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その日の記憶 [日々雑感]

梅花咲き始める頃:撮影;織田哲也.jpg

2年前の今日。
多摩センターにある取引先で打ち合わせを終えた私は、カリヨン館という商業ビルにいました。
まだ、くまざわ書店が5階に入っていて、雑誌などを立ち読みしたあと、6階の Can Do に立ち寄り、何を買うともなくいろんな雑貨を物色している最中でした。

最初は眩暈(めまい)だと感じたのです。立ちくらみのように体の中心がゆらゆらしていました。
あれ? と思って視線を上げた次の瞬間、揺れの第一波が来ました。
最初の感触は震度4でした。が、建物全体が唸りをあげている状態で揺れは続き、収束する気配が一向にありません。
私は天井を見上げ、頭上に危険物がないか確認しました。それから非常口の在り処を発見し、またエスカレータが動いているのも見えました。
手に何かの商品(忘れました)を持っていることに気づき、目の前の棚に戻して非常口方向に向かおうとしたとき、第二波が襲ってきました。

今度は明らかに震度5を覚悟させる揺れでした。
さすがにビルの6階は振幅が大きく、賞品が並んだ棚がきしみ、小物が落下し始めました。女性の叫び声も時折耳に入ります。
「ただいま地震が発生しています」 と、館内放送が当たり前のことを告げていました。
そんな音や声を聞いて、私は急速に不安になりました。
それまでは比較的冷静でいられたのですが、聴覚に訴えてくるものにナーバスになっていました。とりわけ、物どうしがぶつかって落ちる音というのが、恐怖感をあおりました。

フロアから非常口に出ると、そこは上から下まで続く階段だけの構造でした。
私はそこに避難し揺れが収まるのを待ちました。今までに経験したことのない地震の長さでした。
階段を下りて1階のフロアに出たとき、ガラスの扉越しに差し込む早春の光を見て、ようやく少し安堵することができました。
ビルから出たところには広いスペースがあり、たくさんの人が不安げな顔でたむろっていました。

携帯電話は通じなくなっていました。
誰かが 「東北で地震」 と話しているのが聞こえました。私はてっきり首都直下型を想像していたので、意外な感じがしました。そういえば数日前から、東北地方で中規模の地震が続いていました。
情報収集のためにTVのワンセグ放送を立ち上げると、各地の震度を示した地図ではなく、気仙沼あたりの沖海のライブ映像が流れていました。テロップとアナウンサーの緊迫した声は、津波の到達予想時刻を告げていました。

運動のためにと、買って間もない自転車で来ていたので、私は取り急ぎ自宅へ向かうことにしました。
自宅が倒壊しているとは露ほども思っていませんでしたが、誰とも連絡が取れない状態ではそうすることがいちばん良いと思われたからです。
帰りがけコンビニで水分補給しているとき、最初に電話が繋がったのは、意外にも大阪で独り暮らしをしている母親でした。

帰宅すると、本棚から少し書類が落ちていただけで、何の被害もありませんでした。
そんな身辺事情とは裏腹に、TV画面には、どんどん凄惨になってゆく光景が映し出されていました。
昼間に打ち合わせした担当者のYさんから電話をもらいました。私の身を案じてくれていたようでした。
彼女は学生時代、関西地方にいて、阪神淡路大震災に遭っていたそうです。彼女はこのあと、少し体調を崩されました。

次の日とその次の日、東京上空には青空が広がり、何事もなかったように穏やかな時間が過ぎていきました。
何の役にも立たない話ですが、申し訳なさで胸が詰まり、歩きながら涙を流してしまったことを思い出します。

時はあと少しで、3月11日14時46分を迎えるところです。

http://www.youtube.com/watch?v=Rxxs5Qyf4LM

「追悼」 ということ [日々雑感]

京王堀ノ内にて:撮影;織田哲也.jpg

「追悼」 は 「追って悼(いた)む」 と書きます。
年月を経ても諸霊への供養を忘れず、祈りを向けて差し上げることを表します。

今日3月10日は、東京大空襲(1945年)のあった日です。
都市部への大規模空襲はこれより、同12日に名古屋、13日には大阪と立て続けに実行され、矛先はその後、地方都市へも拡散していきました。
加えて明日3月11日は、言うまでもなく東日本大震災の3回忌を迎えます。
鎮魂の祈りを絶やすことのできない日々が続きます。

犠牲となられた方々の魂は、きっとあの世で子孫の安寧を願われています。
戦争犠牲者は戦のない平和な世界を、天災殉難者は安心して暮らせる故郷の復興を、何よりもお望みでしょう。
追悼は人の世の習いに諸霊を合わせることではなく、諸霊の心に私たちの心を重ね、その思いを私たちが汲み取り受け入れるところから始まるものだ思います。
受け入れることは、実はとても難しいことです。
鎮魂の機会に臨んで、「正義」 を声高に主張することのほうがよほど簡単です。それが魂の慰めになるかどうかは別の問題であることでしょう。

犠牲者の無念の声と真摯に向き合って、深く静かな祈りの中に、自分にできることの覚悟をきちんと刻んでいくことが大切ではないかと、私はいま思っています。

http://www.youtube.com/watch?v=W2N5iyQuFWI

やなご時世 [日々雑感]

下りE233日野駅:撮影;織田哲也.jpg

心無い鉄道ファンが危険を冒して撮影を強行したり、はては線路脇の杭や樹木を引っこ抜いてしまうなど、目に余る行為が報道されることがあります。
駅で列車を撮影しようとカメラを構えているとき、ふいに目の前に別のカメラマンが現れて景色を塞がれた ― そんな経験は私にだって何度もあります。
たいていは私よりかなり年下の若者なので文句は言いませんが、そうしたことで喧嘩が起こるケースもちらほらあるようです。
鉄道ファン全体が不愉快な眼差しを向けられている気がしてなりません。やなご時世です。

事は鉄道写真だけにとどまりません。
市が配信する防犯メールを見ると、どこそこの地区にカメラを持った男が出現して女子生徒の写真を撮っていた、注意しようとするとバイクで逃げ去った、などという記事が頻繁に載っています。
もちろん猥褻目的などさらさらありませんが、私なども雪の日の登校風景を撮影したことがあるので、それを悪く勘ぐろうと思えば簡単にできたはずです。
最近では学校や警察の関係者すら盗撮に手を染める事件が発生しています。カメラをブラ下げて街を歩く習慣のある自由業者など、いつ不審者扱いで通報されるか知れたものではありません。
だからカメラのカードには、常に何十枚かのデータを入れています。いつでも犯罪的撮影者でないことを証明できるようにするためです。やなご時世です。

今日の仕事のルートを確認しながら、行く先々で何か撮影できればと思っています。
あの駅で電車を撮ろうとか、あの公園に立ち寄ってみようとか、いろいろ計画はめぐります。
不愉快なことが起こらないようにという祈りを込めながら、カメラにバッテリーを充填するのです。そうそう、出かける前にデータカードがカラッポでないことも確認しておかなければなりません。
まったくやなご時世なのでございます。

http://www.youtube.com/watch?v=MBI5j-jFs1U
最近のおまわりさんはこんな対応はしませんがね。
むしろ 「善良な市民」 こそ傍若無人であったりします。

春は仕事がしにくい [日々雑感]

高松より立飛駅を望む:撮影;織田哲也.jpg

「春は仕事がしにくい。その通りです。が、なぜでしょう。我々が感ずるからです。
そして創作する者は感じても差支えないと思うような人はへっぽこだからです。……
……もしあなたが口で言うべきことをあまりに大事がったり、それに対して心臓があまり暖かく鼓動しすぎたりすれば、あなたは完全な失敗を招くと思って間違いありません。
あなたは悲壮になる。感傷的になる。
あなたの手からは、鈍重な、たどたどしくまじめな、まとめ切れない、むき出しな、匂いも味もない、退屈な陳腐なものが出来上がります。」
(トーマス・マン 『トニオ・クレーゲル』 :実吉捷郎訳)

ドイツの小説家トーマス・マンが自らの姿を投影したと言われる小説 『トニオ・クレーゲル』 にはこのような一節があります。
主人公のトニオはいわゆる文学青年なわけですが、自己と芸術としての文学との関わりにおいてさまざまな迷いを生じます。それは作者であるマン自身の心の揺らぎでもあったわけです。

心がうきうきしているとき、足は地面についていないことが多いのです。
何らかの手段をもって表現する者にとって、自分自身が舞い上がり、地面から浮いてしまった状態に陥るというのは致命傷だと思います。
そんなに浮き上がっていたいなら、ドラッグでもなんでもやればいい。あるいは自ら神の代言者を名乗り、声高に閉ざされた世界の正義を宣揚していれば、自己満足な世界を築くこともできるのでしょう。
ただし、そんな世界に逃げ込んだ者には、この世の他者に訴えかける力のあるはずがありません。

