、立ったまま網を大きくめくり上げたりするものですから、蚊は当然その隙をついて入ってきます。
両親はそんな不手際を叱りながら、蚊帳の中で出口を失った哀れな蚊をなんとか仕留めようと必死でした。
私の記憶の中では、そんな風景は夏の風物詩のひとつです。

小学校5年生か6年生のときの林間学校で、高野山の宿坊に宿泊しました。
何十畳という座敷に、それこそ何十畳分の巨大な蚊帳を吊り、布団を敷きながら枕投げに講じたこともいい思い出です。
眠りにつく前、明かりを消してひそひそ話の時間帯、蚊帳の外は戸も開け放され、宿坊の庭や門が座敷から見えていました。
薄い網の繊維を通して外界と繋がって眠るという状況は、高野山という霊場にふさわしい神聖さと恐怖とを同時に運んで、布団にくるまった私たちを神秘の世界に誘(いざな)いました。
これが、蚊帳についての、私の最後の記憶となっています。

蚊帳の経験がない娘たちも、意外なことに蠅帳(はいちょう)は知っていると語りました。
彼女たちが知っている蠅帳は、いわゆるキッチンパラソルのことで、頭頂部の紐を引っ張ると網がパラソル状に開くものです。
これを食べ物が盛り付けられた食器の上にかぶせておくと蠅にたかられる心配がない、というお手軽な道具で、確かに娘たちの子供の頃に使っていました。
同じものは私の子供の頃からありましたが、本来 「蠅帳」 というのはそれを指すものではありません。
食器棚の一部が網を張った引き戸になっていて、その棚の中に食べ物の入ったお皿を保存しておくという機能のものを指します。
これは以前にも書きましたが、昔の台所というのは今のダイニングキッチンのように家屋の真ん中にあるものではなく、どちらかといえば裏手のじめじめしたところにあるのが普通でしたから、食器棚の蠅帳の中に料理を保存するというのは、それだけでも痛むのを防ぐ効果があったわけです。
今ではそういう発想にはなりません。昔よりはるかに大型の冷蔵庫が普及しています。
だから痛みやすいものは、ラップをかけて冷蔵庫で冷やします。
凍ってしまいそうなくらい冷やしても、レンジでチンすれば、いつでも暖かいものが食べられるという寸法です。

蚊帳も蠅帳も、多彩な電化製品によってこの国から追い出されてしまった、と言うことはできるでしょう。
それでも世界を見渡せば、今でも遺憾なくその力を発揮している道具たち。
どちらが幸せな風景かはいちがいには言えませんが、エコロジーの観点からすれば、あまりにも電力消費に頼りすぎている生活様式には疑問符がつきます。
高温多湿の夏の環境を実感できない不健康さと、そこにあるべき暮らしの工夫から手を離してしまっていることの理不尽さは、人類の知恵の幼児化に繋がりはしないのか。

夏は蒸し暑く、虫たちが喜び、ものは腐りやすい。
そんな当たり前の夏をあえて望んで過ごすという生き方も、未来への選択肢としてあっていいのではないかと、私は思っているのです。かなり本気で。

http://www.youtube.com/watch?v=pM9MCsk2H0U
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