何かを表現する、それによって人にある意思を伝えるという行為は、地面を舐めながら歩伏前進(ほふくぜんしん)することに終始します。
決して大空を舞うような爽快なものではなく、砂の味を噛みしめるような苦さの連続です。
これは文学にも音楽にも美術にも共通する、表現者としての運命ではないかと思います。私の如き場末のもの書きでさえ、そのことを実感することは常なのです。

冒頭に挙げた 『トニオ・クレーゲル』 の一節は、この仕事を続けている限り私にとって、はるかな戒めの言葉となっているのです。
自分を裸にして振り返ると、その教訓は骨身に沁みる重みを与えてくれます。

http://www.youtube.com/watch?v=xPP8w0wMRgQ

雛祭りに想う [日々雑感]

京王7000系準特急:撮影;織田哲也.jpg

(本来、昨日のうちにアップすべき話題ではありますが、一日中外回りをしていて手がつけられませんでした)

私には妹が1人います。それで実家でもひな人形は飾りましたが、いわゆる内裏雛というもので、三人官女や五人囃子のいる段飾りではありませんでした。
段飾りのお雛様を初めて間近で見たのは、小学校2年生から通い始めた書道教室ででした。
玄関を入って階段脇の四畳半は、普段は教室の生徒の眼には触れられない室内でした。その襖がある日開かれていて、部屋の奥に雛壇が設置されていたのです。
部屋にはそれ以外、家具に類するものは何もありませんでした。代わりに長押(なげし)の上にお年寄りの写真が何枚か、額に入れて飾られていました。
ひっそり冷ややかな室内に赤い毛氈(もうせん)の敷かれた鮮やかな段飾りは、幼い私の眼には綺麗とか豪華というより一種不気味なもののように映りました。
部屋に忍び込んでじっくり観察するようなイタズラ心は起こらず、むしろ見てはいけないものを見てしまったような恐怖に、足早に階段を上って教室に向かった記憶があります。

雛人形の起源をたどれば、古代中国で行われていた 『上巳(じょうし)の節句』 に求められます。
これは旧暦の3月3日に、水垢離(みずごり)によって心身の穢(けが)れを祓う行事で、それが日本にも伝わり 『桃花の節』 とも呼ばれるようになりました。
奈良時代から平安時代の宮中では、紙で人形を作り、それに人や家の罪・穢れを移して川や海に流す習慣が成立しました。
『源氏物語』 にも、主人公の光源氏が陰陽師(おんみょうじ)にお祓いをお願いした際、紙を切って人形(ひとかた)を作り、体中を撫でて病を人形に載せ、他界に送ったという記述があります。
この習慣は 「流し雛」 として、伝統行事として現代にまで伝えている地方もあります。

こうした行事はその後、出産とのかかわりも深めていきます。
現代とは雲泥の差のある当時の衛生環境では、子供を産むことにはことさら危険が伴い、母子ともに産後の死亡率が高かったようです。
また、妊娠・出産の周辺で性病の広まりもあり、それが原因で命を落とす女性も多かったといわれます。
無事な出産と成長への祈りが、雛人形という形を生み出していきました。
雛人形が飾り物となったのは江戸時代で、次第に立姿から座姿に変化していきました。

ところで 「穢(けが)れ」 という概念には 「おに」 という存在が見え隠れします。
「おに」 にも大きく2種類があり、ひとつは日本古来の 「穏(おん)」 に由来するもので、いまひとつは古代中国が発祥の 「鬼(き)」 です。
大雑把に言えば、「穏(おん)」 は森羅万象の精霊を表し、目に見えない異界の神霊的存在全般をさしますが、「鬼(き)」 は明らかに人の怨みに住した霊魂を表します。
中国からもたらされた 「穢れ」 やそれを 「祓う」 行事は、その後の我が国で 「穏」 と 「鬼」 の融合を生み出したケースがいくつもあるようです。
「人形(ひとがた)」 による祓いにはそうした文化的背景があるのです。

だからといって雛人形と鬼を同一視したり、ことさらに不気味がる心は違っていると思います。
それでは雛人形が可哀想です。もちろん鬼さんも憐れになってしまいます。
節分のときにも書きましたが、鬼だって好きで鬼になったわけではありません。鬼自身、自分の心にある 「鬼の性(しょう)」 といったものにずいぶんと苦しんでいるのではないかと想像します。
節分に豆の力を借りて鬼の中から 「鬼の性」 を追い出してあげたならば、鬼もきっと喜んでくれたことでしょう。
ならば雛祭りは、悲しい背景を持った雛人形を愛でてあげることで人形に込めた人々の願いに心を寄せることができ、目に見える存在と見えない存在が和合して、生命の幸福を祝う行事となるのではないでしょうか。

雛祭り 合掌(あわ)せて祈る 胸のうち

http://www.youtube.com/watch?v=BfMo9Qjwbu8

春一番 [日々雑感]

上りE257・豊田-日野間:撮影;織田哲也.jpg

3月の初日、東京には春一番が訪れました。
私の住んでいる八王子でも20メートルを超す南風が、夕方になって雨が降り出すまで吹き荒れていました。
こんな次の日には西高東低の冬型の気圧配置になりがちで、案の定、明日は真冬に逆戻りの様相です。北国や日本海側では吹雪くところも多いそうです。
今年は雪下ろしの作業中に事故でお亡くなりになる方も増えています。どうぞお気をつけください。

話は変わりますが、関西地方に青春の足跡を残した私にとって、定期的に開かれていた野外音楽イベントで忘れられないものが2つあります。
ひとつは京都・祇園祭の宵山のさらに前日に、円山公園音楽堂で開かれていた 『宵々山コンサート』。
もうひとつが、大阪・天王寺公園野外音楽堂で開かれていた 『春一番コンサート』 です。
もっとも後者は毎年5月のゴールデンウィークに開催されていましたから、気象現象の春一番とは関係ないものと思われます。
『春一番』 は1971年に、『宵々山』 はあとを追って1973年に始まっています。
1971年はちょうど私が高校に進学した年で、まさに大阪市天王寺区の高校でしたから、『春一番』 の開催場所は通学路から少しだけ脇へ逸れた場所にありました。

どちらのコンサートも有名なものですから、内容については Wikipedia などにお任せすることにします。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B5%E3%80%85%E5%B1%B1%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%88
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5%E4%B8%80%E7%95%AA_%28%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%88%29

野外で音楽に親しむというのは独特の味わいがあります。
室内と異なり反響音の手応えといったものは実感しにくいのですが、風と音楽の両方に吹かれている感じがなんとも開放感にあふれています。
もちろんそこにコンサートに参加している一体感も加わって、間仕切りのないあけすけの空間なのに、日常とは明らかに違う空気の流れが展開していきます。
そうした環境で音楽は、耳をすませて聴き入るものでもなければ、全身を波動に預けて没頭するものでもありません。かといって、ただそこに流れているといった意味のないものとは違います。
お酒に例えれば 「ほろ酔い」 でしょうか。音楽にほろ酔いしている感じが、私にとっては 『宵々山』 や 『春一番』 の魅力でした。

そんな経験を最近はしていないなあ、とつくづく思います。春一番の強風に吹かれることはあっても。
いま京都や大阪を訪ねてみたところで、あの日と同じ風の中には立てないわけですから。
思い出の世界に生きていければそれはそれで幸せなのかもしれませんが、あいにくそうは許してもらえません。
新しい情報がどんどん目の前を過ぎていく生活に浸かりきっていますから、「古き良き時代」 などはそのうち、自発的にどこかへ引っ越していってしまうのでしょう。

そんな気分のときは仕事もなにもうっちゃって、吉祥寺の 『いせや』 あたりで呑むのがいいかもしれません。
あ、でも、高田渡さんも、もういらっしゃらないのですよねえ。

http://www.youtube.com/watch?v=LhKwzh-KtP8

3月の季語から [日々雑感]

新桂川橋梁を渡るスーパーあずさ:撮影;織田哲也.jpg

3月の行事といえば、まず 「雛祭り」 が筆頭にあげられます。
雛にまつわる季語には、「桃の節句」 「雛市」 「流し雛」 「白酒」 「菱餅」 などもあります。

雛祭る 都はづれや 桃の月 (与謝蕪村)
掌(てのひら)に 飾つて見るや 雛の市 (小林一茶)

春の 「お彼岸」 の月でもあり、「万燈日」 「お水取り」 「御松明(たいまつ)」 「遍路」 といった仏教に関わる季語のあるのも特徴的です。
また草木では、「蒲公英(たんぽぽ)」 「土筆(つくし)」 「蕨(わらび)」 「菫(すみれ)」 「薇(ぜんまい)」 「春蘭」 「黄水仙」 など。スミレやゼンマイは漢字でこのように書くのですね。

山路きて 何やらゆかし すみれ草 (松尾芭蕉)
蒲公英や 釣鐘一つ 寺の跡 (正岡子規)

ゆるやかに暖かくなっていく季節を表して、「春めく」 「春時雨」 「春雷」 「春疾風(はやて)」 「春嵐」 「水ぬるむ」 など、「春」 という字を冠したものが目立ちます。
「霞(かすみ)」 や 「陽炎(かげろう)」 も、この時期ならではの季語となっています。
「春炬燵(こたつ)」 「春火鉢」 は、寒の名残りを伝える季語です。
そういえば新暦の3月は旧暦では2月にあたります。
2月は 「如月(きさらぎ)」 と呼ばれますが、これは「衣更着(きぬさらぎ)」 に由来する言葉で、春とはいえまだまだ寒さ厳しい日もあり、さらに上着を1枚羽織るといった意味を表しています。

この國を 出ることもなく 春炬燵 (品田まさを)

「山笑ふ」 という季語もあります。
古代中国では 「笑」 は 「咲」 と同義であり、山に花がちらほら咲き始める姿をとらえた言葉です。
ちなみに夏は 「山滴(したた)る」、秋は 「山装う」、そして冬は 「山眠る」 と表します。なんとも日本語の豊かな感情表現に唸ってしまうばかりです。

故郷や どちらを見ても 山笑ふ (正岡子規)

うきうきしがちな心を静めて、季節の移り変わる様をおだやかに見守ってゆきたいものです。

水ぬるむ 岸に微笑む 野の仏
春時雨 路地に土の香 立つ夕べ

http://www.youtube.com/watch?v=sSmnN4VwRS0
春は新たな旅立ちの時

季節の便りは鼻炎とともに③ [日々雑感]

片倉駅205系:撮影;織田哲也.jpg

花粉症を含めたアレルギー性鼻炎を、まあ自分が生まれ持った運命だと思って受け入れてやると、気分は楽になります。
少なくとも憂鬱な気分のままでただただ耐えているよりは、はるかに健康的です。
春の花粉症はだいたい今頃から始まって、スギ花粉の時期に少し重くなり、ヒノキ花粉の時期にピークを迎えます。
毎日鼻をかみ続けているとうっ血するのか、5月のゴールデンウィーク前後のある時、ドバッと鼻血が出て、それで1つのシーズンが終焉を迎えるというわけです。

美しき 名を病みており 花粉症 (井上禄子)

もし今、アレルギー性鼻炎が自分の体からまったくなくなってしまったらどんな気分になるだろうと、ふと考えてみました。
爽快感はあるかもしれませんが、祭りのあとのような寂しさに襲われてしまうと思います。
花鳥風月に鈍感な私にとって、この体質は、季節の移り変わりをいやおうなく覚えさせてくれる、いわば自然からのメッセージみたいなものです。
もちろん環境の悪化を示す警告でもあるわけですが、それにしたって自分に届いたメッセージであることに変わりはありません。
アレルギーを受け入れるということは、それを抱きながら生きていくことを意味します。
と同時に、一種の電話回線を引き入れるようなもので、アレルギーを通じて外界との交信ができるようにもなるのだ、と考えてみたりします。

2月も今日で終わります。
春の訪れが近いことは、私の鼻が教えてくれています。気象庁などよりずっと正確に。

寒明けの 便り舞い込む 杉花粉

http://www.youtube.com/watch?v=CT89tnan5zY
この時代はよく洋画を見に行きました。

季節の便りは鼻炎とともに② [日々雑感]

ロクヨン単機(立川駅):撮影;織田哲也.jpg

花粉症を含めたアレルギー性鼻炎に何の対策もしていない、ということを前回書きました。
マスクくらいつけたら、ともよく言われますが、面倒くさくてやりません。マスクはインフルエンザ大流行の時に使用するものだと決めています。

そもそもアレルギーは異物に対する免疫反応で、生きていくうえでとても重要な生理的機能です。
中にはアナフィラキシーショックを起こすケースもあって、そういう体質の方は大変でしょうが、私の持っている鼻炎などたいした話ではありません。
鼻水やくしゃみが止まらないくらい気にしないでおこうと思っています。病気のように感じて医者通いをしたり薬局を転々としたりする気にはなれません。
むしろ、きちんと免疫作用が働いてくれている証拠ですから、それが多少暴走気味でも感謝したいくらいです。

いつの頃からかは明確にわかっていませんが、自分の体に起こることはすべて受け入れようとい気持ちになりました。
自分の容姿を含めた身体的特徴や体質などについて他者と比べる気持ちが強いと、それが優越感や劣等感の元となってしまうことがあります。
そんな自意識からは解放されたほうが楽なことに気づき、自分の体にあるものや起こること、老化や死であっても納得して受け入れてしまえればいいと考えています。
まあ、不満や不安を感じないわけではありませんが、そんなふうに割り切れるようになりたいと望む気持ちに嘘はありません。

それに、食生活を変えると体質も変わるものです。
私が30代の頃は肉の大食いと酒のがぶ飲みに明け暮れるような生活をしていました。
40を過ぎた頃から、肉の比率を下げて魚や野菜を増やし、酒の飲み方にも多少は気を遣うようになると、徐々にではありますがアレルギー性鼻炎も軽くなったのです。
例えば夜になると鼻がつまり、呼吸困難で眠れないこともしばしばでしたが、食生活改善以降は鼻水は止まらなくてもつまることはなくなり、ずいぶん楽に生活できるようになりました。
40前後には生涯最高体重86kgを記録しましたが、10kgのダイエットにも成功し、現在では74kgあたりをキープしています。(ちなみに身長は178cmです)
アレルギー体質にお悩みの方は、医者通いも結構ですが、ぜひ食生活の面で工夫してみてください。医学界では常識的な話のようです。

http://www.youtube.com/watch?v=4QtJ9PK61EU
1か2、2か3、3か4

季節の便りは鼻炎とともに① [日々雑感]

武蔵野を行く:撮影;織田哲也.jpg

東京に住み始めて5~6年経った頃に鼻炎を患ったのがきっかけで、かれこれ30年近くもこの体質とお付き合いしています。ベテランもいいとこです。
鼻水が止まらないので風邪だと思い込み、医者に行くとアレルギー性鼻炎と診断されました。
「花粉症」 という言葉が広く知られるようになったのは、それから3年ほどあとのことだったと記憶します。
あれよと言う間にこの症状は全国的な広がりを見せ、厚生労働省の調査によれば今では全国民の30%が花粉症患者と見られています。都市部では40%を超えるという、民間企業のデータもあります。

私の場合、最初は春先のスギ花粉が飛散する時期に限られていましたが、その後徐々に範囲が広がり、秋のブタクサや部屋のほこり、寒暖差にまで反応するようになりました。
また後年、スギ花粉への反応は薄くなり、代わってヒノキ花粉に対する反応が強くなりました。これは自分でも不思議な現象です。
とくに冬から早春への時期と、秋が深くなっていく時期に、透明の鼻水が出だすようになり、季節の変化をくしゃみとともに知るわけです。

鼻水はティッシュの大量使用だけですみますが、くしゃみは他人に聞かれてしまいます。とくに私のくしゃみはうるさいと家族から言われます。
多摩ニュータウンの高層階に住んでいたとき、建物の下には幼稚園がありました。
毎朝、私がくしゃみを立て続けに発すると、幼稚園の生徒が声を合わせて 「いーち、にぃー、さーん…」 と数えていました。
そこと別の地区の団地にいたときは、親しいご近所の奥さんが、私が出かけるときも、深夜に帰宅するときも、くしゃみの声で察していたということです。
窓の外で私のくしゃみが聞こえると、「あら、〇〇さんのご主人、いまご帰宅よ」 「もうそんな時間か。じゃあ、そろそろ寝よう」 などと話し合っていたのでしょうか。

鼻炎に関して医者通いをしたのは、最初の3年だけでした。
アレルギー症状を緩和する内服薬と点鼻薬を処方してもらいましたが、使っていると年々症状がひどくなるような気がして、医者に行くのをやめるようになったのです。
この判断が正しかったのか否かはわかりませんが、それから25年ほども私は特別な対策をとらず、無防備で過ごしてきました。
正直言って、こんな症状のためにあれこれ気をまわしたりお金を遣ったりするのが、あまりに馬鹿馬鹿しくなったからです。

http://www.youtube.com/watch?v=YShp24RgxME

モノトーンの風景 [日々雑感]

タキの向こうにDE10:撮影;織田哲也.jpg

私が高校に進学したのは1971年の4月でした。
まさにその頃、「モーレツからビューティフルへ」 というキャッチコピーのTVコマーシャルが、変革の時代の象徴のように流れていました。
人生でいちばん多感な時期でしたから、このころにインスパイアされた感性は私の中で今も日常的に、何かを語りかけている感じがしています。

丸善ガソリンの 「オー・ モーレツ」 は60年代のCFとしてはあまりにも有名です。
丸善の100ダッシュというガソリンを入れた車がハイウェイを、それこそ猛烈なスピードで走り去っていく。
つむじ風が巻き起こり、それが立て看板の中のモデルのスカートを裾を捲りあげて、中が丸見えになる。
そこでモデルが前を押さえながら、「オー・モーレツ」 と、怪しげな声を発するというわけで、マリリン・モンローの 『七年目の浮気』 の1シーンを思わせる内容でした。
CF自体は You Tube にもアップされていますから、 今でも容易に見ることができます。

では、この当時のお父さんたちがモデル(小川ローザ)の白いぱんちーを見て興奮し、明日もモーレツに働く気力を養ったかというと、今になって分析するとまったく違う話です。
そもそもこのCFは高度経済成長期の最後の最後に現れたもので、すでにその頃にはGNP神話は崩れ始めていて、公害問題に代表される社会矛盾が顕著なものとなりつつありました。
「モーレツ社員」 などという言葉は、すなわち 「人間性の喪失」 を連想させるようになっていました。
「オー・モーレツ」 が60年代のCMの代表のように言われることは多いのですが、実際には高度成長の時代を茶化す効果をふりまき、その意味で印象に残るものだったと言えるでしょう。

そんな世相の中に颯爽と現れたのが、富士ゼロックスの 「モーレツからビューティフルへ」 というキャッチコピーでした。
TVCMの内容は、ヒッピーの青年(加藤和彦)が Beautiful と書かれたフリップを手に、のんびりと街中を歩くといったシーンでした。
ここで言う 「ビューティフル」 は美しいとかきれいだという意味では決してありません。
自分らしく自然に生きるという、人生の 「美学」 を指して遣われた言葉です。モーレツ時代に脇へ追いやられていた人間性の回復や個性の肯定といったものをコンセプトとしていたわけです。
このコンセプトは後に 「ふるさと志向」 や 「ゆっくりずむ」 などへと繋がっていきました。
さらには副産物として、いわゆる 「四畳半フォーク」 といった音楽性へと展開していったことも、当時の実体験として深く心に残っています。

なぜこんなことを今になって言うかといえば、近頃の世相、とりわけデジタル社会の脆(もろ)さに、えも言われぬ不安が募るようになってきたからです。
たとえば電車に乗れば、周りではみんなスマホの画面をいじっています。
スマホの向こうにはもちろんワールドワイドに広がる空間があるわけですが、それはあくまで可能性の話。
多くの人がパネルの向こう側に心を寄せているのは、とても狭く閉塞された、「四畳半」 的な世界なのではないでしょうか。
たとえばツイートはもともと 「つぶやき」 という意味ですが、実態は 「ためいき」 として機能しているのではないかと感じてしまいます。
とても息苦しくなるので、私はツイッターからは逃げるように足を洗いました。
私自身がネット社会の優位者であると言う気はさらさらありません。用途を絞っているという意味では、むしろ劣位に属するほうでしょう。
「モーレツ」 も 「ビューティフル」 も、身の丈にあっていないと自分の首を絞めてしまいます。
ちょうど環境破壊が高じて地球が砂漠化していくのと同じように、ネット環境への過度の依存が自分を枯らせてしまうことを、私は身近に恐ろしく感じるようになってきたのです。

華やかな街を歩きながら、突然目の前がモノトーンの風景と化す。
そんな錯覚に襲われて交差点の真ん中で立ち止まってしまうことが、最近ではしばしばあったりするのです。

http://www.youtube.com/watch?v=js3L87Me1ms

漱石の日(らしい) [日々雑感]

多摩都市モノレール松が谷付近:撮影;織田哲也.jpg

今日は 「漱石の日」 だ、と毎年メールをくれる同業者がいます。
調べてみると、当時の文部省が夏目漱石に文学博士の称号を送ろうとしたところ、漱石本人は 「肩書は必要なし」 と言って断った日なのだそうです。
漱石に関しては一通りのものは読んでいますが、マニアと呼ばれるほどではありません。それでも 『こころ』 などには深い感銘を受けた記憶があります。
この博士号の一件にしても、さすが 『坊っちゃん』 の作者だとあらためて快哉を叫びたくなります。

― 山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
知に働けば角が立つ。情に掉(さお)させば流される。意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。―

有名な 『草枕』 の冒頭部分です。
この 『草枕』 は、小説という形を借りて漱石の芸術論が展開されていると言われています。
その意味で、この冒頭部分に続く一節が、私には印象深いところです。

― 住みにくさが高じると、安いところへ引っ越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画(え)ができる。……
……越すことのならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、くつろげて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職ができて、ここに画家という使命が降(くだ)る。あらゆる芸術の士は人の世をのどかにし、人の心を豊かにするがゆえに尊い。―

何かを書いたり描いたりする精神は常に不安定さを求め、 心の落ち着け先を次々と探しながらも、そこが安住の地であるはずがないことを知っています。
つまり自分を、止むに止まれず書いたり描いたりする境遇に落とし込んでいく習性 ― それが表現者としての運命だとわかって甘んじてその運命を受け入れ、人の世のために役立つ道を簡潔に、そして見事に表しきった名文です。
私ごときがこれ以上述べることは、何もありません。

JR御茶ノ水駅または都営地下鉄神保町駅からほんの5分、神田小川町の一角に御茶ノ水小学校があります。
ここはもともと錦華小学校と呼ばれ、幼い日の漱石が通った学校として知られています。
明治大学の裏手で、山の上ホテル(Hill-Top Hotel)から坂を下がったあたりのこの一帯には、多くの文人や芸術家の足跡がいっぱい残っています。
その御茶ノ水小学校のすぐ隣に、BRUSSELS(ブラッセルズ)というビアバーがあります。気が向いたら寄ってみてください。
若いクリエイターたちが夜な夜な、浮世の、もしかするとはかないだけかもしれない話に、白や黒や赤い花を咲かせていたりします。

http://www.youtube.com/watch?v=2kc5_8iXD5U

on the pension [日々雑感]

↓なかなか会えない珍しい車輌です。
事業用検測車輌:撮影;織田哲也.jpg

He lives on the pension.
この英語をどう訳しますか?
「彼はペンションに住んでいる」 と訳されたなら、あなたの英語力は私と同程度、たいしたことはありません。
仕事で扱った文書の中に上記の英文が含まれていました。私も 「ペンションに住んでいる」 と解釈して先に読み進めていくと、どうも話の辻褄が合わなくなってしまったのです。
そこで上の英文に戻ったとき、ふと 「なぜ前置詞が on なのだろう?」 という疑問がわきました。
「ペンションに」 と場所を表す前置詞なら at か in が適切ではないだろうか。
そこで辞書を引いた結果、英語で pension は 「年金」 のことだと初めて知ったのです。
「彼は年金で生活している」 ― これが正しい訳文でした。
「洋風の民宿」 といった意味のペンションは、もともとドイツやオーストリアで使われていた呼称だということも調べてわかりました。
英語では a small hotel とか bed and breakfast と表すのが適切なのだそうです。

英語に関しては、恥をかいたり意図が正確に伝わらなかったりすることが結構ありました。
日本の高校入試のシステムを英語で紹介するとき、「生徒はみな筆記試験を受けなければならない」 といった内容を表すため、私は深い考えもなく次のような英文を使いました。
Every student has to take a paper test.
これを聞いた相手の外国人は、It's in case of a technical high school, isn't it? 「それは工業高校の場合だよね」 と返してきました。
この理由は先ほどの私の英語が、「生徒はみな紙の検査を行わなけらばならない」 という意味を表していたからです。
「ペーパーテスト」 というのは和製英語で、「紙の質の検査」 といった意味だったのです。「筆記試験」 は a written test または a written examination が正しい言い方です。
Every student has to take a written examination. ― このように言わなければいけなかったというわけです。

これ以外にも、3月14日は the White Day だと主張して、怪訝な顔をされたこともあります。そんな習慣は日本にしかないものだからです。
新幹線のグリーン車に案内するとき the Green Car と表していたら、「緑色の車両などどこにもないではないか」 とツッコミを入れられたりもしました。上級の車両を表す場合は、the first class のほうがストレートに通じます。

英語は私にとって仕事に必要な言語のひとつですが、決して得意とは言えません。
若い頃にもっと勉強しておけば……と今さら言っても後の祭りです。
ちなみに 「後の祭り」 は a later festival などではありませんからね。
It's too late for regrets now. 「今さら後悔しても後の祭りだ」 ― このように言います。今日は勉強になりました。

http://www.youtube.com/watch?v=ZpfDt7tF_44
「五拍子」 「五分間の休憩をとろう」 という二重の意味なのですよ、皆さん。

恥ずかしい訂正広告 [日々雑感]

下り『かいじ』八王子駅出発:撮影;織田哲也.jpg

昨夜アップした記事 『廃語の風景⑦ ― 喫茶店のマッチ』 にミスがありました。
× 「眉をしかめて」 → ○ 「眉をひそめて」
お詫びして訂正いたします。(元記事は既に修正済み)

このミスは私にとってあまりに恥ずかしい事態です。
なぜなら若いスタッフや同業者に対して 「こんな表現ミスはするな」 と指導するときに、典型的な悪例として 「眉をしかめる」 を引き合いに出すことがしばしばだからです。
今朝になって読み返したときに発見し、思わずのけぞってしまいました。
もちろん、しかめるのは顔であって、眉はひそめるもの。しかも 「顔をしかめる」 と 「眉をひそめる」 は似て非なるものであります。

中国の 『荘子』 には 「顰(ひそみ)に倣(なら)う」 という故事が出てきます。
春秋時代、越(えつ)の国に西施(せいし:西の村に住む施姓の人)と呼ばれた、中国古代四大美人の一人とされる絶世の美女が住んでいました。
この西施には持病があり、発作を起こして胸を痛め、苦痛で顰(ひそみ=眉間)にしわを寄せることもたびたびです。しかしその姿を見た人たちからは、なんとはかなげな女性の美しさであろうかと、評判はどんどん広まっていきました。
その噂を聴きつけた東施(とうし:東の村に住む施姓の人)は、「私も眉間にしわを寄せたら評判が立つに違いない」 と西施の真似をするようになりました。
ところがこの東施は普段から残念な顔をしていたために、眉をひそめたことによってますます醜くなり、人々はその姿を見ると逃げ去ったとされています。
「顰に倣う」 は 「西施の顰に倣う東施」 という話がもとになっています。

この故事にある 「顰(ひそみ)」 から、「眉をひそめる」 という表現が生まれました。
ここまで判っていながら犯した今回のミスは痛恨きわまりないものです。なぜ書き終えた直後に一度でも読み直さなかったのだろうか。
今夜の夢に顔をしかめた東施が何人も出てきて、どこまでも追いかけられそうな予感さえしています。

http://www.youtube.com/watch?v=qthCca8B4d4

多忙な時ほど無意味なことをしてしまうということ [日々雑感]

武蔵野線・西国分寺駅:撮影;織田哲也.jpg

齢をとるにつれて身についてくる体力というものもありまして、私の場合、徹夜することが若い頃ほど苦にならなくなったというのがそれにあたります。
筋肉が落ちて基礎代謝量の減少したことが関係していると思います。とはいえさすがに2日連続、仮眠だけで過ごすのは厳しくて、ここのところ完全に顎が上がった状態でした。

ところで、昔から私には、多忙な時に限って全く関係のない無駄な行動をあえてとってしまう癖があります。
高校生のとき、明日から期末テストという前日になって無性に小説が読みたくなるという病を慢性的に患い、それこそ徹夜で文庫本を何冊も読破したことが幾度となくあります。
その癖は50歳代後半になった今も矯正できず、〆切を守るのがギリギリという段階に来ているにもかかわらず、わけのわからない衝動に意識が囚われてしまうのです。
普段は訪れないサイトをまわってみたり、ネット対戦型の麻雀を打ったり、カメラの手入れを始めたり、深夜に街を徘徊したりと、気がつけば数時間が経っていることもしばしばです。
それではあまりに無策なので、今回は雑念を追い払うために心静めて座禅を組み、仕事への集中力を取り戻そうとやってみました。
そのままの姿勢で2時間も眠ってしまい、やっぱり自分を追い込む羽目に陥っただけでした。

要するに無駄なことほど楽しいのです。
今やるべきことが目の前にあるときは、誰でも自然にその課題に向かって意識を集中させます。
その集中力をもって余計なことに取り組むわけですから、それが楽しくないはずがありません。
本気のサボリが人生において甘い蜜の味であることを実感すると、今度もまた次もと、果てしない享楽のループに身を任せてしまいたくなってしまうのです。
期末テストの前日に徹夜で読んだ本の内容ほど、鮮烈な感動を与えてくれたものはありません。
「仕事をすることとサボることは同じものでできている」 ― どちらも懸命に生きている証しという点で、このことははっきり言えると確信しています。

追伸:
あのう、これは〆切が守れないための言い訳ではありません。
そもそも私は〆切を破りません。信じてください、ご担当者の皆様方。

http://www.youtube.com/watch?v=oKph3hm0_7k

風呂に入る [日々雑感]

16号バイパス踏切:撮影;織田哲也.jpg

ここのところ本当に忙しくて、なかなかアップできませんでした。
何か思いつけば1記事書くくらいたいした時間はかからないのですが、そのちょっとした思いつきを得る余裕がなかったのです。
体調もそんなに良いとは言えず、ストレスで血圧も上がり気味だったようです。

仕事に気を取られると、ついつい日常生活にかける時間や手間を省いてしまいがちです。
お手軽な外食が多くなり、しかも短時間で少品目高カロリーの飯をかきこみ、睡眠時間が短くなるのに反比例して酒の量は増え、摂取する酸素量より吐き出す二酸化炭素のほうが多くなってしまいます。
なかでも私にとってはいちばん悪いんじゃないかと思えるのが、風呂に入らなくなることです。
誤解なきよう、不潔にはしません。髪や身体は毎日洗うのです、シャワーで。バスタブにお湯を溜めてのんびりつかることをしなくなるのが、ストレス・コントロールに悪い影響を及ぼしてしまうのです。

日本は古来より、禊(みそぎ)によって穢(けが)れを祓(はら)うといった神道思想があり、仏教伝来後も沐浴の行が入浴の習慣と結びついて今日に至ります。
早い話、風呂に入る・湯につかるというのは、米を炊いて魚をおかずに食べるのと同じように、日本人の根本的な生き方に沁みついた習慣だと言えるのです。
『徒然草』 第五十五段には、
「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる (家を作るときは、夏の暮らしを中心に考えなさい。冬はどんな場所にも住むことができる)」
と書かれています。
高温多湿の日本の夏をいかに過ごすかが問題であって、冬の寒さはなんとかしのげるということを表します。
このことの背景にあるのは、夏は行水で汗を流し、冬はたまに湯(もしくは蒸気)をつかって体を温めるといった生活が昔からあったということなのです。

たとえユニットバスでも、お湯を溜めて入るのとそうでないのとでは大きな差があると思います。
寒い冬の日はとりわけでしょう。お湯につかれば理屈ではなく肌で理解できる話です。

http://www.youtube.com/watch?v=mPpdwdOFkRI
たまにはドビュッシー、香でも焚きつめて。

ふたたびの雪 [日々雑感]

高崎区ロクヨン:撮影;織田哲也.jpg

雪のせいで首都圏はまた、多少の混乱が予想されています。
結構降るくせに備えが行き届かず、前回の大雪(1月14日)では首都高速が降雪から3日目にしてようやく全面復旧にこぎつけるなど、都市基盤の脆弱性を曝け出してします。
車を利用しないにしても、アスファルトや駅などの施設の床は滑りやすく、街の中は意外なところに危険が潜んでいたりします。
なので私は、昨日のうちに外回りの仕事はできるだけ済ませておいて、今日はお籠りの日としました。さっさとそう決めてしまった方が、身の振り方に迷わなくてすみます。

お籠りの日は一日中、デスクにかじりつき、PC相手に呟きながら仕事をしています。
たまに気分転換で、ブログを更新したりするのです。
これまでにも日に2度3度、立て続けに更新したことがありましたが、それは暇な日だったからではありません。
むしろPCの前でウンウン唸っているときに限って、ブログの記事を書きたくなってしまうのです。
反対に昨日のように外回りをしていたり、休みが取れて遊びに行ったりしている日ほど、ブログの相手をしていられないというわけです。

いま7時前後ですが、車の走る路面以外のところに、うっすら白く積もり始めています。
そういえば昔、ある友人がお酒を飲んだ帰り道、
「雪はどんなに黒くて汚いものでも、覆い隠して白く見せてしまう」
と投げやりに語っていたのを思い出します。
その友人が当時、裏切りや思いがけない不運に見舞われていたのを知っていたので、私は無言で、ただサクサクと音をたてながら雪の夜道をついて行きました。
私はこのことを、雪が積もるのを見るたびに思い出します。

「しんしんと」 は漢字で書くと 「深々と」 となります。
人の声や物音がしない様子を表した 「しんと」 と相通じる言い方です。
今日はあまり音も立てず、お籠りしながらしんと過ごしてみることにします。

http://www.youtube.com/watch?v=3jgQYo703X8
朝からなんだ、という気もしますが…

生まれ変われる [日々雑感]

青梅特快立川駅進入:撮影;織田哲也.jpg

旧暦では昨日の節分が大晦日ということになります。
ですから 『徒然草』 にある 「追儺(ついな)」 は、一年の締めくくりになる行事なのです。

【『徒然草』 第十九段より一部抜粋】

御仏名(おぶつみょう)、荷前(のさき)の使ひ立つなどぞ、あはれにやんごとなき。
公事どもしげく、春の急ぎに取り重ねて催し行はるるさまぞいみじきや。
追儺(ついな)より四方拝に続くこそおもしろけれ。

(年の瀬の宮中では、御仏名の法要があり、荷前の使いが出発するなど、たいへんおごそかな雰囲気を醸し出している。
公の儀式や行事が次々と、新春を迎える準備と重なって催される様はなんともあでやかだ。
とくに大晦日の追儺(鬼やらい)から元旦の四方拝に続くあたりは眼を見張るように素晴らしい) ― 筆者翻案

人は意識のうえで何度でも生まれ変わることができます。
デカルトが 『Cogito, ergo sum (コギト・オルガ・スム ― 我思う、ゆえに我なり )』 と言ったことは、意識の在り様によって人は自分の存在を規定できることを表しています。
人の在り様は不思議なバランスの上に成り立っています。
善を行いながら悪を生じ、悪を行いながら善を生じる。
善と悪を二元論的に分別できる存在ではなく、善悪の濃いところと薄いところの入り混じった混沌の中で、人はその生を生きているのです。

地べたを這う ― なんてことを今まで幾度か言ってきましたが、
その覚悟があれば生まれ変わることなど、何度もできると思います。
昨日の節分は私にとって、ひとつの行(ぎょう)の境目でありました。
赤児のような気持ちになって、いま、自らの善悪を見つめ直してみたい気持ちになっています。
実際に脱皮でもできれば、ホラ、おれはこんなふうに生まれ変わったよと示すこともできるのでしょうが、そうは都合よくいきません。
生き様を体していくことで証していく、それだけのことです。
哀しい人間の性といってしまえばそれまでですが、だからこそ人と人が交じり合う歓びもあるべきかと思います。

なに、生まれ変わるといったって、半世紀以上も生きてりゃそんなにコペルニクス的転回があるわけではありません。
ほんの少し、ほんの少しばかりの考え方の変化を楽しみたいだけなのです。
この世はなんだかんだあったって、楽しいところです。
うつむいている人がいたなら、心の在り方をどうか変えてみてほしい。
私はあなたに何かできるわけではありませんが、
あなたはあなたのために何かすることができると思います。

http://www.youtube.com/watch?v=0KcUDc4z8qg
けったいな日記ですみません。
気分なおしに 「新年」 を祝う明るい歌でも聴いてください。

鬼の中の “鬼の性” [日々雑感]

京王8000系:撮影;織田哲也.jpg

私、子供のころ 「なんで桃太郎は鬼をいじめるんだろう」 と不思議に思っていました。
鬼が頻繁に里で暴れて人を困らせているのなら、そりゃ退治されて当然なわけですが、そんな理由は私が最初に読んだ絵本には書いていなかったので、鬼が可哀想になってしまったのです。
それは全く根拠のない話ではなく、民俗学的にみると 「鬼」 は 「隠(おん)」 から派生した言葉であり、もともと鬼(土着の民)の土地であったところを、新しく来た種族が取り上げてしまったという歴史を表しているとも考えられるのです。
ちょうどヨーロッパから新大陸へと移住した人々が、ネイティヴ・アメリカンから土地を奪っていった経緯と重なる部分があるわけです。

私は子供のときから、 「鬼は外」 という文句にかなりの違和感を覚えていました。
どこの家庭からも追い出された鬼たちが寒空の下をとぼとぼ歩いている姿を想像して、何やら切なくなった記憶があります。
そういう感情は子供特有のものかと思えばさにあらず、大人になるに従い実際に鬼よりも鬼畜な人間がいっぱいいることを目の当たりにすると、ますます鬼に肩入れしたくなってしまうのです。
鬼を神として祀っている地方もありますが、その根源的な心情をわかる気がします。

鬼と言う存在は、たとえば「神と悪魔」 といった絶対的対立観からは理解できないものでしょう。
仏教的立場では、あなたの心の中にも私の心の中にも、仏もいれば鬼もいるということになります。
鬼そのものが悪いのではなく、鬼の中にある 「鬼の性」 がいろいろな悪さをしてしまうのです。
そうした 「鬼の性」 だけを外に出してしまえるなら、人の心に住する鬼は人にとって、金棒を持った無敵の守護神となってくれるはずなのです。

どうか、あなたの心の中から 「鬼」 そのものを追い出そうとしないであげてください。
心の中にある鬼があなたの強い味方となるように、その鬼の心から 「鬼の性」 だけを取り去ってあげてください。
異形ながら鬼さんも家族の一員と思ってあげてください。清らかな心になった鬼さんと一緒に、今夜は福豆を食べて一杯やってください。
そんな温かな節分から、春への鼓動が少しずつ響いてくるように感じます。

http://www.youtube.com/watch?v=0NQbct_AH60

追伸:
鬼について民俗学的な興味をお持ちの方は、馬場あき子著 『鬼の研究』 をご一読ください。
古い書物ですが、私も多くのことを学ばせていただきました。たいへん優れた考察の良書です。

風の街 [日々雑感]

高架下から:撮影;織田哲也.jpg

俺の左足は踏み出す足
右足は立ち止まる足
だから冬の街角で
右の靴だけが片減りする

北風に晒された地面から見上げる街と
高層のガラス越しに見下ろす街
どちらかが本物の現実なのか
それともどちらも嘘なのか

冬の鳥は垂れ込めた雲に向かって啼き
冬に来る便りには硬い文字が踊る
昔むかしのはるかな友は
今は何処(いずこ)の街の灯を見る

地上には靴音とエロスの唄が響き
ビルの頂上からは夜と昼の境が見える
現身(うつしみ)のあはれは夢に溶け
夢のあとさきを現身が受容する

俺はいつだってここにいる
俺はいつだってここにいる
ただ風の中にたたずんで
ただ心を風に吹かれながら

俺の左足は踏み出す足
右足は振り返る足
だから冬の街角で
右の靴だけが片減りする

http://www.youtube.com/watch?v=rIePRLjn8gs
今もどこかで走り続けている君に

2月の季語から [日々雑感]

冬の新桂川橋梁:撮影;織田哲也.jpg

一月の季語には 「初」 のつくものが多かったですね。二月になると一気に 「春」 のつく語が増えてきます。
「早春」 「春寒」 「春一番」 「春時雨」 「春浅し」 「春きざす」 「春北風」 など。
また、一月に引き続いて 「雪」 や 「氷」 のつく季語も多いのですが、こちらも春に向かっていく風景の中での雪や氷がテーマとなっています。
「雪解け」 「雪消水」 「雪滴」 「薄氷」 「流氷」 「残る氷」 「忘れ雪」 などがそうです。
季節は行きつ戻りつしながら、幼な児の歩みのように移り変わっていく趣きを見せるのです。
「節分」 「豆まき」 「初午(はつうま」 「福参り」 「涅槃会」 「西行忌」 といった行事もあります。
花鳥風月では、「鶯(ウグイス)」 「蕗の薹(フキノトウ)」 「まんさく」 「紅梅」 「雪割草」 など。
旬の味としては、「青柳」 「赤貝」 「蛤(ハマグリ)」 などの貝類や、春菊」 「みつば」 「小松菜」 「百合根」 など香味の強い春野菜が目立ちます。

春時雨 やみたる傘を 手に手かな (久保田万太郎)
節分や 親子の年の 近うなる (正岡子規)

面白いところでは 「猫の恋」 というのがあります。
犬の恋は季語とはされていません。猫だけが季語であるのはひとえに、時に甘ったらしく、時にせつなく、時には猛々しく聞こえるあの独特の鳴き声のせいでしょう。

猫の恋 止むとき閨(ねや)の 朧月(おぼろづき) (松尾芭蕉)
恋猫の 皿舐めてすぐ 鳴きにゆく (加藤楸邨)

首都圏は日中、20度近い陽気となりましたが、今夜半には厳しい寒気が戻ってくるそうです。
心身を健康に保って、この季節の寒さを楽しんでいきましょう。

お湯割りの 湯呑み持つ手の 余寒かな
冬月を 仰いで行くや 長い影

http://www.youtube.com/watch?v=kbbKn7aOrUQ

三寒四温 [日々雑感]

冬の散歩道:撮影;織田哲也.jpg

首都圏はここのところ早春を思わせる陽気が続き、場所によっては一日じゅう富士の峰を拝することもできます。
夜は連日のように、大三角形が冬の夜空を飾っています。
このままゆるやかに暖かくなればいいのですが、そう都合よくはいきません。
明後日からは寒波も再来します。
気温の変動が激しく、それで体調を崩す都会人はそこかしこに見受けられます。

1月・2月・3月は 「行く・逃げる・去る」 と呼ばれ、昔からあっという間に時がたってしまうように感じると言われてきました。
今年も例外ではなく、ついこの前お屠蘇を飲んでいたかと思うと、ドカ雪が降って、ガソリンや灯油がじわりと値上がりしている間に、もう明日から2月です。
「人生は短いと言われる。 しかしそれはわずかな時間しか生きられないからというよりも、 人生を楽しむ時間をほとんど持たないからだ」 (J.J.ルソー)
四季折々の風情、雪月花の風流を楽しむ暇もなく、砂時計の砂だけがやけに早く落ちていくこんな時は、焦りとあきらめが同居しているようなしわがれた気分に苛まれます。
「どこか温泉にでも行きたいなあ」
ああ、またつまらないことを口走ってしまいました。
一瞬、遠いところを見る目になっていましたが、我に返って両目の焦点を合わせた先には、今夜じゅうに仕上げなければならない仕事の企画書があったりするのです。

三寒と 四温の狭間 時は急(せ)く
冬の宴(えん) じきに冷めゆく 煮大根

http://www.youtube.com/watch?v=SncLqQVvdj0

“ルーフトップ” の残像 [日々雑感]

涼天:撮影;織田哲也.jpg

1969年1月30日正午過ぎ。
ロンドンにあるアップル社の屋上に突然ビートルズのメンバーが集まり、ゲリラ的にライブ演奏を始めました。
野次馬が駆け付けたのも当然で、中には梯子で屋上に登ろうとするものまで現れ、警官隊も出動。一時はメンバーとも揉め、電気系統にブランクのできたこともありました。
メンバー全員、女性物の上着を着ていますが、それぞれのご夫人から借りたもの。

このライブは 「ルーフトップ・コンサート(Rooftop Concert)」 と名付けられ、事実上ビートルズの最後のライブ・パフォーマンスとして歴史に残っています。

http://www.youtube.com/watch?v=7kKqg05gXEI
これ以上書くことはありません。聴いてみてください。

『月に吠える』 [日々雑感]

E233武蔵野夕景:撮影;織田哲也.jpg

今夜は満月です。
夜明け近く雪があがり、乾いた冷気に支配された東京の空は、天空にまんまるの穴が開いたような様相を呈しています。

『月に吠える』 は大正6年に上梓された、萩原朔太郎の第一詩集です。
学業に挫折を味わい詩人に転身した朔太郎は、この詩集で与謝野晶子や岩野泡鳴の絶賛を受け、宮沢賢治らに多大な影響を与えたといいます。
文学史の話はさておき、私がこの作品に出会ったのは高校1年生のときだったと記憶します。
私の半生で最も多感な時期であり、深夜放送を聴きながら読んでいました。

「地面の底の病気の顔」

地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。

地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萌えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、
巣にこんがらかつてゐる、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶれるごとくに視え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。

地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。

この詩のあまりの恐ろしさに、一晩中ラジオを点けっぱなしにして眠れなかったことを思い出します。
「地面の底のくらやみにさみしい病人の顔があらはれ」
今でも身の毛がよだつ思いのするこのフレーズは、私の意識の底辺あたりに付着して、ときどきむくむくと動き出しては、私の背筋をその冷たい指先でなぞったりするのです。
もうひとつ、忘れられないフレーズがあります。

「悲しい月夜」

ぬすつと犬めが、
くさつた波止場の月に吠えてゐる。
たましひが耳をすますと、
陰気くさい声をして、
黄いろい娘たちが合唱してゐる、
合唱してゐる。
波止場のくらい石垣で。

いつも、
なぜおれはこれなんだ、
犬よ、
青白いふしあはせの犬よ。

解決しきれていない遺恨をふと思い出し、寝床の中で身をよじりながら 「いつも、なぜおれはこれなんだ」 と呟いてみる。うなされて一夜を過ごすことが時にあります。
それにしても詩人の魂というのは、どうしてこうも残酷な言葉を駆使することができるのでしょうか。
月を見上げながら長い夜になりそうです。

http://www.youtube.com/watch?v=nncpK_ZdmPc
高1で 『月に吠える』 を読んでいたとき、ラジオから流れていた曲です。2009年版で。

飛行機のこと [日々雑感]

スーパーあずさ高尾駅進入:撮影;織田哲也.jpg

鉄道ファンであることを差っ引いても、私は飛行機が嫌いです。
そりゃ、取材でいろいろな場所に行くのに飛行機の利用は欠かせないのですが、それでも嫌いなものは嫌いなのです。
知人に飛行機好きがいて、年間の利用は100回を下らないと豪語しています。マイルを集めるとどうとかこうとか言っていますが、いつもうんざりして聞いています。

飛行機嫌いを公言するようになったきっかけは、はっきりしています。日航123便墜落事故が原因です。
この航空機史上最悪の事故は1985年8月12日、東京発伊丹行ボーイング747ジャンボジェットが圧力隔壁の損傷によってコントロールを失い、迷走したあげく群馬県御巣鷹山の山中に墜落したものです。
詳しい経緯は省略しますが、歌手の坂本九さんや、当時阪神タイガース球団社長であった中埜肇さん、ハウス食品代表取締役の浦上郁夫さんが事故に巻き込まれたこともあって、多くの国民に身近な大参事という印象を与えました。
私にとっては、もっと身近に感じる要因もありました。
実家が大阪にあることから、東京(羽田)発伊丹行きの飛行機というのは、全世界の航空便の中で際立って搭乗する確率の高い便だったのです。
しかも事故前日の同じような時間帯に、私は家族と一緒に全日空便で大阪へお盆の帰省をしていたのです。

ですから大阪の実家で事故の報に接したときは、本当に身の毛もよだつ気分でした。
ひとつ間違えば、私も被災者になっていたわけです。
運悪く痛ましい事故に遭われた方々には、申し上げる言葉もありません。

今は、本州内であれば、移動手段は絶対に鉄道を選びます。
さすがに九州・北海道以遠へは飛行機を利用します。乗ってしまえば腹をくくりますが、いつも命がけの心境であることに変わりはないのです。

http://www.youtube.com/watch?v=4IbM9YqAjnc

終日終夜 [日々雑感]

下り貨レ相模湖駅通過:撮影;織田哲也.jpg

首都圏は晴れていますが、北国では終日、吹雪くそうです。
重大な災害や死傷者が出ないことを祈るばかりです。

「終日」 には 「しゅうじつ」 以外に 「ひねもす」 という読み方があります。
― 春の海 終日のたり のたりかな (与謝蕪村)
現代人の生活の中で一日中といえば24時間をイメージしてしまいますが、昔の感覚では夜明けから日没までを表しました。
「終日」 はさらに 「ひもすがら」 とも読みます。「すがら」 は初めから終わりまでずっとといった意味です。

これに対して日没から夜明けまでを表す言葉が 「終夜」。もちろん 「しゅうや」 とも読みますが、「よもすがら」 という読み方のほうが耳にやさしく響きます。
― 名月や 池をめぐりて 夜もすがら (松尾芭蕉)
耳にやさしいばかりでなく、断然艶のある言い方であることがわかります。

人は本来、日が出ると働き日が落ちると休むという生活が、自然の摂理には合っています。
ところが中には、夜のほうが頭脳や感覚器官が冴えるという悪癖を持つ者もいます。せめて 「夜もすがら」 にならないように気をつけようとは思いますが、気がつくと5時をまわっていたりします。
そんなわけで今、たいへん眠いのです。少し仮眠をとらなければなりません。

【『徒然草』 第百九十一段より一部抜粋】

「夜に入りて、物の映(は)えなし」 と言ふ人、いち口惜し。よろづの物の綺羅(きら)・飾り・色節も、夜のみこそめでたけれ。
昼は、ことそぎおよずけたる姿にてもありなむ。夜は、きらやかに、華やかなる装束いとよし。
人の気色も、夜の火影(ほかげ)ぞ、よきはよく、もの言ひたる声も、暗くて聞きたる、用意ある、心憎し。
匂ひも、物の音(ね)も、ただ夜ぞひときはめでたき」

「夜になると、物事が引き立たなくなる」 などと言う人もいるが、まったく無粋な話だ。あらゆる物事の煌めき・飾り・色彩は、夜にこそ輝きを増すというのに。
昼間は、質素ななりをしていてもかまわないが、夜は、煌びやかで、華やかな服装がたいへん似合う。
人の容姿や表情も、夜の明かりに照らされ、よいところは一層よく引き立つだろう。また話をする声も、夜の暗闇の中で聞こえるとき、言葉遣いに気配りが感じられたなら、心が満たされよう。
ただよう香気や、楽器の音なども、夜にはひときわ美しく感じられるものなのだ。(筆者翻案)

さすが兼好翁、ご明察おそれいります。

http://www.youtube.com/watch?v=DTkEonHgyMk

寒風の通り道 [日々雑感]

残り雪:撮影;織田哲也.jpg

夜道を歩いていると、何か小さいものに追いかけられている気配がして、立ち止まりました。
足を止めてやっと気づいたのですが、背中のほうから冬の風が吹いていて、
枯葉がいくつか乾ききった音を立てながら私を追い越していきました。
ふと、ああ俺という生き物はこの世にたった一人の存在なのだ、
誰も俺に代わって俺の喜怒哀楽を感じてくれる人はいないのだ、ということを思い出しました。
別段、今に限ったことではないのです。
そのことに気づかされるたび、勇気凛々湧きあがることもあれば、お酒の力を借りてなんとかその思いを払拭したいとあがくときもあります。

人は来て 人はまた去る 冬木立
風花や 駅前広場で 星を見る

http://www.youtube.com/watch?v=m6gleyi1aXw
この曲のような恋がしたい、と言っていた人を、私は2人知っています。

「白秋」の時代 [日々雑感]

京王線南平付近:撮影;織田哲也.jpg

古代中国の陰陽五行説によると、人生には 〈青春 → 朱夏 → 白秋 → 玄冬〉 というライフサイクルがあって、今の私は白秋に属するのだそうです。
春夏秋冬それぞれの季節に象徴する色を組み合わせた言い方で、ちなみに玄冬の 「玄」 は黒い色を表し、ライフサイクル上は高齢者に当てはまります。
なるほど、中年になると色気を失くして白い灰のようになり、もっと齢をとると黒くこげついてしまうのか、といった解釈は間違い。
白秋はむしろ秋の実りの豊かさを表し、玄冬は悟りを得るに近いイメージです。

あらためてこのライフサイクルを見てみると、俺はダメだなあとひとりごちてしまいます。
人生の実りがたいしてあるわけでもなく、人の言うことをなかなか素直に聞ける自分ではありません。
心に落ち着きがなくあくせくしているという点では朱夏のイメージも漂いますが、結構ガタがきている部分もあるので、せいぜい 「季節外れの残暑見舞い」 という程度かもしれません。

「青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。
優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦(きょうだ)を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる」
サミュエル・ウルマンという詩人の言葉です。
これを読んで、あなたは希望と勇猛心をかき立てられますか、それとも、よくこんな無責任なことが言えるなあと感心してしまうでしょうか。

http://www.youtube.com/watch?v=dvMa2Rs5xQ8
あの夏の日を恋しと思う
あの夏の日はいずこの空に

ケータイが嫌い [日々雑感]

冬の新桂川橋梁:撮影;織田哲也.jpg

携帯電話を持つようになって何年になるでしょう。
もう何台もの機種を取っ換えてきましたが、今まで一度も携帯電話を好きになったことはありません。
ハッキリ言って 「いっそこんなものなければ」 と思うことのほうが多いのです。けれども持っていないと仕事もなにも進まない世の中になっているので、仕方なく毎日、どこへ行くにも持参しなければなりません。
八王子から中央線に乗って新宿に着くまで、ずーっと携帯やスマホに齧り付いている人もいますが、呆れるばかりです。私などはその間、吉祥寺あたりで一度メールチェックすればおしまい。
あとはひたすら眠るか、本を読むか、頭の中で歌を歌っているか、ブログのネタを探しています。

いま使っている機種はいわゆるガラパゴス携帯で、Panasonic の W61P という2008年春モデルのやつです。ケータイ嫌いの私にしてはいちばん愛着を感じる機種なので、あと10年使えるものならぜひ使いたい。
グラフィックスを扱う関係上、モバイル環境でも大きなデータを授受する必要があるので、スマートフォンや半端なタブレットでは役に立ちません。
それなりにパワーのあるPCを持ち運ぶので、ガラケー1台あれば十分なのです。

ケータイが嫌いな最大の理由は、「誰でもない自分」 でいさせてくれないことです。
ケータイの番号やメールアドレスは首についた縄のようなもので、必ずそこに帰属することを求めるのです。
犯罪者は都会に集まるといいますが、それは都会における個人の匿名性によるものです。田舎ではそうはいかなくても、雑踏の中で容易に匿名の人物になれることが都会の最大の魅力です。
なので、せっかく首都圏に住まいながら、何が悲しくて常時 「誰かである自分」 「どこかに繋がっている自分」 でいなければならないのか、ときどき疑問に思ってしまうのです。

便利は不便、不便は便利。
『不思議の国のアリス』 ではありませんが、一度ウサギを追って穴の中に落ちてしまいたい気がします。
でももし穴の底でケータイが鳴り、「お世話になってます、早速ですが例の件で…」 などと声が聞こえたら、私はいったいどうすればよいのでしょうか。

http://www.youtube.com/watch?v=ym5SIM26JY0
近づけない距離というものも人には大切です。

下を向いて歩く姿に [日々雑感]

bird-0121:撮影;織田哲也.jpg

前回 『地べたより』 という記事を書き終わったあとになって、思い出したことがあります。
木の根っこばかり撮っていた頃、私は 「下を向いて歩こう」 というフレーズを繰り返し心で考えていました。ちょうど50代に入りたての年齢でした。
もちろん坂本九さんのあの有名なスキヤキ・ソングのパロディーです。
「上を向いて歩こう、涙がこぼれないように」 という部分は 「下を向いて歩こう、涙がこぼれてもいいように」
「幸せは雲の上に、幸せは空の上に」 という部分は 「幸せは足下に、幸せは大地の上に」
というふうに言いかえていたのです。
単なる言葉遊びではありません。私自身、「下を向いて歩こう」 という生き方があっていいのではないかと、その頃は真剣に考えていたからです。

なぜそんな考えに至ったかも、今はっきりと思い出しました。あるお寺の高僧の姿に感銘を受けたからです。
その高僧は少し前まで、所属している宗派の教務部長を長年務められていました。教務部長といえば教義の最高責任者という立場で、宗派の代表の次に偉いお坊さんということになります。
その高僧が歩かれているところを、偶然私は間近で拝させていただいたのです。
その姿は、とても位の高いお坊さんが気品を漂わせながら堂々と歩を刻まれているようには、私には見えませんでした。
さほど大きくないお体をやや前かがみにして、足元ばかり気にしながら歩かれている姿は、むしろ権威などまったく感じさせないように気を配られているかのようでした。
さらに気づかされたのは、足元に注意するのは、たとえ蟻一匹でも無駄に殺生すまいという配慮からだったのです。

「下を向いて歩こう」 は、ともすれば自信やチャレンジ精神を失った者のすることのように思われがちですが、必ずしもそうではないことを私はその高僧の姿から学びました。
心の在り方を変えれば、大きな信念を持って下を向いて歩くことができるのです。
長い間、私はこんな大事なことを記憶の彼方に追いやってしまっていました。
前回のブログ記事をきっかけに、やっと思い出すことができました。ありがとうございました。

心の中で合掌しながら、修行の足りない私はまことに不謹慎ではありますが、
今宵いただいているお酒はまた格別なものとなっているのです。

http://www.youtube.com/watch?v=M6K6S-NmBEM
最初の歌詞の朗読は、作詞者・笠木透さんによものです。
長いですが最後まで聴いてみてください。

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